「はず」の逆は「裏切り」である

昨日の、「大手企業だから安全な「はず」とか、有名企業だから間違いはない「はず」、という「信頼」が逆転して、大手や有名企業「だから」危ないになった」ことを、食を業とする企業の将来、という意味で展開してみたい。

人々の「安全なはず」を、とっくに「裏切っている」からである。

このことの深刻は、「国を挙げて」という状態になって、もはや国家は国民の健康を保持するための仕事はしなくて、国民の健康を売ってでも私腹を肥やしたい者共たちに乗っ取られてしまった。

その典型が、あのワクチン接種の推奨といういい方の強要で、「治験中」なのにこれをいわずに、特別に「許可」したものを、あたかも「認可」したと誤解させたのである。

もちろん、共犯は医師会とマスコミで、診断権の放棄と報道しない自由を謳歌した。

各国で、「薬害」としての集団訴訟もはじまっているけど、国内での訴訟についても報道せずにいるのは、もはや職務放棄にひとしく、企業の社会的責任を報じる資格もない。
ましてや医師会は、薬害そのものを認めない立場をとって、目の前の患者を無視するまでに堕落した。

医師免許そのものの価値が問われているのである。

まだ、インタビューアーとして、芸能人の不倫に厳しかったひとが、自身の不倫がバレたら退職したことの方が、よほど責任感があるというものだ。

少数のまともな医師たち100人ほどが、団結して声を上げはじめているけれど、あくまでも「ネットの中」での話になっているのが、悲惨なのだ。
唯一の希望が、レジスタンスがあった証拠の「デジタル・タトゥー」として後世に残ることである。

そんなわけで、「食の安全」が、「食の危険」になっているのを、誰もいわなくなったのである。

これから、「高級」とか「本物」あるいは「こだわり」を標榜して商売をやってきた店舗やらホテルやらは、どうしていくのか?
「安心と安全」という表明を安易にすると、訴訟になるリスクまであるのである。

つまり、企業の社会的責任とか、企業倫理が、社会から問われるのに、マスコミが同調しないことで、より意思をもった人々からBudweiserのように不買を受けることになる。

それを、SNSを通じて個人が情報拡散させる時代になったのである。

すると、不買の対象となる店舗やホテルなどの経営は、反論が面倒になる。
「エビデンス」を示せ、ということが泥沼化する高い可能性があるからだ。

なにをもって、「高級」とか「本物」あるいは「こだわり」をいうのかの定義たる「ハードル」が下がって、商売の基本中の基本である「安全」になってしまったのである。
けれども、ハードルが下がったのではなくて、「仕入れている食材の安全」というあたらしいチェックポイントに人々の興味が移ったことは、かえってハードルを一気に高めている。

なぜならば、流通している食材は、それぞれに検査済みという関所をこえてきた物、という社会の仕組みが「あった」からで、ゆえに、「仕入れ食材の品質」とは、味や見た目と価格の3点セットが満たされていれば、仕入れ担当者としては十分に存在価値があったからだ。

もちろん、「偽装」が事件になったのも、こうした関所を破って、あってはならない流通をさせたことを「犯罪」として社会が認知したからであったけど、おどろくほど多数の食材が、いまではかつての「偽装」レベルに落ちてしまったのである。

すると、国家ぐるみでハードルを相対的に高くしたというのが正しく、対象たる食材の安全がかんたんに確保できないことに原因がある。

つまり、消費者は、これらを確認する、あるいは安全を確保するためのコストも負担しないといけない世の中になったのである。
これで、おなじ食材でも、安い食材と高価な食材とに二極化することで、かつてない富裕層のための別経路がうまれるはずである。

さてはその原点に、農業つまり、農地における土からして安全なのか?という問題にいきつく。

農業は土作り、というけれど、ちゃんとした土にするのにひと世代30年はかかる。
これが「効率が悪い」から、「化学物質」を投下するので、永久の「痩せ地」になるのである。

もちろん、日照時間も含めて気候が影響するのが農業だ。
それで、わが国では、「作付け計画」が実施されていて、どの農協はなにを作って、出荷する時期(時間と期間)も決められている。

農家は、勝手に好きな物を作っても、農協が受け付けないので、納品できないし、農協が受け付けることの意味に、「安全性検査」も含まれている。
だから、自主的に販売しようとしたら、自分で博士級の知識に基づく検査をしないといけないのである。

こうしたことから、家庭菜園で作った作物は、一般販売してはならない。

しかも、行政が用意する家庭菜園(よく「市民農園」とかといっている)は、年毎に抽選で区画を強制移動させるので、前のひとがどんな「化学物質」を撒いた土なのかの情報(汚染度合い)も提供されないのである。

そうやって作られた作物や外国産の飼料を、家畜に与えるので、家畜の安全性もややこしくなる。

便利な「加工食品」は、概ねすべて、「化学物質」を混ぜていて、国は安全性の認定をしたり、特定保健用食品だと「許可」もしているけれど、どんなレベルの知見に基づいているのかを突きつめれば、よくわからない、という本音が見えてくる。

そんなものを一生かけて食べ続けた人間がいなかったからで、いまは、人生をかけた「実験台」(化学物質摂取の種類や量による発病具合チェック)にさせられているともいえる。

ここにだけ、企業の「ゴーイング・コンサーン(永続性)」の重要な意味があるのだ。
人間の一生の時間をこえて、企業は継続する、からである。

しかして、ほんとうに「未来志向」で、ゴーイング・コンサーンを追及したいなら、言葉でなく行動で示さないと、継続すらできない時代になったのである。

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