国民の健康を蝕む「健康保険制度」

昨日の、「栄養学は有効か?」の続きである。

前にも書いたけど、あまりにもあんまりで、しかも、日本国民の「自慢」にすらなっているのが、「国民皆保険」という、社会主義制度だ。
これが、典型的な社会主義制度であることも、日本国民は意識していないのだ。

ただし、社会主義が「労働者の味方」だと、これも「洗脳」させられた「労働組合」も、労働者の健康を守るのが健康保険制度だと「確信」しているから、「公的年金制度」という、もう一つの社会主義制度の「制度保証」をした「消費増税」に賛成する「はめ」になったのである。

重要なのは、「選択の自由」があるか?ないか?で、公的社会保障制度に、選択の自由が「ない」ことなのである。
あたかも、病院などを自由に選んでいるように思っても、診療内容に選択の自由がないために、結果に大きな違いがないまでに標準化(=共産化)が達成されたのが、わが国の医療なのである。

共産主義の「租」といえば、カール・マルクスで、彼の論法はヘーゲル哲学の手法である「弁証法」を採用した。

「正(テーゼ)」⇔「反(アンチテーゼ)」⇒「合(ジンテーゼ)」となるとき、アンチテーゼからジンテーゼへの「⇒」を、「止揚(アウフヘーベン)」といって、一種の別次元に「論があがる」のである。

この止揚によってできた「ジンテーゼ」を「テーゼ」として、止揚を繰り返すことで「真理」にたどり着くことを意図するのが弁証法だ。

マルクスの天才は、止揚(アウフヘーベン)をかんがえついたのではなくて、「アンチテーゼ」から「テーゼ」を作り出したことにある。
このイリュージョン的トリックで、頭が良いとされた「論理を嗜好にする」暇人たちの思考回路を破壊したのである。

つまり、彼にとっての「ありき」は、共産主義・全体主義であるけども、ふつうのひとには「ありき」なんてものはない。
ふつうのひとは、「現状」こそ「あるだけ」なのだ。
この「現状」の「漫然とした継続」だけが「ある」。

それゆえに、マルクスは「現状」のことを、「反」共産主義・全体主義として、これを「テーゼ」に置いたのだ。
「彼の」テーゼは、「現状打破の革命」という真逆だけれど、わざと一般大衆の「現状」をしてトリックの「タネ」としたのである。

しつこいが、この「倒置」こそが、マルクス主義理解の「要諦」なのであって、インテリほど騙された「トリック」のタネである。

それでマルクスは、倒置した「現状」に、彼がかんがえついた「新語」を当てはめて「命名」した。
それが、「資本主義」なのである。
なぜならば、彼が「ありき」で構築したのが『資本論』であったからである。

つまるところ、マルクスが勝手に思いついた「(空想)論」の、「論より証拠」として設置した、「幻想の噛ませ犬」が「資本主義」ということだ。
この「幻想=イリュージョン」の道具に、弁証法が採用されたのである。

まったく別の思考アプローチから、「資本主義」が「幻想」だと気づいたのが、アイン・ランドだった。
実は、われわれは、われわれの祖先も含めて、誰一人として「資本主義社会」に暮らしたことはない。

マックス・ウェーバーの世界的に有名な「解説者」、大塚久雄の『社会科学における人間』で「前資本」やら、「前期資本」という、資本主義成立前の時代を解説しているけれど、それは、いまだに「現代社会」のことなのだ。

すると、現代社会は、まんまとマルクスのいう「歴史の必然」にはまり込んで、社会主義に「移行」してしまったということになる。

しかし、それは「資本主義」からの移行ではなくて、むしろ資本主義社会なんて「はじめから成立しているかどうかなんてどうでもよく」、とにかく社会主義社会になればいいという「結果論」なのである。

さすれば、いったん社会主義社会を達成すれば、今度はマルクスの論(唯物史観)に従って、必然的に共産主義・全体主義社会が到来することになって、最終目的が達成されればいいのである。

その実現者たちが、「世界経済フォーラム:ダボス会議」なのだ。

すると、1961年に「国民皆保険」という社会主義を実現した日本こそ、マルクス史観でいう「世界最先端」を実現した国家であったし、これをやった「自由民主党」こそが、日本共産党をダミーとした「本物の共産党」なのであって、ダボス会議の「本体」だ。

それゆえに、竹中平蔵氏(ダボス会議唯一の日本人理事)こそ、真の「首相」に就任した人物で、それが小泉政権をダミーとした2000年のことだったから、健康保険制度も「進化」して、保険点数の厳密化が「医療事務システム」を通じて実現した。

これで「ヤブ医者」が駆逐されたばかりか、全ての医療行為が「点数制度」下に収まったので、「完全平等な医療」が達成した。

もちろんこの「完全平等」とは、受診者=患者にとっての、「完全平均値」を意味するから、その本人の本当の症状や病状は無視され、「データの範囲」でマニュアル通りの治療と投薬が行われるだけなのである。

病院で主治医や看護師が患者の顔色を見ずに、パソコン・データばかりを観ている事情は、一人ひとりの「患者」ではなくて、一つ一つの「データ」になっているからだし、そこでの投薬指示や検温とかの医療行為が、そのまま保険点数計算データベースに照合されて、過剰と不足の判断と、請求書への自動加算がされるのである。

では、「データの範囲」を超えたらどうなるのか?

答えはかんたんで、「不明」ということになって、これ以上の手当は放棄される。

医療保険(点数表)の範囲を超えるからである。

ならば、「データの範囲内」であれば安心か?といえばそうではなくて、そのパターンで決められた治療と投薬が自動的に行われて、「それ以外」は許されず、「それ以外」の医療行為が目に余れば、「保険請求事故」扱いになって、医師は処分の対象になるのだ。

こうして、国民の健康とは「別」に、健康保険による医療行為が行われていても、もはや共産政権下の国民には文句すら言えないばかりか、「世界に冠たる国民皆保険」といって自慢するのである。

これぞ、全体主義なのだ。

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