堺はザビエルを自慢していた

「歴史を忘れた国民に未来はない」といっていた韓国大統領の朴槿恵女史は、政治的な敵によって収監されてしまった。

もちろん、彼女の父は、 高木正雄こと朴正煕というひとで、第5代~第9代韓国大統領であった。
ゆえに、槿恵女史の本名は高木桜子という。

本名と「通名」が逆転したのは、届け出制だった朝鮮に対して、許可制だった台湾のちがいも逆転したからである。
同化策で優遇された朝鮮では、無届けで日本名を語ることは許されなかったが、届け出れば許された。
二等国民扱いされた台湾では、届け出るだけでは許されず、役所が審査する許可が必要だったのである。

これが、「有り難み」の重さを変えた。

朝鮮人の「横並び」に関する意識の高さは尋常ではない。
歴代朝鮮王朝の統治方法のためで、これは現代でも同様だ。
それで、近所のみんなが日本名を申請したのを、あたかもしないのは変だという同調圧力をもって、「強制された」というから、そこだけ切り取れば正しい。

コロナワクチンの同調圧力は、日本政府からだったので、将来の日本人はこれを、「強制」というのと似たようなものだ。

桜子女史の素顔がどんなに親日であろうが、政治的な同調圧力で反日を演じたのは、政治家としての判断だから、本人の決定事項だとかんがえるのは日本人の悪い癖で、朝鮮半島に生きるひとたちのすさまじい同調圧力とそれへの同調正義を無視している。
彼の地では、同調圧力にあがなうことは愚かで、同調圧力に先んじて乗っかることこそが優れた政治家の資質なのである。

そんな、桜子女史の発言だから、あなたの口から聞きたくない、という日本人が多数だった。
日本人からしたら、歴史を忘れた国民とは朝鮮人に見えたからである。

しかし、だれがいおうが、日本人は歴史を忘れた国民だというのは、真実なのである。
正確には、強制的に忘れさせられた。

日本史上最大・最強の環濠集落といえば、「堺」である。
この町の政治・行政に、ときの武将たちも歯が立たなかったし、堺を味方につけた武将こそが、「天下人」にふさわしい人物となったのである。

うっかり忘れてしまうことに、秀吉の「刀狩り」以前のわが国は、誰もがふつうに武装していたことだ。

つまるところ、天下人になりたいと願う武将たちは、こぞって「堺」に媚び、なおかつ零落を願った。
しかし、堺の町人たちは、それを見抜いてなお、有望な武将は誰かを値踏みしたのである。
そうやって、パトロンになれば、それはすなわち「政商」としての栄華を確約されたようなものだからであった。

この意味で、堺の先進性とは、武力ではなく財力が全てという哲学だったのである。
その財力と自治の都合から、「刃物」の産地となったし、鉄砲鍛冶も大量生産していたのである。
これが、「堺刃物」として現代に続く。

鉄砲は、当然だが弾薬がないと役に立たない。
「弾」と「火薬」のうち、火薬の原料になる「硝石」は輸入に依存した。
これが、「南蛮貿易」のポイントなのである。

しかるに、西洋のそれとはちがって、堺は精神性や道徳を求めた世界で類のないセレブたちが支配していた。
その「華=中心」が、千利休(田中与四郎)だった。

秀吉はなぜに利休に切腹を命じたのか?
戦国ミステリーの、未解決問題である。

その秀吉は、日本領土と日本人を奴隷売買の対象として、「輸出」までしていたバテレンを追放した。
ザビエルはなにをしに日本へやってきたのか?
当時の宣教使とは、「征服の魁け=情報収集」を努める任務を受けていたのだ。

すなわち、日本を植民地化するための手はずをとる、これが最大の来日理由だ。
スペイン王国とポルトガル王国はそれぞれ、ローマ教皇とトルデシリャス条約を結んでいた。
「新世界」のアジアを切り取るときのルールであって、両国が得た植民地たる新領土を教皇に献げる、というものだ。
もちろん、キリスト教化(=文明化)して、というお約束なのである。

彼らにとって、中南米の原住民を見る目と、日本人を含めたアジア人を見る目にちがいはなく、それは人間ではなかったのである。
だからなにをしてもいい。

しかし彼らが地球を半周して日本に来たとき、たまたま日本は「戦国時代」だったし、縄文以来の文明国だった。
鉄砲が2丁だけ伝来した数年で、世界最大の鉄砲生産国になっていた。
我々には先進技術を用いた武力があるぞ、と伝えたかったはずのザビエルからしたら、とんだ見当違いが起きたのだ。

そんなわけで、初めての「堺」は、ザビエル公園があり、市役所前の商店街入口アーケードの屋根には、南蛮人の人形が見下ろしていて、南海本線堺駅にも、おおきな南蛮人上陸図があった。

なんだか、征服者を称えるような、おそろしく自虐的なのである。

すっかりご先祖たちの頑張りを忘れてしまったようである。
環濠集落は、奈良の今井町もそうだったけど、堺がもしもかつての繁栄を目指すなら、日本からの独立を宣言するくらいの覚悟がいるのである。

奈良県橿原市今井町が語るもの

町全体が保存地区となっているのは、長野県の「妻籠宿」を第一号とする。
正式には、「重要伝統的建造物群保存地区」という。

妻籠の場合は、隣の「馬籠宿」が、文豪、島崎藤村の生家もあってまた、代表作のひとつ、『夜明け前』の舞台でもある観光地として栄たのに対して、「街道」が廃れた明治からこの方、まったく忘れられたことが、「街並み保存」の原因だった。
狭い旧街道の宿場道を自動車ではすれ違いもままならず、高速に通過できないから、国道があたらしくできて、宿場町そのものを回避したから、余計に世間の目から遠のいたのである。

つまるところ、どの家も、近代化の名にふさわしい建て替えをする財力を失って、そのままの家に暮らしていたのである。

それで、とうとう傷みが激しくなったある家を「補修」することになって、どうするか?を近所のひとに相談したことがきっかけ(居酒屋晩酌の話題か?)で、もしやこの街並みそのものに価値があるのでは?に気がついたという。
その気がついたひとが、横浜からの移住者であったというから不思議なのである。

ひたすら「近代化」を追い求めた横浜とは、条約で突如きまった「寒村」での無理やりの一大開発にすぎなかったために、過去を振り返るものが物理的にも存在しない。
つまり、横浜人の「新しい物好き」とは、精神的にも新しいモノしかないという、一種追い込まれた状態のことを指した。

その新しいモノが、とうとう普及しきって、どこにも珍しさを失ったら、横浜そのものが衰退をはじめたのである。
これが、「みなとみらい」なる計画の本性である。
かつての造船大国がその競争力を失い、広大な「三菱横浜造船所」の跡地開発という「あたらしさ」を追及するしかなくなって、鉄とガラスのビル群を「あたらしい」として建てまくったら、すぐさま陳腐化の波にさらわれている。

タイム・スリップしたのは、現実社会からの訪問客で、ここの住人たちには、タイム・ストップにすぎなかったのは、なにも「妻籠」だけではない。

縁あってそんな横浜から妻籠に移住したひとが、たまたま「家の修理」という現実でみつけた「価値」とは、なにもない無機質な横浜を理解していたことの功績であって、わたしには偶然とはおもえない。

宿場町とは、点と線でいえば、点にあたる土地柄だ。
ここは、情報も行き来した。

今井町は、全部で約1500軒がある中で、約500が「伝統的建造物」の町になっている。
ここは、町の周りを「堀」で囲んだ、「環濠集落」という独立地帯なのである。
それにはちゃんと理由があって、「一向宗」の寺院を元にした「寺内町」であった。
つまり、中国やヨーロッパにみられる「城内町」ともいえる。

織田信長の本願寺攻めから、町自体の「自治権」をもって宗教色は薄めたけれど、いわば戦国にあっての「自由都市」となって経済的大発展をとげた。
その名残が、文化財指定となった町屋群なのである。

旧市街と新市街というエリア区分の概念をはっきりさせている国からしたら、今井町は明らかに「旧市街地」にあたる。
そうした視点からすれば、全部の3分の1しか残っていないことに、いまどきの「自由」があるといえる。
「自由主義」の本家にあたる国からしたら、「旧市街」に、近代の好き勝手な家を建てることは、ふつう「禁止」になるのが常識なのだ。

つまり、今井町の「見どころ」は、文化財レベルの旧来の家が保存されていることによる「観光地」ではなくて、この景観を「穢している」どこにでもある近代様式の家が多数点在していて、しかもそちらの方に実際の「住民」がいることだ。

ここで、どうやって現代的な文明・文化的な暮らしと旧来の家との折り合いをつけるのか?という問題になるのは、馬籠とおなじである。

こうした問題を見事に解決したのが、ポーランドだ。
第二次大戦で、「古都クラクフ」以外、ほぼ全土の都市という都市が空爆や地上軍による爆破を受けて木っ端微塵になったのを、驚くほどの正確さで「復元」した。

しかし、これにはレベルの設定があって、外部だけでなく内部も徹底的に復元するものと、外部だけにとどめるものとに分けている。

たとえば、公共施設の代表格である、教会は、その内部にも厳密な復元が実施されていて、爆破から逃れた絵画や写真あるいは過去の小説を含む文章をもって徹底的に「再現」するレベルになっている。
一方で、プライベート空間の住宅用途の建物には、外観はそのままの徹底はあっても、内部は現代の生活を保持することになっている。
内と外はまるでちがうのだけれども、外観からはわからない。

なので、完全復元されたワルシャワ旧市街の集合住宅は、東京の「億ション」レベルの価格だけれど、供給が増えっこないので需要過多になっているのは当然なのである。

妻籠は、どこまで意識したかはしらないが、結果的にポーランド方式になっている。
この意味で、今井町は、わが国の近代とおなじ自由をとり違えた歩みが想像できる残念があるのだ。

もちろん、全国どこでも、「まともな情報が期待できない」という共通があるので、ご多分に漏れず「橿原市観光協会」も、そんな虫食いだらけの町を、自慢するだけの浅はかな表現に終始している。

かつての、強力な自治が残っていたら、こんな無残な町にはならなかっただろうに。

奈良を観光する困難 その2

前回の続き。

「壬申の乱 奈良エリアマップ」のような、「観光コース」を紹介したのは画期であろう。
けれども、順番通りに巡ると行ったり来たりするために、観光の移動効率をかんがえると、どうしても公共交通機関では面倒になる。
それがまた、自家用車の「必要」となって、狭い道が渋滞する。

レンタカー人気もおなじ理由だ。

路が狭いのは、徒歩や馬での移動をもってよしとした歴史背景が、今度はムリに拡幅しなかったことでこうなった。
逆に、開港150年という、ついこないだに埋めたてられた新地にすぎない横浜を想えば、関東大震災や空襲で焼けたチャンスを活かせずに、また都市計画も間に合わなくて勝手に家が建って、街が膨張したことになったことからすれば、まだ、「計画的」なのである。

とはいえ、現代的にいわざるをえないのは、観光事業者がこの難問を解決する唯一の存在だということだ。
しかし、そんな「存在理由」を、どこまでまじめに意識しているのか?が不明の業界のままなのだ。

それに、「奈良・京都」というけれど、現代奈良の観光中心地は、ぜんぜん「都」があった場所ではない。
ときの国家が建てた、総国分寺としての東大寺に、興福寺、春日大社という藤原氏の寺と神社がつくった、「巨大な寺町」なのだ。
この寺勢力を、徳川幕府も無視できずに、「奉行所」を置いた。
これがいまの、奈良女子大学になっている。

正式には、「南都奉行所」で、奉行職は幕府「遠国(おんごく)奉行」の系統にあって、首座は「長崎奉行」だった。
幕府直轄領(御料:幕領:天領)のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務(行政・司法:裁判・寺社の管理)をとりあつかった。
それで、「旧奈良監獄」も近くにある。

ここは、明治4年に奉行所内に「奈良監獄」ができて、1909年に完工していまの場所に移転した。
戦後の1946年に、「奈良少年刑務所」となって、2017年に廃庁した。
2017年に「重要文化財」に指定されたけど、例によって、日本建築学会も「要望書」をだしている。

同時に、法務省は「運営権売却」先として、外資系ソラーレホテルアンドリゾーツ(米国再生ファンド「ローンスター」配下)が組んだコンソーシアムに決まって、ホテルになることが決まった。
ソラーレが撤退して、星野リゾートがこのコンソーシアムに参加している。
高級ホテルとしての開業は、いまのところ2025年の見込みだ。

奈良にはこれといった高級宿泊施設が、奈良ホテル以外に「ない」ことから、富裕層が泊まらないにはじまって、富裕層が来ないになった。
その富裕層のおおくは京都に泊まるのが、「定番」だというけれど、世界レベルの超富裕層は、そもそも日本に来ないという大問題がある。
行政が介入して、「民主主義」をいうから、それが、「共産主義」に転換されて、なんでも「平等」を旨とした「格安」が嗜好されるからである。

そんなわけで、「奈良」という僧侶と商人の街が、廃都平城京の奈良でもあって、もう公家もいなかった。

近鉄奈良駅ロータリーの、「小西さくら通り」商店街を抜けると、三井住友銀行奈良支店のある「三条通」にでる。
これを横切って直進すると左手すぐに、「勇人神社」の小さな祠があって、ここに、この路がかつての「街道」で両脇に、「豪商」が建ち並んでいたとの案内板がある。

この情報を意識しながら歩くと、いまはむかしを彷彿とさせるのは、「駐車場」としてみえてくる。
中でも、「奈良市立第一小学校」だった、いまの「椿井(つばい)小学校」は、1876年(明治9年)に、椿井町の酒造「菊屋長左衛門」の屋敷跡とあるから、その繁栄ぶりがみえてくる。

すると、なぜに商家がかくも没落したのか?という疑問の方が、いまの全国における地方の衰退にも結びつく疑問になる。

一方で、ならば奈良中心部の繁栄を支えているのは、いまだ「寺社」という結論になる。
その象徴が、東大寺・興福寺・春日大社といいたいところだが、じつは「元興寺」なのである。
いまや町歩きで人気の、「奈良町」は、そのほぼ全域がこの寺院の敷地だった。
それがわかる大地図が、無料開放されている「ならまち格子の家」にある。

その奈良町界隈を歩いてみれば、数多くの廃屋があって、どこか異様な雰囲気もあるけれど、これを再建して「カフェ」にするなら、それはそれで、「活性化」というのだろう。

しかして、奈良公園を中心にした「エリア」の駐車場は、驚くほどの料金である。
平日と週末・祝日の料金差は3倍。
管理人がいて料金表示看板を人手で出しているところでは、自動車のナンバーをみて料金看板を差し替える、あからさまもあるという。

梅棹先生が指摘した、観光事業者(この場合は、観光客を相手にする駐車場経営者)による、「掠奪」は、中世の経済体制、「前資本」そのものだともいえるのである。

これが、寺社に依存して「ぶら下がっている」ことの意味である。

有名観光地なら、全国どこにでもあることで、青森の「ねぶた祭」における、ホテルが設定した駐車料金の高額が話題になったこともあった。

すると、衰退と駐車場料金には、なんらかの相関関係があるかもしれない。

たんなる、需要と供給の原則ではない。
狭隘な路がおおい歴史地区の生活者のための駐車場経営と、観光客のための駐車場経営は、なんだかなぁのちがいがあるのだった。

奈良を観光する困難

中学・高校時代の修学旅行以来、奈良市の中心街を観光するのは「うん十年ぶり」だし、ましてや自家用車でやってきたのは初めてになる。
ここで体験してみえてきたのは、奈良観光の難易度の高さ、なのである。

まず、たまたま日程が週末にかかったことで、奈良公園周辺の渋滞を指摘しないといけないし、宿の駐車場問題が深刻なのだ。
これは、地方にあって当たり前の、乗用車がないと生活できないことと重なって、圧倒的な市街地への流入に対して、これをプールする場所すなわち、面積がないことが原因だ。

古都として、都市設計にはなから駐車場が用意されないのは当然だ。
それで一時、中心部にクルマを入れない策が採られたというけれど、見事に失敗していまに至っているという。
生活空間と観光地が混じっているので、この失敗は想像に難くない。

さらに、「奈良」の場合、都が「京都:平安京(ヘブライ語で「エル・サレム(シャローム)」)に遷都されて以来、ずっと「旧都」だったばかりか、斑鳩宮とか藤原京とかの「飛鳥時代」があって、その前は「古墳時代」がある。
こんもりした山は、みな古墳に見えるが、それがまた「当たり」なのだ。

なので、平城京に至るまでだけでも、ややこしいのである。

そのややこしさを整理しながら観光しないと、なにを観ているのか?がわからなくなる。
つまり、あまりにも分散して点在しながら、時代区分もとぶのである。
これが、京都の一貫性とぜんぜんちがう点だ。

だから、「奈良ファン」にとって、訪れるたびに発見がある、というのは大袈裟ではない。
しかしながら、このことは奈良観光の難易度そのものを言い当てているともいえる。

そして、こうしたややこしさを整理した観光案内が滅多にないのである。

明日香村の飛鳥にある、奈良県立万葉文化館(元は「国立」だった)は、地下の展示は無料で見学できる。
ここに、「壬申の乱 奈良エリア」と称する、マップが展示されていた。

大海人皇子が吉野宮を脱出するところを「1」として、奈良印傳のある菟田が「2」とはじまって、「8」まで続く。

本稿は続く。

超絶技巧の奈良印傳

革製品のなかでも、バッグや財布などの小物類をつくる伝統的技法に、「印傳」がある。
前に、「甲州印伝」について書いたが、この度は、奈良県の一家にだけ残る、「奈良印傳」(宇陀市、菟田野:うだし、うたの)の工房兼直売所を訪ねたので書いておく。

世界的に有名な歴史学者のひとり、アーノルド・ジョゼフ・トインビー教授(1989年~1975年)は、世界史における「日本文明」の独自性について語ったことでも有名になった。
敗戦によるショックから、それでも立ち直れないのは、民族的レベルで発生した、急性アノミーだと分析したのは、小室直樹著『危機の構造』(1976年)であった。

いい悪いということではなくて、およそ「文化の発展」には、「パトロン」の存在が不可欠なのである。
パトロンになりえるのは、かつて、王侯貴族やらの支配階級のひとたちが、その特権なり階級のシンボルとして欲し、自らスポンサーとなって、優れた職人を育てたのである。
これは、一種の投資でもあった。

よって、ただ高価だ、ということではなくて、階級的に所持すら許されない、というものもあった。
これがまた、その階級の間で認知され、シンボル化すればなおさらに、それ以外の階級との「区別」のためのサインになった。

日本人がしる最も有名なアイテムが、水戸黄門の「葵のご紋」が入った、印籠なのである。

あの小さな、薬入れの小物にどんなシンボル性があるのか?を問えば、徳川将軍家という最高権力者のマークがあるシンボルだ。
ゆえに、このアイテムを所持している人物とは、自動的に最高権力者に近しい、という判断になって、触らぬ神に祟りなしとしての従順の意思を示すために、一同が土下座する。

いわば、生殺与奪の権限を自ら放棄し、権力者におもねることがもっとも身の安全になるという期待の表れなのだった。

そんな存在が、印傳にもいえた。
貴重な鹿革を材料とする印傳は、武士階級のシンボルなので、それ以外が所持することは許されなかったのである。

しかして、この技術のはじまりは、飛鳥時代だという。
その後の天平文化を伝える、奈良の正倉院には、聖武天皇が騎乗の鞍に敷かれたいわばカバーが、印傳なのである。
しかもその、模様を描いた超絶技巧は、およそ煙でいぶして模様をデザインしたとは思えない複雑な図柄を描いている。

織田信長に謁見したことでしられる、宣教師のルイス・フロイスは、この煙でいぶして鹿革に模様を描く技巧に驚嘆したと、ローマに報告している。
ヨーロッパ人なら、染料で染めることしか発想しないだろうけど、それでは天皇の着衣が汗などで蒸れて色移りが心配される。
いぶしたのなら、その心配はないという。

印傳の分野でただひとりの、現代の名工は、この模様を出す方法を再現するのに、20年の研究を要し、いまだ解明されていない技法もあるという。
これは、京都の「清水三年坂美術館」に収蔵される、明治の超絶技巧という工芸品とおなじ状況なのである。

どうやって製作したのか?わからない。
まったくもって、オーパーツのようなものも残されていれば、気が遠くなるほどに細い糸の痕跡が、まるで江戸小紋の「点」に対して「直線」だけで描いたものなどは、技巧もさることながらその異常ともいえる作り手の集中力に、一種の狂気さえも感じる。

台湾の故宮博物院には、象牙で作られたバスケットや、おなじく何重にも彫り込んだ「球体」の彫刻があるけれど、推定で親子三代ともいう気の遠くなる時間を、ひとつの作品の製作にかけることができたのと違って、この「線」による印傳は、材料の糸が木綿の細い糸であると考えられるから、湿度と気温によって収縮してしまう。

だから、信じられないほどのスピードで革に糸がけをするのは、その面積分をどうやったのか?も、作り手からしたら「異常」なのだと断言するのである。

また、染め抜き技法の印傳から、京友禅に発展したともいう。
どうやって鹿革に、いっさい滲むことがなくピシャリと染めることができるのか?

わたしには、わからなかったが、現代の名工はニヤリと笑った。

正倉院といえば、あたかもシルク・ロードの終着地として、輸入品がおおく保存されているというイメージがあるけれど、じつは9割以上が、「国産」の宝物なのである。

この中で、印傳は、世界唯一無二という技法をようしている。

いったい、当時の日本人は、どんな想いで制作していたのか?
その技法を、どのようにして開発し、後継者に習得させていたのか?
詳しいことは、わかっていない。

まことに、謎めいている。

しかし、武具の部品として、武将たちが好んで印傳を身につけたのは、たとえ首と胴体が切り離されたとしても、その様に無様はいやだという美学を見出してなお、邪気払いの意味もあって、燻す煙に香を混ぜたという。
そうやって、いまを生きた印としたのである。

なんだか、宇宙の果てにある壁に、全生涯の情報が書き込まれている量子力学の話と通じるのである。

武士の都は、幕府が置かれた江戸だったので、印傳人気は関東以北にあるという。
商人文化の大阪は、財力があっても、所持を許されなかったからだ。
すると、「苗字・帯刀」のなかに、印傳も含まれるのは武具に用いたことによる。

京都でもなく、奈良にこの技術が残ったのは、奇跡ではなくて、「工人のネットワーク」があったためだとおもった。
鹿を仕留めて、革をなめすことからはじまって、分業制になっているのだ。
これをまた、武士社会が必要から求めたのだろう。

そんなわけで、日本人がかんがえたデザインの現代性は、とても天平時代からの伝統的デザインとはおもえない。
これに、ヨーロッパ人が気がついて、奈良まではるばる見学に訪れるという。

知らぬは日本人ばかりなり、になっている。
ヨーロッパのブランド品の価値が、かすむのである。

おそるべし、日本文明。

四日市の焼き鳥

伊勢・志摩が目的地になると、どうしても通過することになるのが四日市だ。
また、時間に余裕ができたので、自動車での長距離移動にも、なるべく高速道路をつかわないようにしている。
これは、高速代が高いことも理由にあるが、街の息吹をせめて一般国道からでも眺めたいことに大きな理由がある。

もちろん、決して事前期待はしない、「道の駅」にも極力立ち寄るのは、買い物がしたいのではなくて、どんな「名産」があるかを確認したいからである。
なので、よい意味で期待が裏切られると、やっぱり立ち寄ってよかった、とおもうし、期待通りたいしたことがないばかりかその寂れた様子をみるにつけ、地元の役所が全面にからんだ、旧ソ連のショップを思い出して、納得するのである。

そんな意味で、道の駅の成功と失敗は、行政の関与度合いと反比例する。

正月休みを2月中に消化しないといけない家内が、定年を間近にしてはじめて、この時期にまとまった休みがとれたので、なるべく雪の心配がない沿岸地方を回ろうと、四日市にやってきた。

途中、岡崎市の、「道の駅藤川宿」に立ち寄った。

岡崎といえば、徳川家康の祖父、松平清康がここに築城した経緯がある。
「家康」という名前は、竹千代にはじまって何度も変えていて、「康」の字があるのは、偉大な祖父の子孫を暗黙に主張しているのである。
また、松平姓を徳川にしたのも、朝廷からの「国主任命」にあたっての有職故実から、源氏の松平ではない、藤原氏の「得川」にするべく、「得」を「徳」に変えている。

家紋の「葵」も、本多氏(こちらは「立葵」のデザイン)が先につかっているので、後付けで「三つ葉葵」とした徳川将軍家としては、葵をつかうデザインは、徳川四天王のひとりだった、本多氏にだけ許していることになっている。

御三家筆頭なのに、とうとう将軍を出さなかった悲劇の尾張徳川家は、筆頭家老が本多忠勝で、忠勝自身も桑名藩主(10万石)であった。
なので、親藩だった四日市(八田藩)も、本多家との因縁は深い。
こちらは、紀州徳川家に縁のある人物が、吉宗によって藩主に取り立てられたからだ。

藤川宿の道の駅では、「和蝋燭」が名産だとして販売されていた。

こうした物品は、民間の店舗なら、ふつう「仏具」の要素をからめて、関連グッズを販売するものだけど、「地元だけ」しかみないので、「和蝋燭」しか売っていない。
線香もなにもないのは、それなりの「潔さ」ともいえるけど、こじゃれた「蝋燭立て」もない。

こうした物品を購入するのは、「道の駅」だから、基本的には観光客である。
ならば、「土産物」ということになるのに、包装のための紙袋はなく、一枚2円の「オリジナル」レジ袋しかないという割り切りに、SDGsに脳を冒された役人のセンスが、テンションを精算時に台無しにするのだった。

むき出しの商品に、購入証明のテープを貼りつけるのは、気持の籠もったプレゼントにならない無粋がある。

そんなことだから、「岡崎城」を見学する気もうせた。
街のシンボルが「城」というのは、150年前に開港しただけの寒村だった横浜からしたら、うらやましいかぎりだけれど、鉄筋コンクリート造りの「城」を城として崇める気にはならない。

秀吉の最初の居城、「長浜城」のちんけと、おなじなのである。

気を取り直して、国道をひたすら走って、四日市についたのは暗くなってからだった。
近鉄四日市駅の周辺は、人口が少ない分、横浜の街より上品で、繁華街もそれなりだった。

工場がそびえるのは、川崎に似ている。

ただ、四日市のひとたち、あるいは名古屋経済圏というべきか?
おそらく、可処分所得のレベルが横浜より高いと感じた。
また、若いひとたちが多い印象も、横浜とはちがう。
しかしながら、中国人女性の客引きの存在は共通している。

初めての土地なので、見当をつけるためいろいろと飲み屋を物色しながら歩いたはての感想である。

それでもって、小さめな焼き鳥屋がよさげなので入店した。
注文した料理がぜんぶ美味かった。

鶏の質がちがう。

残念ながら、いまの横浜には、ちゃんとした飲食店が絶滅の危機にあって、「昔ながら」を探すのがたいへんだ。
気がつけば最後の客になっていた帰りがけ、店主と話す機会を得た。

鶏がちがうようだけど、といったら、こちらには「名産の鶏があります」とのこと。
名古屋コーチンがあるから、名古屋というか愛知県(「愛知地鶏」がある)が鶏の名産地だから、そのつながりがあるのだろう。
ノーリサーチのままとしては、ヒットした。

次回、いつ訪問するかはわからないけど、四日市は焼き鳥だ、と、まるで目黒のさんまのごとく擦り込まれた。

まぁ、何事も最初が肝心なのである。

食育と昆虫食で虐待する

なんでも「無料」にしたがって、それがなんだか「善政」のように宣伝するのは、『共産党宣言』にあるセオリーだと前に書いた。

わが国の政党は、『共産党宣言』の定義にしたがえば、ほぼ「全党」が、名前を変えても「共産党」なのである。
これがまた、自民党、公明党も当てはまるから、手に負えなくなって、日本国民の選択肢はなくなった。

あの「ワクチン」という、よくわからない「注射薬」は、もともと「人口減少を目的としたもの」だと、噂されていたけれど、だんだんとその「効果」が実証されてきて、まだ少数といえども、「禁止措置」をとる、国やアメリカの州があらわれだしたのは、エビデンスに基づいた判断となっている。

わが国における過去の、「薬害」や「公害」は、おおよそ「発症」から3年ほどが経過すると、社会的認知がはじまっていた。
これら過去の例での社会もすでに、「情報化社会」ともいわれていたけれど、それはだいたい、ラジオとテレビの時代であった。

インターネットの時代になったのに、やっぱり3年ほどを要する「鈍感さ」があるのは何故なのか?
しっかり社会学やら、社会心理学の専門家に分析してもらいたいものだ。

敗戦後の食糧事情は厳しく、食うや食わず、だったことはよくしられていることのはずだけど、まともな近代史を教えない、という政策が功を奏して、あんがいと「現代っ子」たちは、自分の祖父母が生きのびてきた食の苦労をしらないし、祖父母もこれを積極的に語らなくなって久しい。

数年前、白昼の電車の中で男子高校生たちが、日本がアメリカと戦争をしたといった友人の一言に、「なにそれ?それでどっちが勝ったの?」と真顔で質問していたのを目の当たりにしたことがある。
アメリカが勝って日本が負けた、という答えに、「ええっー!マジ?アメリカと戦ったんだ?かっちょえー!」に、どうしようもない「教育の失敗」をみた。

しかし、わたしの時代には、「欠食児童」がふつうにいたし、「青鼻」を垂らしてセーターがテカテカになっていた同級生もいた。
なので、小学校では「給食の時間」が、毎日の楽しみだったことになっていたのである。

残念ながら、わたしは給食が大嫌いで、小学校の卒業文集でも、毎日の給食の辛い時間について書き残している。
なかでも、「脱脂粉乳」には格別の「不味さ」という思い出があって、おとなになってあれが、アメリカでは「ブタのエサ」だったことをしって、「さもありなん」とおもったものだ。

けれども不思議と、おとなたちからブタのエサを食べさせられていたこと自体には深い恨みはない。
子供とは、そんな動物なのである。

だから、「フクシマ」での事故で、さまざまな情報隠蔽(たとえば、各地の放射線量データの不開示とか)が、政府によって平然と行われたことの恨みとか、それによる、「風評被害」とか、あるいは、風評被害からの脱却のためにした、「地産地消」とかで、地元産を食べさせられたフクシマとかの子供たちにも、それがどんなおとなの事情からのことかを知る由もなかっただろう。

世界経済フォーラムが推奨をはじめたから、まず「危険では?」と疑って差し支えのないことのひとつが、「昆虫食」だ。

今年の1月にあった、スイス・ダボスでの定例会議も、世界から数千人の参加者たちが、地球温暖化阻止を標榜しながら、プライベート・ジェットでやってきて、会議中はそれぞれの専用自動車にエンジンをかけたまま待機させることをやって批判されても意に返さない。

この「エリート意識=特権階級の自覚」は、現代の「貴族たち」を自己演出してはばからない傲慢さにあふれている。
だから、一般人には栄養があるから昆虫を食べろといって、自分たちはビーフ・ステーキを食べるといってもぜんぜん恥じない。

それで、このひとたちから広告費をたっぷり得る既存マスコミは、こぞって「昆虫食キャンペーン」を張り込んで、情弱な一般人を騙す、いつもの手をつかうのである。
いつものように騙された感覚すらない情弱な一般人は、それが「トレンド」だというバカな流行に自分だけがよるならまだしも、子供への給食にすることも「栄養価が高い」などといって歓んだりする。

パンデミック前の、いまからしたら少しは「まとも」だった日本政府は、内閣府にある、食品安全委員会がそのホームページで、「昆虫食の安全性への問題」(2018年時点で)を指摘している。

しかし、邪悪な世界経済フォーラムのお膝元であるヨーロッパは、すっかりカネでやられているから、おなじ「昆虫食の安全性」について、「問題なし」(2022年5月時点)という「論」をもって最新としている。

いまやアジアを代表する、「先進国」になったシンガポールの「昆虫食の安全性」は、あくまでも「慎重」(2022年10月時点)なのが初々しいのである。
ヨーロッパの「安全」見解にも、自動的に首を縦に振ることはない。

もうアジアを代表する先進国でもない、むしろ途上国へと突き進んでいるわが国は、少しはシンガポール人の根性を持ったらどうかとおもうほどなのだ。

なお、日本人はイナゴは食うがコオロギは食さなかった。
「毒」があると、むかしからしられていたからである。

アジアの先進国だった、むかしの日本人の的確さを、すっかり退化した現代日本人は、すでに学校給食でコオロギ由来の昆虫食を採用しているのである。

なぜにコオロギが食用となれるのか?

それは、見事な「化学的食品添加物」との「混合食品」としたからである。

IWC脱退の快挙とWHO

2019年(令和元年)に、わが国は「IWC:国際捕鯨委員会:International Whaling Commission」を脱退した。

安倍政権の数少ない、「画期」だといえるし、やればできるのである。

それから3年もしないで、IWCは財政危機に陥ったのは、「日本イジメ」をするくせに、活動費は、「日本依存」をしていたからである。

しかし、よく注意しないといけないのは、1946年に、「国際捕鯨取締条約」ができて、わが国は、1951年(昭和26年)に条約加盟していることだ。

わが国が「主権回復」したのは、 1952年(昭和27年)4月28日であるから、この条約に加盟したのはわが国の意思に見せかけた、GHQの命令のはずだからである。

生前、安倍氏が、「主権回復の日」を国民の祝日にしようとしていたことは、十分に重要なことで、たまたまゴールデンウィークの休日が増えて嬉しい、というレベルの話ではない。
「3度目の首相」があったらば、きっと実行していたにちがいないので、「後継者の資格」としてのリトマス試験紙になるはずの政治課題なのである。

つまり、2000年以上前の神武天皇即位とする、「建国記念の日」が、左右両方からなにかと注目されてきたのは、一種の欺瞞工作で、近代史上最大の「日にち」である、4月28日に国民を意識させないための芝居だったのではないかと疑うのである。

そもそも、ペリーが黒船を率いてやって来た理由のなかに、「アメリカ捕鯨船への補給」があったし、これら船舶の遭難した船員の保護と身柄返還があったのは事実だ。
もちろん、最大の戦略課題は、「太平洋ハイウェイ構想」ではあったけど。

しかしながら、アメリカ人が「捕鯨」をした理由は、「鯨肉」が欲しかったのではなくて、「鯨油」が欲しかったのである。
丸ごと捨てる部位がない、わが国の事情とぜんぜんちがう。

なので、「石油精製」の鉱業化学が開発されると、とたんに「捕鯨」をやめたのがアメリカだった。
しかもはなからある、「反捕鯨」の本音とは、「敵国日本への報復」だったから、カネも理不尽な要求も、欧州、米州、豪州の白人国家には「当然」なのである。

そんなわけで、IWCからの「脱退」とは、安倍氏が主張した、「戦後レジームからの脱却」の、唯一の公約実行でもあったと評価できるものだ。

なので、欧米的政治環境なら、ぜったいに別の政党になる、「宏池会」は、安倍派「清和会」とはまったく裏腹の、戦後レジームの継続がその趣旨にあるために、IWCからの脱退で「打ち止め状態」になるともいわれる。

ところが、宏池会の大本は、吉田茂だし、清和会の大本は、岸信介だ。
どちらも、GHQのポチだという共通がある。

ただ、宏池会を旗揚げしたのは、偉大なる宰相、池田勇人であった。

後継者の、大平正芳が首相在任中に死去して、女房役の伊東正義が会津の出にこだわって後を襲わなかった「正義」感があったものを、伊東の代で途切れて空虚な大蔵官僚の宮澤喜一に引き継がれた悲惨がいまに継続(岸田派)している。

吉田が阿片商人、ジャーディン・マセソン商会日本人支配人の「子」として成長したのに対して、岸は、長州閥からの伝統を引きながら、「革新官僚のエース」にして。A級戦犯だったのを、処刑前日にCIAエージェントになる契約で釈放された人物だ。

ゆえに、岸信介⇒佐藤栄作⇒安倍晋太郎とつづいて、戦後レジームそのものの「CIAのコントロール」下にあるはずの安倍晋三が、戦後レジームからの脱却をやり始めたのだから、彼と、実弟の岸信夫の存在は、あちらサイドから都合が悪いことになったのはわかりやすい。

また、「革新官僚」とは、社会主義手法をもって「効率的国家運営」を目指し。「戦時経済=国家総動員体制」を作り上げたひとたちを指すから、吉田と岸は、水と油ほどにちがう。

しかして、近衛文麿から岸やらがつくった「国家総動員体制」が、バブルの崩壊からずっといまも、ダラダラと壊れながらもつづいているのである。

完全分解しない、この体制構造の強靱さよ!

そんななか、WHOが、2024年を目途に決定するという、「パンデミック条約の草案」を発表した。

この「計画」には、あんがいと紆余曲折があって、アフリカ諸国を中心に強固な「反対」があった。
どうしてアフリカ諸国なのか?といえば、「エイズ・ワクチン」という不可思議な薬剤が、WHOによって、乳幼児にまで打たれての被害があったからである。

日本では、邪悪な「国際機関」が、アフリカでワクチン接種の援助になると、ペットボトルのキャップを集めるキャンペーンという、ほとんど詐欺を小学校でもやっていた。
まことに、善意を逆手にとった、悪意しかない。

はたして、「AIDS」とは、ウィルスを原因とする病気なのか?が、よくわかっていないのである。
しかし、「エイズ・ワクチン」は、巨利を製薬会社にもたらした。

この二匹目の泥鰌が、「パンデミック条約」での、「各国政府の主権剥奪」なのである。

いまや、WHOは、拠出金のスポンサーが、加盟各国政府ではなくて、ビル・ゲイツ財団やらの民間団体や中国に依存している。

これを、「公的国際機関」と定義してよいものか?

次の国政選挙の争点は、「WHO脱退」でないと、「憲法第13条」が踏みにじられることになる。
これをおそらく、「護憲派」が推進しようと算段するはずだから、息をするように嘘をつくがごときの邪悪なのである。

とうとう、国民には、自分の命や健康がかかった選挙になるのに、たぶん国民にはしらせない努力をするばかりか、「安心・安全」キャンペーンを大々的にやるのだろう。

港町「横浜遊郭」というカジノ

18日、横浜税関で「長谷川總哲コレクション 税関百五十周年記念錦絵展 特別講演会」があったので出かけてきた。
ちなみに、コレクション所有者で講演者の、長谷川總哲先生は、わたしの恩師である。

60年も横浜に住んでいて、「横浜税関」の館内に入るのも初めてであった。
建物は、今様の「保存建築」で、見た目は旧来の建築を保存しているが、内実は近代(高層)建築になっているという、例のやつである。

東京駅丸の内口は、大がかりな再現がされたのはよかったけれど、たとえば、おなじ丸の内にある、「日本工業倶楽部会館」とか、その先お堀に面した、「東京銀行協会ビルヂング」とか、とにかく古いビルを保存するといって、なんだかなぁ、の無様を「保存」と呼んでいる。

そのまた、恥ずかしい典型が、「歌舞伎座」で、ナショナル・シアターに匹敵する建物が、あんなことになったのは、建築基準法やら税法、はては都市計画やらに、「保存」という概念がないからだ。
これはもう、役人のセンスの問題ではなくて、国会や地方議会が寝ていることに起因する。

街並みごと「復元する」技術は、ポーランドが世界一ではないのかと思うのは、古都クラクフ以外、ほぼ全国の都市が完全破壊されたのを、ありえな正確さで復元した実績をみればわかる。
ワルシャワのそれは、門扉の「錆び」までも復元しているのである。

そんなわけで、税関の旧館3階には、かつてマッカーサーも執務したという、「税関長室」や「大会議室」がそのまま保存されていて、見学できた。
「占領軍」というけれど、「征服者」がいた部屋を有り難がる気分はよくわからないけれど、角部屋の意味は、港を一望できるメリットがあるのはよくわかった。

横浜には、いわゆる「三塔」と呼ばれる「塔」があって、トランプの絵札に模して、キングが神奈川県庁、クイーンが横浜税関、ジャックが横浜市開港記念会館(現在「保存改修工事」中)がある。

そのクイーンの塔の撮影スポットだと三階の窓に案内があった。

浮世絵の技法をもって、写真に相当させたのが、「錦絵」である。
なので、風景だけでなく、珍しい外国人の仕草の一瞬を捉えるようなものもあるのは、「販売戦略」でもあった。

ときに、「横浜」というのは、ほとんどが陸地がない場所で、いま「市中心部」という場所はほとんどが埋め立て地である。
なので、その埋め立ての変遷をしっていないと、どこの絵なのかがわからない。

たとえば、歌川広重の有名な、『東海道五十三次』における、「神奈川宿」は、断崖の急な坂道に家並みが描かれているけど、この崖の下に広がる海は、いまの横浜駅のあたりになる。
開港場と新橋を結んだ鉄道は、『千と千尋の神隠し』にあった、水上鉄道のようなありさまで、海の中を蒸気機関車が走っていたのだ。

じっさいに、幕府とアメリカが結んだ、『日米和親条約』(1854年)からはじまる、わが国の「開国」で、1858年に結んだ『日米修好通商条約』によって「神奈川」の開港が決定した。
この「神奈川」が、いつの間にかに「横浜(村)」になったので、相手国からクレームがはいったのである。

この港は、「神奈川じゃない」と。
ちなみに、いま京浜急行の、「神奈川駅」から青木橋の跨線橋を渡って山側にある、「本覚寺」が最初のアメリカ領事館だった。

JRと京浜急行が走る跨線橋の下は、切り取られた地でアメリカ領事館からは、さぞや港が遠くに見えたことだろう。
それで幕府は、神奈川奉行所を移転させて、「神奈川」には「横浜も含む」ということにした。

横浜税関の位置は、開港以来1回も変わっていない。
ここから海に突き出た、赤レンガ倉庫は、もとは税関の保税倉庫だった。
要は、横浜税関こそ、「港の付け根」に位置していたのである。

それでオランダ領事から、「遊郭」の要請があった。
船乗りにとって、「陸に上がる(上陸)こと」の意味は、いろいろある。

なので、いまの「横浜スタジアム」がある、「横浜公園」を埋めたてた地域を囲って、「港崎遊郭」を建設し、外国人用と日本人用とに内部でも区画したという。
その威容を誇る錦絵が展示されていた。

これはあたかも、「カジノ」なのだ。

かつて東横線高島町駅があったあたりから、京浜急行戸部駅、それに桜木町駅の三角地帯に、火事で横浜遊郭が移転した。
元の地は、横浜公園になって、あらたに「高島遊郭」となって、最大の「岩亀楼」の名残が、「岩亀稲荷」として残っている。

ここも火災で遊郭がいまの「大通公園」にある、伊勢佐木警察署あたりに移転した。
それで、岩亀楼の遊女たちの療養所としての機能がそのまま病院になっている。
移転したのは、「永真遊廓街」で、いまはラブホテル街だ。

いちおう、「カジノ反対」を公約したひとが市長になったので、話はなくなったかのようだけど、港町である限り、ついて回る問題ともいえるのだ。

それにしても、外国政府からの「公式要請」だったことに、時代を感じざるをえない。

「ガリヴァー」の日本旅行記

誰でもしっているはずの「物語」でも、たいがいが「うろ覚え」だったり、そもそも有名すぎてはいるけれど、読んでいないのに読んだつもりになっていたり、あるいは、「絵本」や、子供向けの、「簡略本」で読んだのをもって読んだことにしているものがたくさんある。

たとえば、このブログではおなじみの、『ロビンソン・クルーソー』しかり、『ドン・キホーテ』、あるいは、『千夜一夜物語:(アラビア語は右から左に書いて)ألف ليلة و ليلة‎‎, Alf Laylah wa Laylah』も、その典型例だ。
アリフ:千、ライラ:夜、ワ:と(andの意)で、「千の夜と一夜」になる。

ちなみに、千夜一夜物語の別名、「アラビアン・ナイト」は、文字通り「アラビアの夜話」という意味だけれど、本文の設定は、ササン朝ペルシャの王様に毎夜物語する話になっている。
ペルシャの話で、アラブの話ではないのだ。
その語り部が、王妃シェヘラザードで、リムスキー=コルサコフが同名の交響組曲に仕立てている。

    

これらは、長大な物語という共通があるので、どうしても、端折って読んだことにしてしまうのである。

もちろん、長大ではない短編の物語でも、しっているつもりになることは十分に可能で、たとえば、トマス・モアのあまりにも有名な、『ユートピア』(1516年)を挙げることができる。
この物語の語り部は、「ヒスロデイ(くだらないことをしゃべる男の意)」であった。

「ユートピア」の本意は、「存在しない世界」、「どこにもない」、あるいは、「空想社会」だったのが、いつの間にかに、「理想社会」になってしまった。
この物語は、まったく悲惨な、支配者と被支配者の二分された社会を描いているから、じつは、「ディストピア」なのだ。

だから、ユートピアの逆がディストピアだとすれば、ディストピアこそが「理想社会」になるのだけれど、言葉の定義が初めから歪んでいるので、歪んだままのいい方がふつうになってしまった。
これもおそらく、『ユートピア』を読まないで、勝手に解釈したひとたちが多数だったために起きた、テキトーを起源にしているとおもわれる。

それはあたかも、ハイエクの、『隷従への道』(日経BPクラッシックス版:2016年)にある、ブルース・コールドウェル教授の序文にも、英国の著名な批評家が、「読まずにこの本を非難した記事を書いた」とあるごとくだ。

ところで、『ガリヴァー旅行記』(1726年)の主人公、ガリヴァー船長の名前である、「ガリヴァー」とは、「愚者の意」であると、岩波文庫版を翻訳した平井正穂氏が、「解説」で書いている。
だから、この「風刺作品」は、ヨーロッパ人伝統の、「道化」を用いた狂言回しとなっていて、それはもう、上述の『ユートピア』や『ドン・キホーテ』(1605年)のそれとおなじなのである。

そんなわけで、この長大な物語の「第三編」(「第四編」まである)は、「ラピュータ。バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップおよび日本への渡航記」となっていて、英国へ帰る最後の第11章といってもわずか5ページが、唯一現実世界である「日本」のことを書いている。

この点、『ロビンソン・クルーソー』は、阿片貿易で大儲けしたクルーソーが、黄金の国と聞いた日本を目指す旅を試みるも、台風によって阻まれて結局断念するのとちがって、ガリヴァー船長はほんとうに日本に立ち寄るのである。

しかしその前の、第9章からはじまる、ラグナグでの話が興味深い。
ここで彼は、拘禁されるが、国籍を質問されて、「オランダ」と嘘をつく。
目指す日本が、オランダ人しか相手にしないことをしっているガリヴァーは、ラグナグにおいても、自分の国籍情報(英国人)が日本に漏れを畏れたのである。

そして、このラグナグ国には、「不死人間」(「ストラルドプラグ」という)がいた。

物語はここで、「死のある一生」と、「死の無い生涯」の哲学に展開する。
作者のスウィフトは、英国国教会の主任司祭という高い地位にいたひとである。
しかし彼の生きた時代は、クロムウェルの清教徒革命の後(国教派の衰退)の時代でもあったし、アン女王の後のジョージ一世は、ドイツ語しか話せない君主であった。

つまるところ、「生きる」ことが面倒な時代であった。
日本では、八代将軍吉宗の時代がはじまる少し前にあたる。

そうして、ガリヴァー船長は、日本の南東部、「ザモスキの港」に到着する。
狭い海峡の先北西部に首都「エド」がある、と書いているから。房総半島の「内房」か?
そして、江戸で皇帝に謁見し、「ナンガサク(長崎」)行きを所望しながら、「踏み絵」の免除も申し出る。

さり気に、オランダ語ができたのはライデンで研究したことがあると、「経歴」を述べている。
もしやヨーロッパ最古の日本研究機関、「ライデン大学日本学科」か?とおもったが、創設は1855年だから146年もの「誤差」がある。

長崎の「出島」がオランダとの貿易専門になったのは、1639年だったから、ガリヴァーの「来港」は。70年後という計算になる。
あんがいと、その様子は、アイルランドに住んでいたスウィフトでも知りえたということなのだ。

しらないのは、日本人の方であった。