EU分裂のよき兆候

ハイエクが予言した「EU分裂の宿命」が、いよいよ起きそうな気配である。

このブログで何度も強調してきたハイエクの思想は、「自由主義」である。
それが、「自由放任」の「古典派」とはちがう、「他人から命令されない自由」のことだから、「新自由主義」になるけれど、これをわざと「グローバル全体主義のこと」と誤解させてきたのが、グローバル全体主義者たちだった。

つまり、自分たちの立場を隠すための、隠れ蓑にした。
もっといえば、グローバル全体主義者たちの行動に大義名分を与えるためにつくった敵を、新自由主義=グローバリストだと偽って宣伝したのである。

しかし、狙いどおり世界がグローバル全体主義におおわれ出したら、いよいよ「新自由主義=グローバリスト」という嘘が通じなくなってきて、ようやく「ナショナリストでかつ新自由主義」の正義に陽があたるようになってきたのは、遅ればせ、とはいえ、当然のことである。

グローバル全体主義の原点は、啓蒙主義にあって、それがフランス革命とロシア(共産)革命になって結実した。
だから、ソ連圏の体制転換は、あたかもグローバル全体主義の終焉にみえたのだった。

しかし、ソ連が成立して間もなく、スターリンとの政争に敗れたトロツキー派がアメリカに逃れ、民主党を乗っ取ったことも何度か書いた通りである。
もちろん、この背景の「資金源」に、大富豪たちがいたのは、ボルシェビキを支援したのとおなじ構造である。

「BRICsの組織化と拡大」でも書いた通りで、グローバル全体主義とナショナリスト・新自由主義の対決が露わになってきている。

そのナショナリストの代表格がロシアのプーチン氏だ。

グローバル全体主義者(アメリカ民主党バイデン政権・EU委員会)が「ウクライナ」を仕掛けて、「漁夫の利」のごとくにロシアのエネルギー資源を横取りしようと目論んだのに、プーチン氏は上手をいったために、今度はEUがエネルギー危機になってしまった。

端からみたら、「大マヌケ」なのだけど、アメリカもEUも生産のためのエネルギー資源の不足で、下手をすると「恐慌」になりかねかい、あぶない「火遊び」をやってくれたものだ。

すでに、日本へやってくる「高級ドイツ車」も、その「装備」の多くが省かれてしまって、中身は日本の高級車に断然劣る「ブランド・マーク」だけをまとっている代物に堕ちている。
材料資源がないために、装備できない事態が起きているのである。

日本では知る人ぞ知るが、ヨーロッパの自動車の9割以上がディーゼル車で、ガソリン車なんてほとんどなかったものを、「ガソリン車製造禁止」をそのまま日本にも輸入しようという「おバカちゃん」が政治家にいる。

故石原慎太郎氏が都知事だったときに、ディーゼル車からでる「煤」のボトルを振りかざして、関東8都県に規制を強化したけれど、ヨーロッパでは、そんな「煤」がでない「ディーゼル燃料」しか販売していなかった。
あの地では、日本の「軽油」は売っていなかったのだ。

それゆえに、日本の自動車会社は、ディーゼルエンジンの新規開発をやめてしまった。
ヨーロッパ市場と日本市場では、「燃料」の品質に雲泥の差があることを、燃料品質を公開していない経産省に遠慮して、ほんとうの理由をいえなかったにちがいない。

これがかえって、欧州の自動車メーカーがこぞって「燃費データの改竄」をやった理由なのではないかと疑っている。

しかし、今回のロシア産天然ガスの供給不足は、もっと「ばかばかしい」グローバル全体主義者による「局地的嫌がらせ」の結果が、大ブーメランになった。

ドイツへ天然ガスを供給するパイプラインの定期メンテで、その心臓部にあたる機械の修理をカナダのメーカーに「いつもどおり」依頼したら、カナダ政府とアメリカ政府から、「ロシア制裁違反」を突きつけられて、にっちもさっちも行かなくなった。

驚いたのはロシアよりも、ガスの供給を受けるドイツで、数ヶ月後にせまった「冬支度」のための、ガス備蓄もできなくなったのである。
家庭での凍死を懸念する前に、産業が凍死してしまう。

これも、世界経済フォーラムがいう、「グレートリセット」だというならば、まさに彼らは人類の敵として、その正体をさらけ出したといえるのである。

そんなわけで、一応まだ民主主義のヨーロッパでは、「背に腹はかえられぬ」状態に追い詰められて、ようやくにして一般人に、「脱炭素」やら「SDGs」やらのバカバカしさが認識されだしたので、「グローバル環境派」たちが、政治的苦境に陥るという、よろこばしい事態になっている。

ハイエクは「統一通貨=ユーロ」の危機が、EU(ヨーロッパ)を分裂に導くと予言したけど、「天然ガス」だった。

すでに、EU委員会という「ミニ世界政府」を無視して、加盟各国の一部がロシアとガス供給についての個別協議に入った。
グローバル全体主義者のEU委員長が、「抜け駆け禁止」を叫んでも、凍死の危険が目の前にせまった国民が納得しない。

グローバル全体主義者がやった、コロナの恐怖をあおって接種させたのとおなじとはいえない、もっと強烈な「冬の恐怖」で、グローバル全体主義が大敗北しそうなのである。

奢る平家ならぬ、奢りきったグローバル全体主義者たちにとって、ナポレオン、ヒトラーに続く、歴史上3度目の「冬将軍」だ。
ただこれも、元は「人災」なのであるから、『旧約聖書・創世記』は、宗教を越えて読んでおくとよい、人間の性としての悲惨がある。

人類は、ぜんぜん進歩なんかしていない。

6年ぶりの新型「ポメラ」

キングジムのヒット商品、『ポメラ』(ポケット メモ ライターの略語)のはなしである。

わたしのポメラの変遷は、折り畳み式だった2009年発売の二代目、DM20を「初代」として、2011年発売で初のストレートタイプ、DM100が「二代目」で、いまだに健在・現役である。

7月29日に新発売となった、DM250は、2016年にでたDM200の「強化版」だとアナウンスされている。
価格は、6万円台。

はっきり書けば、購入するつもりはない。
もう11年前になるDM100の「完成度」に、一定の満足があるからである。

もちろん新型に魅力がぜんぜんない、というわけではないが、現機種に特段の「不満」がないからである。
むしろ、いくつかの点で「退化」していると感じている。

わたしが愛用しているのは、液晶画面である。
それが、次世代のDM200から、「e-ink」になった。
このとき店頭で確認してがっかりしたのは、その表示の「遅さ」であった。

視認性に優れていることは認めるが、いかんせん「文字」になるのに一瞬遅れる。
ならば、旧機種がモノクロ液晶でもバックライト付きなので認識の点では困らないから、あえて「e-ink」である必要はない。

次が、電池だ。
これは、わたしの愛用する機種が、乾電池(アルカリ電池とeneloopに対応で単三型2本)なのであるが、おなじくDM200から、充電式になって今回もかわらない。

充電式の難点は、充電切れ時の対処法が厄介なのと、充電池そのものの寿命があって、交換が面倒なことにある。
「名機」を永く使うには、あんがいと乾電池式がよいのだ。

なお、旧機種は電池交換にあたっても別途ボタン電池がデータ保護用にあるために、うっかりしてデータが消える心配もない。

おまけ的ではあるが、Bluetoothがあるので、ipadなどのタブレットと接続すれば、外部キーボードにもなるので、わざわざ重量が増す「マジック・キーボード」などを装着する必要がない。

ただし、ipadで文章作成をするつもりなら、もっと軽い外付けキーボードか、HHKBを利用している。
さらにipad使用時は、スタンドで目線を高くして、肩こり防止にしているのである。

そんなわけで、この三大要素があるために、旧型なれども使い続けているのである。

もちろん、新型の魅力はないわけではない。
そのなかでも、日本語変換エンジンの内蔵ATOKが進化していて、入力支援機能が「付加」されたことは大きい。

また、画面下の表示部に、「文字数」がでるようになったのは、魅力というよりも「当然」ともいえる。
旧機種では、文書作成中でも、その都度メニューから表示させないといけないからである。

字数制限がある原稿には、必須の機能だ。

キーボード配列については、「US配置」が選べるというものの、ハード的に購入時に選ぶのではなくて、ソフト的対応なのが残念だ。

前に、「日本語配列」について書いたことがあるけれど、「ローマ字入力」を基本とするなら、キーボードもUS配列の方が効率がよい。

日本語配列とは、キーボードにある「ひらがな(入力)」をもって「日本語配列」というからである。
たとえば、「A」キーにある「ち」がそれだ。

日本語配列でローマ字入力をするときの決定的問題点は、「ENTER」キーの位置が、右手小指で遠いことにある。
見た目で「2段」になっているけど。

これが、US配列だと、「1段」なのに「左に長い」ため、小指が簡単に届くのである。
しかも、変換のために親指で押す「スペースキー」の位置が、左右対称になるのである。

どうやらポメラの開発者は、「親指シフト」がお好きのようで、その対応もしているけれど、是非とも「本格的US配列」を採用して、キー表示からひらがなをなくしてもらいたいものだ。

新機種には、縦書き対応の「シナリオモード」もあるというけど、こうした多機能化には魅力を感じない。
むしろ、たとえばWindowsだけに対応の『秀丸エディタ』様のせめて二画面表示をするための、横幅いっぱいの画面採用はできないものか?

これがあれば、本文と見出し、本文と脚注といった同時進行が一目瞭然となる。

はっきりいえば、ポメラは入力マシンであって、編集はPCで行うから、とにかく入力が快適ならばそれでよい。
その意味で、上述のUS配列と入力支援、それに「辞書の充実」が欲しいのである。

DM100には、物理ボタンとして「国語:明鏡」「英和」「和英」は「ジーニアス」の各辞書があるけれど、「類語(シソーラス)」が必須なのではないのか?

これら辞書を、ATOKの辞書として変換時に選べるようにするのかもあっていい。
それと、「エディタ」としての入力マシン特化だ。
本音をいえば、『秀丸エディタ』がそっくりポメラになってほしい。

もっと贅沢をいえば、分厚く重量が増しても、HHKBのような「快適な静電容量式キーボード一体型」あるいは、画面を分離できて長時間入力のための姿勢が楽になるようにならないものか?

それでPCへのデータ連携がシームレスならば、テキスト文章作成のためにPCを持ち歩く必要から解放される。

電池式・液晶で6万円程度なら、文句なしに「買い」なのであるけれど。

BRICsの組織化と拡大

「BRICs」とは、2003年にゴールドマン・サックスのレポートで、B:ブラジル、R:ロシア、I:インド、C:中国、s:南アフリカの5ヵ国を、今後の成長が期待できる「新興国」として、投資家に売り出したことを発端とする。

なかでも、このレポートで「大文字」表記している4ヵ国(つまり「s」の南アフリカを除く)は、広大な「資源国」でもあるために、2050年にはGDPで世界上位6ヵ国に入ると予想されたので、大注目を集めることになった。

現在GDPで世界3位に位置するわが国でいうと、既に中国が2位なので、同時期には、世界上位6ヵ国から「外れる」という予想になっていることに注意したい。

BRICsは当初、勝手につけたグループ名だったので、とくに「機構」というものではなかったけれども、その注目度があがったことから、徐々に「機構らしきもの」になってきている。

既に、「首脳会議」は、今年で14回目となり、この会議の下に「フォーラム組織」を形成していて、まさに「ひょうたんから駒」状態なのである。

今年の外相会議は、5月に中国を議長国として北京で開催されて、習主席がオンライン演説を行ったと、スプートニク社が伝えている。
また、翌6月に開催された首脳会議後の同月27日に、イランとアルゼンチンが、「加盟申請」をしたと、翌日の28日付けロイターが伝えている。

なお、同記事で、アルゼンチンの加盟申請については、ロシア外務省の報道官の発言として伝えているから、リークである。

さらに今月4日には、同フォーラム責任者であるプルニマ・アナンド氏が、「トルコとエジプト、サウジアラビアが速やかにBRICsに参加する可能性がある」と、イズベスチャ紙のインタービューにこたえている。

ちなみに、わが国はウクライナに関係して、ロシア政府から「敵対国認定」を受けているなかで、ロシア国防省は26日、大規模軍事演習「ボストーク2022」が8月30日から9月5日まで行われると発表したことに対して次のようにスプートニク社が伝えている。

日本の磯崎官房副長官は28日、日本政府は外交ルートを通じて、クリル諸島南部(日本側の定義では「北方領土」)を今度の演習から除外するよう「強く求めた」と明らかにした。
対して、ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官は、日本政府は太陽が西から昇ることを要求しているのと同じだと揶揄した。

こうした「動き」を、日本の既存メディアは、ほとんど報じていない。

BRICsの「組織的成長」が意味するのは、対米・対西側における明確な「反対」の表明で、これは一義的には「国連秩序の否定」でもある。
このことは、スプートニク社が6月27日に伝えた、中国外交部国際経済問題課課長の名前も記載した発言として、BRICs拡大の目的は新陣営の形成ではない、にその本意が透けて見える。

なぜなら、前月の5月半ば、王毅外相(外交部長)は、中国側はBRICs拡大プロセスの開始を提案すると発言していて、BRICsの開示性と包括性を誇示し、プレゼンスと影響を高め、全世界の平和と発展へ大きく貢献する一助となるとの考えを示している、からである。 

いつもの「ダブル・スタンダード」であるから、かえって「本音」がわかりやすい。

しかしながら、隠された二義的な「ナショナリズムの台頭」という切り口で見れば、「西側=グローバル全体主義」にすると、その対立構造が明確になるのである。

このブログでも書いてきた、習政権の、共産主義・全体主義のなかにある、「ナショナリズム=毛沢東主義」が、鄧小平以来の改革開放路線(グローバル全体主義)と対抗している複雑さを秘めていることを思い出すとよい。
なので、グローバリズム代表格の、ジョージ・ソロスが習政権を容赦なく批判するのである。

ここで、「C国」以外の立場はどうか?をみておくと、ブラジルとロシアは完全な反グローバリズム、インドは中立、南アフリカもどちらかといえば、反グローバリズムだ。

すると、グローバリズムで稼いでいる、ゴールドマン・サックスの思惑を大きく超えたのが、いまのBRICsだといえる。
これは、グローバリズム勢力=国際金融資本やら軍産複合体、世界経済フォーラムからしたら、育ててみたら「ノーコン」になった、を意味するのである。

彼らからしたら『フランケンシュタイン』をつくってしまった。

伝統的に軍産複合体の「手先」である、アメリカ民主党バイデン政権が、高齢の大統領に頭を下げさせてでも、原油の増産を頼み込んだサウジアラビアをして、BRICs加盟に邁進させた「愚策」は、あえて、アメリカを崩壊させて共産化したい、というなら成功しているが、「な、はずはない」反動が共和党の存在だ。

それで、自暴自棄になったペロシ連邦下院議長が、台湾を訪問するかもしれないところまでやってきている。
そこまでして、大陸を刺戟して武器を消費したいのか?
これはもう、ウクライナが「収まっている」からだろう。

とはいえ、「ガス供給のロシア依存」が決定的のヨーロッパ側は、結局のところBRICsに跪かないわけにはいかない。
これは、サウジ加盟後のわが国もおなじなのである。

わが国に「親ロシア政権=ナショナリズム政権」が誕生する気運がみえないのは、国際情勢を国民に伝えない「効果」だといえる。

この点でも、ゴールドマン・サックスの予想をはるかに超えた「凋落」が、わが国に起きるのだろうけど、それがどんな悲惨になるか?
まことに歯がゆいかぎりなのである。

自民党がジェノサイドで起訴される日

こんな、「夢のよう」なことが起きる日が、本当にやってくるのだろうか?

英国では、このたび「辞任」を発表した、ボリス・ジョンソン首相以下の閣僚(コロナ対策に関与した歴代保健大臣)が、昨年12月6日に国際刑事裁判所に提訴され、これが受理されたことは書いた。

この翌月、つまり今年の1月中旬に、英国議会で、ボリス・ジョンソン首相が「突如」、英国政府としてすべてのコロナ対策を「停止する」と発言して、「なんのこっちゃ?」と話題になったけれど、実際に英国政府は首相の発言どおりに、「停止を実施」したのだった。

そして、こないだの辞任表明後には、政府が政府からの独立委員会を設置して、「コロナ対策」における「犯罪」を調査すると発表した。
そこには、「ワクチン接種」に対する「犯罪」も含まれる、と。
さらに、ワクチン後遺症についての政府保障を実施するともつけ加えたのだった。

昨今、世界の報道機関が、恣意的な報道をするために、1月の首相発言と、辞任表明後の「調査開始」との話が、「別々」になっているから、日本に住むわたしには、ほんとうに「別々」のニュースになっていて、関連性が不明だし、そもそも国際刑事裁判所提訴の件との関連も不明なままなのである。

なので、残念ながら、これら一連の出来事は「つながっているかも?」という、状況証拠的なことからの「推論」とならざるを得ない。
それでこの「推論」を、さらに拡大して「妄想」したのが、本稿のタイトルなのである。

よって、「自民党が」というよりも、「与党が」といったほうが正確になるだろう。
ただ、拡大解釈をすれば、「野党も」含んでよい可能性があって、一部の「質問者」としての議員以外は、みな同罪になってもおかしくない。

「英国の事例」からしたら、安倍政権の閣僚から現政権にいたるまでの、首相自身も含む「担当閣僚」と、「党幹部たち」の責任は、グッと重くなるのは当然だ。

よって、ここでいう「調査」と「起訴」の主体は、国際刑事裁判所ということになる。
なお、わが国は英国同様、平成19年(2007年)10月1日に正式に国際刑事裁判所(「ローマ規程」)に加盟している。

それが、「降りてきて」、国家としての対処となったときに、英国のように、政府から独立した委員会を立ち上げるのか?それとも、「検察」を使うのか?になる。

もちろん、わが国の検察も、たいがいの民主国家の検察も、司法行政当局(わが国なら法務省)と一体なので、内閣に属することになる。
よって、内閣が内閣を起訴するという大矛盾に対処できないから、英国は政府からの独立委員会としたのだと認識しないといけない。

すると、民主国家の政府を監視するために存在しているはずの「議会」はどうなっているのか?という問題に「戻る」のである。
つまり、「議会」が、その「党派性」のゆえに、もっといえば、「政治事情=党利党略」から、肝心要の「政府を監視する」機能が失われている、という話になるのである。

しかしながら、議会は多数決をもって決めるので、多数を占める「与党の犯罪」については、当然に「無力」となる。
よって、国民は国民が選んだことによって、とんでもない「害悪」を被ることがある、という現実を目の当たりにする。

わが国がやってきた方法が、2000年以上続いたのは、権威と権力を分けるという世界の常識でははかれない「破格」だったためで、これがまた、国民をして政府を信頼する根拠であった。

つまり、どんなに武力を背景にした権力者といえども、天皇の権威の前には、なぜか無力になったからだった。
それが、真髄は「神威」であった。

「記紀」(古事「記」・日本書「紀」)にある、「神話」を国民が皆信じていたことを前提に、かつ、天皇が絶対的に国民の立場を擁護するために存在し続けたので、権力者が持つ権力の源泉が、天皇による「認証」をもっていないと、国民がエセとして認めなかったからである。

これを、GHQが破壊した。

それなのに、しばらく「惰性」で、国民が政府を信じたのは、天皇の権威を自分たちの誇りとしてみていた世代人がいたからであった。
この世代人が、徐々に小数派になってきて、古来の天皇の権威が弱まったために、わが国は「欧米並み」という次元に堕ちたのである。

なぜかこんな堕落を、「ふつうの国」という。

そんなわけで、政府の役人も「偉くなると」天皇からの「認証官=特別職公務員」になれることも価値が薄れたのである。
なお、「事務次官」は、「一般職」の最高位なので念のため。

これは、わが国が「自浄力」を失った大きな理由なのだ。

ゆえに、英国方式を真似るしかないほどの恥ずべきことを、「新・日英同盟」なぞといって気を良くしている「保守人」がいるのである。
天皇の権威が復活してもしなくとも、またそれが欧米流でも、国民にとって不要な存在になった「権力集団」の自民党は、どこかで起訴される日がやってくるだろう。

さては正夢か、ただの希望か?

その前に、アメリカ民主党の崩壊を目撃できるか?にかかっている。
とっくに自民党は、アメリカ民主党の「日本支部」になったからで、「保守の星」になって待望論が根強い高市早苗氏の「真性アメリカ民主党」的発想と政策論にぜんぜん気づかいない「保守」の脳天気も醒めることだろう。

6800円新築ホテルの完成度

夫婦2人、ツイン・ルームでの1泊素泊まり料金である。

部屋は広く(20平米)、「ツイン」のベッドはセミダブル(1200×2000)が2台ある。
バスルームの床面は、客室と「フラット」で、高級ホテル仕様の建築だ。
また、トイレとべシンの奥に、洗い場付きの風呂になっている。
このため、風呂桶は日本の家庭用タイプの深型で洋風ではない。

デスク周りの機能は充実していて、デジタル時計と温度計付きLEDスタンドがあり、テレビは大型ワイドモニター(三菱電機製)だ。
電源コンセントは3個、テレビ用HDMI端子、有線LAN、充電用USB(タイプA)が2個ある。
もちろん公衆無線Wi-Fiもある。
なお、地元情報はQRコードからの提供が試みられている。

ベッド周りも、室内照明類のスイッチだけでなく読書灯があって、ここにもUSBが2個用意されている。
エアコンは、効率のよい「個別空調」で三菱電機の『霧ヶ峰』、空気清浄機はパナソニック製である。
ワードローブはないが、デザインされた壁にハンガーが6本掛かっていて、シューズクリーナー、ブラシ、靴べらもある。
室内ばきはウレタン製のサンダル型スリッパと使い捨てスリッパの2種類がセットされている。

残念ながら,白色LEDの光源は蛍光塗料によるタイプのはずなので,紫外線が強く目にわるいから使わなかった。

なお、デスクには電話機がある。
今更だけど、携帯電話の普及から電話機のないビジホがあるし、このクラスのホテルの部屋に電話があるのは、「特記」すべきことだ。

その他の機能は、ロビーフロアに集中している。
大浴場、レストラン、自販機、製氷器などだ。
チェックインは、2台の自動チェックイン機で行うが、係員の窓口は検温などのコロナ対策だけだった。

コロナ後はどうするのか?と余計な心配をしたのは、チェックイン機渋滞が発生しても、人間の従業員は無関心を貫いていたからである。

このホテルの立地は、完全に国道に面したロードサイドなので、いわゆるアメリカの「モーテル」である。
なお、高速道路のスマート出口もあって、パーキングエリアのコンビニに裏(一般道)からもアクセスできる「便利さ」がある。

なので、ホテル駐車場は広く、平面駐車場だけになっているが、玄関近くに大型バス用のエリアがあるのも注目である。
そんなわけで、いったん客室に篭ってしまえばすこぶる快適なのである。
ただし、長期滞在向きの機能性はないので念のため。

このホテルをどう評価するのか?と問われれば、「LCCのようだ」といえるのではないか?
この言葉の意味をもっと厳密にすれば、航空機のトイレのようなのである。

運賃が格安のLCCは、「客室」の座席数を稼ぐために激狭状態で詰め込まれるけれども、そうではない会社の「エコノミー」とで比べたら、トイレは同じという機体の設計での仕様変更がないのと似ている。

実は旅客用航空機における客室設計の中で、最難易度なのが「トイレ」なのである。

あの狭い空間に、地上と同様の機能を詰め込むだけでも気が遠くなるのに、水回りのうち洗浄水と汚水を完全に分けながら、高度1万メートルの気圧と温度変化に対応させるのは、素人でもその難易度がわかるのである。
なので、座席の仕様は変更できても、トイレの仕様は変更できない。

わが国の「ホテル文化」で、特筆すべきが「ビジネスホテル」というジャンルになった。
いわゆる、「寝るだけ」という需要を満たすための「機能性に特化した」という意味での進化で、それが「規格化」されたチェーン展開を成功させているのだ。

その見えない原動力が、30年続く「デフレ下」という、日本独特の経済状況にある。
もっといえば、日本人が高単価ホテルを利用できない、という貧困化があるということだ。

しかしながら、「企業努力」によって、2人で6,800円でも「機能性」における満足度を高めている。
こうした「体験」を繰り返したひとたちは、たとえば68,000円のホテルにどんな価値を認めるのか?ということになるのは確実なのだ。

もしそれが、旅客機のトイレと同じだと認識したら、高級ホテルの国内需要は従来通りの成長とはいかない。

もちろん、「円安」という背景も手伝って、外国人には日本円建での「高級ホテル」も割安感があろう。
しかし、おなじ外国人でも、機能性だけを買うとしたら、もっと割安なのが「新築ビジホ」になるのは当然だ。

すると、高級を謳うホテルほど、ビジネスホテルの進化に無関心ではいられない。
「安かろう悪かろう」が崩れてきているのである。
むしろ、高額なほどに、その価値は何か?をこれまでより強く問われ出している。

ちょっと前、「いつかはクラウン」という時代があって、高級車が一番売れていた時期があったのに、「レクサス」ができたら、「クラウン」が中途半端な車種になった。
それが今では、軽自動車がいちばん売れているのだ。

高級ホテルも、「レクサス」かそれ以上を目指してどうするか?が問題になっていて、「クラウン」のままでは淘汰される危険があるということだ。
衝突安全性を除いたら、今の軽自動車の機能性は、かつての高級車を凌駕していることを意識していい。

高級ホテルにあって6,800円のホテルにない、を探すより、6,800円のホテルにあって高級ホテルにない,を先に探さないといけないのである。

「正義」ありきと「後から」正義

決定的な「価値観のちがい」が、このタイトルの通りなのである。

日本人は、最初に「正義」をかんがえて、それを貫こうとする「習性」がある世界的に「特異」な発想をする民族なのである。
一方で世界標準ともいえる、白人系の諸族は、自分たちの欲望を優先させて、「後から」正義を理屈づける性質をもっている。

いわゆる、「勝てば官軍」を地で行くのは白人系諸族なのだ。

よって、「勝った側」と「負けた側」には、決定的な「格差」ができて、勝った側は負けた側を「奴隷」にした。
「完全支配」である。

なので、奴隷にされたら「子々孫々まで」酷いことになるので、戦争における「何でもあり」がルールとなったのである。
ところが、狭いヨーロッパのなかで戦いを繰り返しているだけから、徐々に範囲が拡がって、白人同士と違う人種との戦いになっていった。

その典型的な状況が、モンゴルだったのである。

しかも、モンゴルの強さは圧倒的だったし、支配の巧妙さもあって、これに白人はおののくことになる。
そうやって、白人同士の戦いのルールとしては、負けても奴隷化をしないことにして、異人種が相手の場合は容赦しないと決めたのである。

これが、「人種差別」の人種差別たる理由なのである。

そうやってかんがえれば、ヨーロッパ人がいう「哲学」での「平等」とは、たとえそれが、「人間同士の平等」と表記されていても、そこにある「人間」とは「白人に限る」という暗黙の了解があることに気づくのである。

しかしながら、日本人は、「文字どおり解釈した」ので、欧米白人社会が掲げる「理想」と「現実」の矛盾が、気になって仕方が無い。
気になるどころか「嘘つき」なのではないかと疑うことになった。

神世の世界からこちら、日本人は日本列島に閉じ込められていたので、「嘘はいけない」という、驚くべき道徳観をだれに教わるものでもないのに修得していた。

これが、「自然崇拝」からの結論だったのである。

いまでは、「原始神道」とかといって、近世にできたあたらしい宗教としての「神道」と区別している。
それでも、欧米人には、「原始神道」と「神道」の区別は困難で、「経典がない」ことを理由に、「アニミズム」として一刀両断するのである。

つまり、文字で書いた「経典」の「有無」が、「宗教」としての「定義」にしているのが欧米白人社会の疑いもない「常識」なのである。
だからか、日本人のおおくが「無宗教」を標榜してはばからないことになったのは、「欧米白人社会の基準」だとおもわないといけない。

しかし、おおくの日本人が無宗教だとおもっている背景に、「原始神道」への「深いが薄い信仰」があるために、自己認識しないけど集団行動としての強い参拝要求があるのである。

これが毎年の「初詣」になってあらわれている。

どうして「初詣」に行くのか?についての理由をスラスラ言えないのが日本人の大半で、そこに「経典のなにがし」という記述すら、そもそも存在しない。

あえていえば、年初のすがすがしい雰囲気のなかで、やすらぎの1年間を希求して参拝する、ということだろう。
すると、もっとも「宗教らしい」行為が、初詣にあるということになって、「経典宗教」をはるかに凌駕した「宗教人」たちが日本人といえるのである。

「創世記」の物語にある、7日目の休息を日曜日としたことも、そもそも日本人の生活には関係なかったので、旧暦での生活では、今日は「何日?」はあったけど、「何曜日?」はなかった。

なので、日曜日に神社仏閣に詣でることはなく、たとえば「5の日」とかがいまでも「縁日」になっている。
その日にお詣りすれば、「結縁(けちえん)」するというのは、「仏教」から採り入れているけれど。

そんなわけで、仏教も「経典宗教」だけれども、日本人には「はじめにありき」としての宗教が、ゆるぎなき「原始神道」であるために、ぜんぶの経典宗教がこの「土台」のうえに乗っているのである。

よって、欧米白人社会の基準と、永遠に「水と油」の関係にあるのが日本人だといえる。
むしろ、ニーチェがキリスト教を否定したように、歩み寄ってくるのは「あちら」だという構造になっている。

こうしたことをしっていたかどうかは横に置いて、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」で日本代表団が言った「人種差別撤廃提案」は、欧米白人社会の仲間内絶対基準に対する、根底からの「否定」と「挑戦」だと認識されたのだった。

それからの「世界史」は、脅威を感じた欧米白人社会からの徹底的な日本攻撃になって、とうとう追いつめられたのだった。
その悲鳴が、「開戦の詔勅」であり、人種差別撤廃(植民地解放)を曲げない「帝国政府声明文」であった。

そうして、とうとう「戦争」のルールすら破って、一般市民を虐殺されるまでに及び、みずから矛を収めたのが「終戦の詔勅(玉音放送)」だった。

しかして、欧米白人社会の「外」に置かれたわが国は、滅亡した白人国家たるドイツと根本的にちがって、徹底的な「奴隷化」が行われて今日に至ったのである。

さては時代の節目を迎えて、その欧米白人社会も二分化が著しく、旧来の基準を「保守」するグローバル全体主義と、人類の自由社会を「保守」するナショナリストとの対決が鮮明になってきた。

11月のアメリカ中間選挙が、向こう100年以上の世界を決める、事実上の「決戦」なのである。
わが国の「奴隷化解放」も、この一戦にかかっているから、なんとしても共和党MAGA運動に勝利してもらいたい。

これを、日本人は自発的に「祈る」しかないのか?
いや、9月の沖縄県知事選やら各市の選挙が、あんがいと援護射撃になるのである。

国民の健康を蝕む「健康保険制度」

昨日の、「栄養学は有効か?」の続きである。

前にも書いたけど、あまりにもあんまりで、しかも、日本国民の「自慢」にすらなっているのが、「国民皆保険」という、社会主義制度だ。
これが、典型的な社会主義制度であることも、日本国民は意識していないのだ。

ただし、社会主義が「労働者の味方」だと、これも「洗脳」させられた「労働組合」も、労働者の健康を守るのが健康保険制度だと「確信」しているから、「公的年金制度」という、もう一つの社会主義制度の「制度保証」をした「消費増税」に賛成する「はめ」になったのである。

重要なのは、「選択の自由」があるか?ないか?で、公的社会保障制度に、選択の自由が「ない」ことなのである。
あたかも、病院などを自由に選んでいるように思っても、診療内容に選択の自由がないために、結果に大きな違いがないまでに標準化(=共産化)が達成されたのが、わが国の医療なのである。

共産主義の「租」といえば、カール・マルクスで、彼の論法はヘーゲル哲学の手法である「弁証法」を採用した。

「正(テーゼ)」⇔「反(アンチテーゼ)」⇒「合(ジンテーゼ)」となるとき、アンチテーゼからジンテーゼへの「⇒」を、「止揚(アウフヘーベン)」といって、一種の別次元に「論があがる」のである。

この止揚によってできた「ジンテーゼ」を「テーゼ」として、止揚を繰り返すことで「真理」にたどり着くことを意図するのが弁証法だ。

マルクスの天才は、止揚(アウフヘーベン)をかんがえついたのではなくて、「アンチテーゼ」から「テーゼ」を作り出したことにある。
このイリュージョン的トリックで、頭が良いとされた「論理を嗜好にする」暇人たちの思考回路を破壊したのである。

つまり、彼にとっての「ありき」は、共産主義・全体主義であるけども、ふつうのひとには「ありき」なんてものはない。
ふつうのひとは、「現状」こそ「あるだけ」なのだ。
この「現状」の「漫然とした継続」だけが「ある」。

それゆえに、マルクスは「現状」のことを、「反」共産主義・全体主義として、これを「テーゼ」に置いたのだ。
「彼の」テーゼは、「現状打破の革命」という真逆だけれど、わざと一般大衆の「現状」をしてトリックの「タネ」としたのである。

しつこいが、この「倒置」こそが、マルクス主義理解の「要諦」なのであって、インテリほど騙された「トリック」のタネである。

それでマルクスは、倒置した「現状」に、彼がかんがえついた「新語」を当てはめて「命名」した。
それが、「資本主義」なのである。
なぜならば、彼が「ありき」で構築したのが『資本論』であったからである。

つまるところ、マルクスが勝手に思いついた「(空想)論」の、「論より証拠」として設置した、「幻想の噛ませ犬」が「資本主義」ということだ。
この「幻想=イリュージョン」の道具に、弁証法が採用されたのである。

まったく別の思考アプローチから、「資本主義」が「幻想」だと気づいたのが、アイン・ランドだった。
実は、われわれは、われわれの祖先も含めて、誰一人として「資本主義社会」に暮らしたことはない。

マックス・ウェーバーの世界的に有名な「解説者」、大塚久雄の『社会科学における人間』で「前資本」やら、「前期資本」という、資本主義成立前の時代を解説しているけれど、それは、いまだに「現代社会」のことなのだ。

すると、現代社会は、まんまとマルクスのいう「歴史の必然」にはまり込んで、社会主義に「移行」してしまったということになる。

しかし、それは「資本主義」からの移行ではなくて、むしろ資本主義社会なんて「はじめから成立しているかどうかなんてどうでもよく」、とにかく社会主義社会になればいいという「結果論」なのである。

さすれば、いったん社会主義社会を達成すれば、今度はマルクスの論(唯物史観)に従って、必然的に共産主義・全体主義社会が到来することになって、最終目的が達成されればいいのである。

その実現者たちが、「世界経済フォーラム:ダボス会議」なのだ。

すると、1961年に「国民皆保険」という社会主義を実現した日本こそ、マルクス史観でいう「世界最先端」を実現した国家であったし、これをやった「自由民主党」こそが、日本共産党をダミーとした「本物の共産党」なのであって、ダボス会議の「本体」だ。

それゆえに、竹中平蔵氏(ダボス会議唯一の日本人理事)こそ、真の「首相」に就任した人物で、それが小泉政権をダミーとした2000年のことだったから、健康保険制度も「進化」して、保険点数の厳密化が「医療事務システム」を通じて実現した。

これで「ヤブ医者」が駆逐されたばかりか、全ての医療行為が「点数制度」下に収まったので、「完全平等な医療」が達成した。

もちろんこの「完全平等」とは、受診者=患者にとっての、「完全平均値」を意味するから、その本人の本当の症状や病状は無視され、「データの範囲」でマニュアル通りの治療と投薬が行われるだけなのである。

病院で主治医や看護師が患者の顔色を見ずに、パソコン・データばかりを観ている事情は、一人ひとりの「患者」ではなくて、一つ一つの「データ」になっているからだし、そこでの投薬指示や検温とかの医療行為が、そのまま保険点数計算データベースに照合されて、過剰と不足の判断と、請求書への自動加算がされるのである。

では、「データの範囲」を超えたらどうなるのか?

答えはかんたんで、「不明」ということになって、これ以上の手当は放棄される。

医療保険(点数表)の範囲を超えるからである。

ならば、「データの範囲内」であれば安心か?といえばそうではなくて、そのパターンで決められた治療と投薬が自動的に行われて、「それ以外」は許されず、「それ以外」の医療行為が目に余れば、「保険請求事故」扱いになって、医師は処分の対象になるのだ。

こうして、国民の健康とは「別」に、健康保険による医療行為が行われていても、もはや共産政権下の国民には文句すら言えないばかりか、「世界に冠たる国民皆保険」といって自慢するのである。

これぞ、全体主義なのだ。

栄養学は有効か?

食と健康をかんがえるときに、必須となるのが「栄養学」である。

生物は、栄養を体内に取り込んで生きているから、どんなふうに取り込んで、どんなふうに活用し、どんなふうに排出するのか?という「流れ」が必ずあるものだ。

この「栄養」を、「エネルギー」と読み替えれば、生命体とはエネルギーの流れがある状態という意味になる。
すると、「死」は、このエネルギーの流れが止まった状態になることをいう。

それでむかしから、「死」を「物故」というのは、えらく科学的ないい方なのだ。

人間も動物なので、体外から体内に食物を取り込んで生きている。
この取り込むときにしているのが、「消化」だ。
どうやって消化しているのか?といえば、「化学反応」なので分子レベルでの話になる。

だから、教科書では「分子」の説明から始めようとするけれど、その前に「原子」のことを知っていないといけないので、まずはもっとも単純な「水素原子」の「おさらい」から始めることになっている。

なお、原子を構成している「素粒子」のことまではなかなか触れない。
素粒子に言及すると、「量子物理学」の話になってしまうからだろうけど、「消化」に量子がどうかかわっているのか?についての詳しい説明は「これから」にちがいない。

化学反応を支配しているのが、量子だからである。

水素原子は中心の「原子核」が、1個の「陽子」(量子)で、その周辺に1個の「電子」(量子)が回っていると習う。
もしここで、電子が1個ふえて、2個が回るようになれば、その物質は「ヘリウム」になる。

むかしはこの電子の「軌道」を、「平面」に書いたけど、いまは「電子雲」ということになっている。

こまったことに、量子力学が進歩して、電子の位置が確率でしかなくなったから、「雲のどこか」という位置関係で表現することになったのである。
学問的に「正しい」けれど、初学者にはなんのことだかわからなくなった。

これをビジュアル的に説明する、アニメが普及しないのも不思議なのである。
教科書が「電子化」されても、紙からタブレットで読むだけのちがいなら、目を酷使するだけのちがいともいえて、進化がない。

なんだか、学者が知識を独り占めにして、他人の子供に本気で教える気があるのかを疑うのだ。

この意味で、いまみたいに学問が進んでいなかった時代の、最先端の一流学者の説明はわかりやすかった。
これは、その学者本人の「理解度」が本物だったからであろう。

とくに一流の学者ほど、小学生にでもわかるような説明をしてくれたので、「少年雑誌」に意味があったのである。

いまの「少年」がつく雑誌類は、ほとんどおとなになり損なったようなひとが対象になっている。
どうして「少年」がつく雑誌の表紙に、水着のお姉さんが笑って写っているのか?は、それこそ外国人の親には理解不能だろう。

それに、かなり「バイオレンス」なシーンが続出するのに、「年齢制限なし」のマンガも、アニメも野放しになっている。

いわゆる「偏差値教育」が問題視されてずいぶん経つ。
これは、「テストの点数中心主義」という方式なので、教育界全体が「予備校化」した。

だから、「いい学校」とは、「平均点が高得点な生徒ばかり」のことを指す。
それだから、「いい学校の卒業生」とは、テストで高得点が取れるだけの「優秀さ」が認定されている。

なので、「優秀な」ひとを集めようとすれば、「テストの点数が高いひと」だけが集まるようになっている。
ところが、テストの点数が高いひとが、「応用力があるひと」とは限らない。

むしろ、テストの点数が高いひとは、「応用力に欠ける傾向」があるのは、当然といえば当然だ。
この「風習」を、大企業ほど採用して、社員の「資格昇格試験」をさかんにやっているから、「応用力がないひと」を昇格させている。

なによりも「上司に逆らわないこと」を条件とした、応用力がない上司たちの都合が優先されたのである。

教科書の「原子核」の説明に「電子雲」を使うように指示した学者は、なんだかどんなひとかがわかるのである。
それでもって、いろんな「資格」を卒業時に取得することを目的にすると、やっぱり優秀なのは「テストの点数が高い」ひとになる。

文系ならば、司法試験とか国家公務員上級職とかで、理系ならば、医師国家試験とか管理栄養士、薬剤師に建築士など、結局のところ、ぜんぶ「正解」がはじからある「問題を解く」ことで、目的が達成されるのである。

けれども、世の中は、あらかじめ正解がある問題は「皆無」にひとしい。
実務では正解なき問題に対して、いかに正解に近づけるか?しかないし、そもそも何が正解なのかさえもわからない。

それは、「成功」していてもである。
その成功が、正解を出したゆえの成功なのかすら、わからないのである。

高い志から、管理栄養士になったひとが大病院に就職して、張り切って患者と向き合ったら、決められた「栄養指導」しかできないことに気がついた。「しかできない」とは、勝手に解釈してはならないという意味である。

つまり、「業界マニュアル=士業としてのガイドライン」を逸脱してはならないのは、「士業」ゆえの責任だということなのである。
その「ガイドライン」は、テストの点数が高かったゆえに、「いい学校」の教授になったひとが書いている。

これを包括しているのが、「公的健康保険」による、「点数表」なのだ。

そんなわけで、とある管理栄養士は、せっかく就職した病院を辞めるに至った。
このひとは、独自に調べた患者の食生活から、「業界マニュアル」が無意味ではないかとの疑問から、こっそりと独自の栄養指導をしたら、みるみるうちに患者の病状が改善したのだという。

「偶然」を疑ったけれど、症例を重ねるうちに「確信」になった。

そして、驚いたのは、その無意味の業界マニュアルが「わざと」だと気付いたという。
そうやって、患者の病状を回復させずに、薬漬けにすれば、「業界」が「発展」するという、理屈だと。

げに恐ろしきは、「テストの点数中心主義」が、国民の健康を奪っても構わないところにまでなっていることなのである。

成人としてのバイデン親子

長男が事故死してから、次男への溺愛となったのかそれとも最初からなのかはしらないけれども、バイデン氏と次男(ハンター氏)の関係は「たいへん仲の良い親子」であるようにみえる。

もちろん、わたしは日本国の一般人なので、アメリカの大統領一家の家族関係に詳しいわけではない。
しかし、「報道」されている情報を見るかぎりにおいては、上述した想像にいたるのである。

もちろん、バイデン氏とて「長く連邦上院議員」(1973年1月から2009年1月まで連続6期:36年)を務めたひとで、「政治家」だから、叩けばホコリが出るのは当然だ。
この間に、上院司法委員長や上院外交委員長などを歴任した重鎮でもだ。

もちろん、わが国と「議会」の役割がちがうアメリカでのことなので、「ちがい」についての予備知識がないと、以上の情報だけでもスルーしてしまう日本人がいるだろう。

このようなひとが日本人の「大半」なのは、学校で自国のことを詳細に教わらないから、外国との比較をするにも「基準」がないためだ。
もちろん、日本の学校の「公民」のことをいう。

むかし、日本人が教育熱心で、それがまた、いち早く近代文明国家に脱皮できた「素地」だったのは、江戸期から「読み書き算盤」ができないと、生活できなかったからである。
つまり、「就業」で支障があったのだ。

だから、6歳や7歳で出された「奉公先」でも、「大店」にもなれば、店として「読み書き算盤」を修得させたし、そんな大店へ口利きをしてもらうにも、「読み書き算盤」の素養を要求されたのだった。

この「読み書き算盤」の重要性は、どんなに子供でも「実感」できたから、およそ家業を継ぐのが義務だった農民の長男とか、職人の長男を除けば、また、都市部の町人ほど「痛感」していたのである。

それが明治期になって、学校制度ができると、地元の篤志家たちが私財を投じていまでいう「文化財級」の校舎を建てて、『坊っちゃん』のごとく、東京から優秀な教師を呼んだのだった。

だから、教育は「将来ある子供の生きるため」だったから、親たちの「義務」とした。
いまでは、「なんのため?」かが不明になって、おとなによる「管理のため」が強くなったので、「不登校」がふつうになった。

ところが、もう一つ、「親の子離れ」、「子供の親離れ」も不完全なままなので、「成人」の意味も「軽く」なったのである。
親からすればいくつになっても子供は子供、という「気持」はわかるけど、それが「社会」として「当然」になると、なんだか変になるのである。

たとえば、50歳を超えたおっさんが事件を起こして、その老いた親が健在ならば、「申し訳ない」と謝るのが親の役目になってもだれも批判しない。
しかし、「成人」したらいつまでも子供のはずはないのである。

この「区別」ができないのである。

さてそれで、バイデン氏と息子(ハンター氏)の関係が、ここで興味深いのだ。

大手マスコミも「本物」と認定した、ハンター氏が紛失したというパソコンから出てきた「犯罪」の「記録」とは別に、現職弁護士でもある彼の「犯罪」がスクープされて、いよいよ「逮捕間近?」という段階になってきた。

この期に及んでも、バイデン氏は「自身とは関係ない」として、大統領職におさまっている。
はたして、日本でこれができるのか?
たとえば、首相と息子の関係だったら?

まず、無理である。

しかも、バイデン氏自身も、副大統領時代の公務として訪問したウクライナで、ときの大統領に検事総長の解任を、米国の軍事援助と引換に要求して成就させたが、その後、ウクライナ検察から「指名手配」される顛末がある御仁なのである。

このとき、息子(ハンター氏)は、ウクライナの新興財閥(オルガルヒ)のなかで最大企業だったガス会社の取締役になっていて、当の検事総長は、この企業の「汚職」捜査指揮をとっていたのだった。

さらに、息子は、中国企業の「投資案件」にも関与していて、兆円単位の金が動いているけれど、その企業は人民解放軍のダミーで、事実上の共産党直営だということも判明している。

このときの、「手数料報酬」を、バイデン氏も得ていると、裁判での証言で登場した。

なんだかなぁ、の親子なのである。
しかし、親は親。息子は息子。という「成人」としての関係が優先されていて、この点で報道も「慎重」なのである。

ひるがえれば、なんだかなぁの親子関係を「美談」とするのは、かえって日本人の方なのに、バイデン氏とその息子の「スキャンダル」をぜんぜん報道しない。

日本人的には大好物の、格好の「えさ」となる「ニュース・ネタ」のはずなのに。
それがまた、日本における報道を信用しない理由なのである。

ただし、バイデン氏の就任日にした「大統領令」にあった、シェールオイル開発禁止やカナダからのパイプライン建設中止に端を発した、ガソリン高とインフレで、支持率の落ち込みも「歴史的」になったので、とうてい「再選」はおぼつかない。

これはこれで、自業自得であるけれど、おかげで世界が困り果てたから、その罪は日本人のわたしだって追及したくなるのである。

ソドムとゴモラ消滅の衝撃

『旧約聖書』の「創世記」にある、背徳の都市を指す。

日本人の伝統的な価値観のひとつに、「性へのおおらかさ」があることを、日本人がしらない状態になった。
歴史や民族の文化を、戦勝した外国人によって「忘却させる」というのは、あきらかに「国際法違反」であるけど、これもしらない状態にある。

この「おおらかさ」が結実したのが、『万葉集』であり、『源氏物語』ともいえるけど、「記紀」の神話にもあるから、かなり日本人の「原点」にある心情だといえる。

とくに「最古」といわれる『万葉集』の「最古」の意味は、「日本最古の和歌集」という言い方ではおさまらないと、ドナルド・キーン氏が指摘している。

キーン氏といえば、言わずとしれた日本文化研究の世界的大家で、2012年(平成24年)に帰化した、日本人だ。
わたしはキーン氏と直接の親交はなかったけれど、コロンビア大学での弟子にあたる加藤アイリーン(愛琳)女史にはずいぶんとお世話になった。

アイリーンさんはアイルランド人で、ソルボンヌ大学留学中に、外交官補だった、加藤吉彌氏とアイルランド国籍を棄てて結婚され、後のエジプト駐箚特命全権大使の夫人として外交団の間でも有名な、「日本人」であった。

夫婦間の会話は日本語を基調としていたが、折いった話になるとフランス語であった。

毛筆をとればご夫妻で、日展入賞、の「書」の達人でもあり、フランス大使に内定して検査入院した病院で、不運にも院内感染して亡くなられて「未亡人」となってからは、聖心女子大学などで、「源氏物語」の教鞭をとられていた。

なので、エジプト以来、ずっとお世話になり続けた恩人である。
そしていつも「古典を勉強なさい」と叱られていたのである。

そんなわけで、『万葉集』についてのキーン氏の話とは、「世界最古にして最大の選詩集」だと断言されていることだ。
その特徴も、世界に類例がない、天皇から庶民の歌が一緒に掲載されていて、4516首にのぼる。

この「平等性」は、いかにギリシャ・ローマ以来の伝統を誇示しようとも、欧米人がいかんともしがたい「歴史的快挙」なのであって、「恋の歌」から「生活の歌」など、その「先進性」は現代にも通じているのである。

最近では、「食生活と脳機能」とが研究されてきて、「小麦と肉食」に対する「米と魚食」のちがいが、脳への影響をさせて、強い欲求を制御できるかできないかという比較にもなっている。

それが、欧米人の貪欲さをつくりだして、ソドムとゴモラの話になったのかもしれない。
「創世記」は、「原罪」から、「カインとアベル」の殺人、「モーゼ5書」でのどんちゃん騒ぎが先にあって、何度も「過ち」が繰り返されている。

そこで、創造主たる神が、怒りの鉄拳として二つの町を「天からの硫黄と火」によって滅ぼされたという話になっている。

前にも書いたが、「聖書学」という学問があって、考古学も含めた学際的な研究がさかんにされている。
いわば、聖書の事実関係を洗い出す学問で、宗教的解釈とは一線を画している。

ほとんど40年前になるけれど、エジプトからの帰国を前にもらった休暇で、イスラエルをひとり旅した。
前半はバスで、後半はレンタカーで各地を廻ったのであるが、わたしの聖書への知識が浅かったために、聖書学的旅行とはいかなかったのが残念だ。

「死海」では、どうにも沈まない不思議な海水浴をしたけれど、舐めてみたら「しょっぱい」のではなくて、「苦かった」ことを覚えている。
それに、すぐさま真水のシャワーを浴びないと、皮膚がヒリヒリしてくるのは、表層が溶け出しているからだった。

その死海の南には、天然の凝固した「塩」が岩のようにゴロゴロしていて、柱のように立っている場所もある。
この近くに「ロトの妻」といわれる巨大な塩柱がある。
ソドムが滅亡するときに、後を見てはいけないという忠告があったのに振り向いてしまったからだと。

一方で、塩ばかりでなく、自然湧出している「アスファルト」が見られる場所もあって、それがまた、「荒野」の中なのである。
ここまでくると、放置された都市遺跡がいくつもある。
発掘調査でわかるのは、「火災」によって壊滅したらしい。

じつは、塩(塩化ナトリウム)とイオウは化学的に反応する。
そしてこのあたりは、アフリカ大陸とシナイ半島が引き裂かれている、「大断層帯」なのである。

だから、地震によって地層から噴出したイオウとアスファルトが塩と反応して大火災を起こしたとかんがえられていた。

しかし、近年になって、1600度以上の高温にさらされて溶解した陶器の破片が、死海の北の都市遺跡で発見されると、従来の説では説明がつかなくなったのである。

隕石の空中爆発。

いま、もっとも有力視されている。
すると、聖書の記述にある「天からの硫黄と火」によって滅ぼされたという話とも合致するのである。

残念ながら、小麦と肉食で脳をやられたひとたちの飽くなき欲望は、大惨事をもってしてもなくならないで今に至っている。
そうやってかんがえると、万葉集の日本文明と、いま、西洋の悪徳の文明が衝突しているように見えてくるのである。

この二つの文明を熟知していたドナルド・キーンさんは、もっと日本人にしられていい。