商店街の衰退とおなじくらいに衰退して久しいのは、その商店街にあった銭湯も同様だ。
たとえば、大企業でもおなじ業種のなかで、伸びる会社と衰退する会社があるのは、端的にいえば「経営力の差」なのであるけど、日本人の奥ゆかしさは、そんな「あたりまえ」をいちいち口にはしないものだった。
しかし、残念なことに、奥ゆかしさが変容したのか?それともただ人間の劣化なのか?あたりまえをいちいち口にしないとわからないひとが多数になって、さらに劣化がすすんだら、トンチンカンなことでもこれをいい続けると、むかしは相手にされなくなったものが、美辞麗句にふつうに欺される時代になった。
「巧言令色 鮮(すくな)し仁(じん)」(論語:学而)も、いまでは通じない。
その騙しの美辞麗句には、さまざなまパターンがあるけれど、たいがいが「自然」という、なんとなくでしかない概念がまとわりついているのである。
だから、「自然」を自然にいうひととか、「自然」を連想させる言葉には、特に注意がひつような、いやらしいことになった。
これがまた、ストレス社会の元凶になったのである。
欺されないためには、言葉に注意がいるけれど、いちいち反芻してかんがえるのが面倒だからである。
それで、あきらめていちいちかんがえるのをやめると、急速に「楽」になる。
ただし、どこかで欺されているのではないかと、無意識でも本能的に警戒するから、ついには身体に不調をきたすのである。
不調の真の原因は、深く、以上のようなストレスにあるのだけれども、目先の不調の原因は、「血行障害」にきまっている。
それで、外的な治療に、マッサージとかが有効だとおもわれるのである。
もっとも手軽なのは、温浴であって、「湯に浸かる」ことで全身の血行をよくすることが、第一となり、その後に外的な刺戟をすると、さらに効くことが経験的にわかっている。
ただし、世界の人類文化で、「湯船に湯をはって、これに浸かる」という入浴の習慣は、ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマ、アジアではブータンと日本にしかない、特殊、なのである。
それで、困った人類学者は、「照葉樹林文化圏」という「圏」を発明した。
これによると、当然ながら古代ギリシアは、「外れ値」ならぬ「外れ地」になるし、それでもギリシアを起点にしたら中東の「ハマーム」はどこも蒸し風呂で、湯に浸かる文化は。ブータンに到達するまでなく、さらにその先の間を飛ばして日本に至るのである。
もっとも、江戸時代の江戸で人気の「湯屋」も、蒸し風呂であったから、信玄の隠し湯にあるように、湯に浸かるのはもっぱら、「温泉」での入浴文化のことである。
江戸城大奥で将軍が浸かった風呂は、熱海や伊東の温泉を汲んで船で運んだものを、再加温していた超贅沢であったけど、「将軍家御用」の看板で、「献上する」のも、地元の特権に変換した(他の温泉地にはこの「特権」を与なかった)政治の巧妙がある。
その権威が、熱海と伊東人をして、いまだに繁栄させている、と信じ込ませるのはなんだか罪深い気がするけど、いい過ぎか?
ちなみに、ヨーロッパで温泉大国といえば中央ヨーロッパに位置するハンガリーが有名だけど、ハンガリー人が本気で「湯治」をするとなると、あくまでも「飲泉」であって、「入浴」ではない。
温泉水を薬として飲用するのが、彼の地の伝統医療なのである。
そんなわけで、外国人から日本の特別な文化だと目される、入浴、は、どうしても「温泉」をもって本格とするイメージがある。
しかし、さいきんでは、わざわざ「天然温泉」なる表記をして、さもありなんとなっているけど、「天然温泉」だから「循環」させている、というふつう(温泉資源の有効利用という理屈)まであって、ややこしくなるのである。
これに対して、「源泉かけ流し」がもっとも贅沢で最上級だとしているのは、理解できないことではないものの、源泉の水質は当然にして、温度によって、どう冷ましているのか?もある。
加温ならまだしも、源泉が高温のばあいは、水(水道水)でうめるか、ラジエーター付き冷却塔で冷やすかとで、ぜんぜん設備投資と維持費(「湯守」の人件費も)がちがうのだ。
phが7より小さい酸性ならば、配管の交換だけも、多額の維持費がかかるし、気温との差や雨天などで湯温の感じ方が変わるから、微妙な経験値を要する専門家としての湯守がするバルブ調整が、その時々の快適な湯浴みを決定している。
ために、湯守は統計的知識をもって、最適温度調整という重大事を行っている。
そんなわけで、温泉宿の主人の温泉知らず。という、業界人ならしっている「格言」があるとおり、温泉宿だからといって、温泉の知識が深い、ということもない宿があんがいと多数あるのだ。
横浜に住んでいて、気に入っている「銭湯」がないのも、横浜の衰退を体感することのひとつで、東京の銭湯の「湯の質」にとてもかなわないことがくやしい。
「超軟水」をもって東京の銭湯の湯は「つくられている」一方で、横浜のそれはほぼ水道水か、ふつうの井戸水だ。
すると、地方の温泉宿の主人は、東京の銭湯の超軟水の湯を体験したことがあるのか?という疑問がわく。
典型的温泉知らずなら仕方がないが、自家源泉を自慢するなら、東京人がふだんはいっている「泉質」に無頓着でいいのか?といいたいのである。
しかも、いまや外国人観光客でも、日本文化について興味が深い(こういう層ほど富裕層になる)ひとたちは、裸になることのハードルをクリアしてでも、「入浴体験」を1回でもすれば、かなりの「通」になる時代になっている。
そうした情報は、ネットだけでなく、ちゃんと書籍(たとえ電子書籍でも)になっているのである。
こうした外国語の本を、温泉宿の主人がどこまで読んでいる(翻訳機能を駆使して)のか?も、経営における「差」を作ることは、いうまでもないことなのである。