「真の」ロシア疑惑とウクライナ

トランプ氏とプーチン氏が、「馬が合う」関係だったのは、「取り引き(ディール)」についての感覚が一致していたからだろう。
これは、トランプ氏がアメリカ人の「ビジネスマン」であることと、プーチン氏が「柔道家」であることの共通から生まれたとかんがえる。

日本人には、「合気道」がある。
この武道は、公益財団法人合気会が示しているように、「現代武道」であって、創始者の植芝盛平が1926年に、「合気の道」と呼称したことをはじまりとしている。

しかし、突然できたのではなくて、これまでの「伝統武道」を修得したことを基礎としていることに意義がある。
「逆手」を主にする柔道に対して、「順手」の合気道は、柔道よりもずっと相手の力を利用して、その相手があたかも「勝手に」自分の力で飛ばされてしまうのである。

この「演武」が、あまりにも見事なので、知らずに見る者は「わざと」自分から投げ飛ばされているようにしか感じないから、「インチキだ」と信じるのである。
ところが、実際に自分が相手になると、あれよ?と気がつけば投げ飛ばされている。

これがいま、ヨーロッパで大はやりしている。
しかして、植芝盛平氏には、京都府綾部の発祥である、「大本教」が精神的支柱にあることも、忘れてはならないことなのである。

さて、ビジネスには、「駆け引き」がつきもので、柔道でも相手の袖をとることの「駆け引き」がつきものである。
「できる」相手同士なら、組んだ「だけ」で相手の実力がわかるのも、ビジネスの現場だって同じなのだ。

それが、トランプ氏とプーチン氏の互いをみるに尊重しあうという態度にもなるというものだ。
これが、史上最高得票で当選したという、バイデン氏には「ない」のである。

2016年の大統領選挙で、当選が確実視されていた、ヒラリー・クリントン女史が、まさかの敗北を喫したのは、いまさらに「得票数」ではなくて、各州選挙人の「獲得数」の差であった。

この「票読み」と、「獲得選挙人数の予測」に完璧に失敗するという、「歴史的敗北」をしたのが、わが国「外務官僚」であったけど、誰ひとり責任をとった役人はいなかったし、自民党も責任追及をしなかった。
最低でも、アメリカ駐在大使ぐらいは更迭しないといけないはずだ。

「宣戦布告」の電報を知らずにパーティーに興じて、「Don’t forget Pearl Harbor」を合言葉に、民主党ルーズベルト政権が飛び上がってよろこんで、日米戦争=ヨーロッパ戦線に「参戦」する手助けができたことに匹敵する「惨事」となるところだった。

さらに、外務省のエリートに、正義感もないので、国務長官だったヒラリー女史の「メール問題」すら無視できたのである。
役人に日和ってなお、左派のヒラリー女史を応援したいわがマスコミは、この問題の「汚濁」を伝えない。

法治国家の「法」として、国家機密の保持のためにも、アメリカの高給公務員は、政府が定めた端末を使うことが義務づけられている。
これは、大統領といえども遵守する義務がある。
だから、初当選したオバマ氏の私用で使っていた「ブラックベリー」の継続使用が問題になって、政府は特別機種をつくって与えたのである。

そこまでしても、国家機密を守るのである。

いまはなき「ブラックベリー」は、カナダのこれもいまはなき「リサーチ・イン・モーション社」が販売していた携帯端末であったけど、独自の「セキュリティ・ネットワーク」を構築していて、その通信の「安全性」には定評があったから、一世を風靡していた。

ヒラリー女史は、そうではなくて、「個人サーバー」を介する方法での通信を、なんと国務長官の「任期中ずっと」使いつづけていた。
完全なる「違法行為」であって、問題発覚後、自宅にあったサーバーを「ハンマーで叩き壊した」のであるから、限りなく「黒」に近い。

だから、その通信の痕跡を、分析する「捜査」が続いている。
そしてそれが、国務長官という「地位」を利用して、日本円で「兆円単位の収賄汚職」をしていたという、「疑惑」になってきている。

しかして、この問題を隠すために、選挙中から「仕組んだ」のが、トランプ氏による「ロシア疑惑」というでっち上げ事件だ。
ところが、最近になって、トランプ氏が大統領に就任した後も、「盗聴」を続けていた証拠がでてきて、これを、「特別検察官」が発表した。

ニクソン大統領が「辞任」に追い込まれた、「ウォーターゲート事件」をはるかに上回る、現職大統領への「盗聴」とは超弩級の事件だ。
日本になくて世界中にある「法律」で、「国家反逆罪」が適用されておかしくない「犯罪」なのである。

なお、反逆罪がある国は、どちらさまも「死刑」が用意されているのも「常識」だ。

これで、ヒラリー女史の政治生命が尽きたことはもう決定的であるけれど、アメリカの大手マスコミは報じていないから、わが国のマスコミも報じない。
それに、本人もどこかに引きこもって出てこない。

さてそれで、プーチン氏は、ロシア国会の議決にしたがって、ウクライナの一部を「独立国家として承認」し、軍を動かす議決も出た。
停戦を決めた「ミンスク合意」を無視しつづけて、今回の当該地域に対する「内戦」をやめなかったウクライナ軍を非難している。

実態は、ロシアの言い分が「正しい」のだ。

手も足も出ないバイデン氏の醜態が、アフガン撤退の失敗と一体になって、中間選挙での敗退がみえはじめた。

もう、台湾危機しか残された道(戦争勃発による現職有利)はないのか。
しかしながら、頼みの北京最高首脳がオリンピック中に引きこもって、重要会議をやっていた「らしく」、大運動会終了後に訪独した外務大臣のウクライナ危機についての言動は、「常識的」に変わっていた。

どうやら、ウクライナと台湾の二正面作戦をアメリカにやらせる意思が萎えてしまったようなのである。
こうなると、バイデン民主党は、自業自得とはいえ、「絶体絶命」をどうするのか?になる。

プーチン大統領の「国家承認」と「平和維持軍の派兵」を受けて、トランプ氏は、「原油価格の高騰がロシアを大儲けさせて経済的余裕をつくりだしたのだから、それをわざとやったバイデンの責任だ」と非難して、「呼吸」を合わせている。

プーチン氏とトランプ氏の両人は、もしや、ここにきてようやく、「秘密の協議」をしているのかもしれない。

ところで、欧米の雑音は横にして、「当事者」のウクライナ大統領は、ロシアに「話し合い」を呼びかけている。
実は、ウクライナ政府内の「統治の機能不全」(大統領と政府官僚と軍)が、この危機の原因なのである。

それで、日本の外務大臣はこの直前、ロシアとの経済協力案件で、キャンセルせずに先方の担当大臣と会談していた。
明らかに大臣の意思であり、長く外務大臣をやっていた現総理の意思だろう。

この意味は、たとえレームダック化が確実の、民主党バイデン政権が相手とはいえ、日米同盟の「終わり」を告げただけでなく、「西側からの離脱」の意思表示である。

集団的安全保障からの「離脱」になるから、プーチン氏よりも、よほど「勇猛果敢」なのは、岸田内閣なのであった。
G7で、わが国は「孤立のみち」を選んだ、歴史的転換点だ。

しかしてこれは、合気道的な行動なのか?
説明はないし、質問する記者もいない。

国富を流失させる政府

一般的に「自虐史観」というと、「戦争をやった日本は悪い国だった」という「確固たる前提」に基づいた「史観」ということになっている。

それで、「戦争を放棄して経済に特化する」という、いわゆる「吉田ドクトリン」が、決め手のひとつとなって、戦後の経済成長を遂げる原因政策の「大黒柱」だということにもなっている。

つまり、以上が「戦後レジーム」の本質的「構造」である。
そもそも「レジーム」とは、政治形態、政治構造とか政治体制を意味することばだ。

いまさら安倍晋三氏が訴えた、「戦後レジームからの脱却」についてうんぬんかんぬんすることに意味はないだろうけど、「これをどうしたかったのか?」がわからなかったし、「どうにもしなかった」という結果は出ている。

なにせ、8年も首相をやっての「成果」として、「なかった」のだから。

むしろ、「アベノミクス」という、社会主義経済政策を「やった」ことは間違いないので、マッカーサーGHQの「ポチ」だった、吉田茂とそれに続く池田勇人の「資本主義経済」を、戦後レジームとして、これを否定した、という意味なら、祖父の岸信介の本性である「社会主義国」にする、ということでの「達成」はできた、という評価ができる。

地元山口県の元になる、萩藩・毛利家の「3本の矢」の逸話をもってきたのは、シナリオライターの手腕であるけど、特に三本目の政策が「なかった」と批判されていたのは、そうではなくて、はなから「偽装」だと思えば、より説得力がある、社会主義政策なのだ。

すると、山口県が「保守王国」というのも、まったくの「偽装」で、とっくに「党綱領」で「進歩主義=社会主義」を高らかにうたう「自民党」を、そもそも「保守政党」だと認識すること自体が、「大ボケ」なのである。

藩庁があった「萩市」を選挙区とする、「林芳正外務大臣」の親中ぶりをみても、引退した「河村建夫元官房長官」の親韓ぶりをみても、「売国」というキーワードで語ることができる。
これに、安倍晋三氏は、もっと本質的な「売国」である、わが国の社会主義化に心血をそそいだのだった。

残念ながら、誇り高い「萩人」たちは、日本近代をつくった人材を輩出した「保守の誇り」に目がくらんで、その本質をつかむことができない。
「形式的保守」に自己満足していることが、全国民にはわずらわしいのである。

これを知っている、マスコミは、安倍氏を「タカ派」とすることで、レッテルを「逆張り」して「偽装」し、有権者を欺しているから、詐欺集団化している。
もちろん、安倍氏にも「都合がいい」からこれを否定しない。

要は、「グル」なのである。

戦後経済成長の「奇跡」については、前にも「ラッキー」だと書いた。
まさに、「3本の矢」で、
・安い石油
・冷戦構造
・朝鮮動乱 を指す。

自分で選択した「政策」による「奇跡の加速」もなにもない、ということに変わりはないけど、「敗戦」による「妙な利益」をこれに加えていいのが、「植民地を失ったこと」なのだ。
これが、「4本目の矢」ならぬ、「弓」を意味する。

邪悪な欧米人の、奴隷化で収奪するだけの植民地とはちがって、形式的には植民地だけど中身は、「同化」という、欧米人には「美辞麗句」にしか聞こえないことを、本気でやったのが、日本文明が残っていた時代の日本人の発想なのだった。

「五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)」を最初にいったのは「辛亥革命」だったけど、これを本気で「政策」にしたのは日本で、「人種差別撤廃」を国際連盟に提案して、欧米人を「驚愕」させただけでなく、これがかえって列強諸国が日本を貶める「国際協調」になったのである。

しかして、これら欧米列強が常識とする、植民地から「利益」を得ることの「真逆」が、わが国では国民負担になっていた。
つまり、あり得ない「赤字」が、わが国の「植民地経営」だったのである。

収奪されているのは、宗主国の国民であった。
すなわち、領土内でも対等な(内国)貿易ではなく、政府による投資(予算)が、一方的に植民地へと流れて、その見返りの「収支」では、敗戦まで「一度」も黒字になったことがなかった。

おどろくべき「お荷物」を、日本本土の国民は負担させられたけど、それが日本人の使命だとして、文句をいう国民がいなかったからできた、ともいえる。
しかし、「国富」を奪っていたのは、日本政府だったことにかわりはない。

だから、わが「国民」にとって、GHQが植民地を奪ったのは、GHQの思惑(欧米人の常識)とは逆に、「手かせ足かせ(絆し:ほだし)」になっていたものからの、「解放」だったのである。

それに、敗戦で貧困化したわが国の予算は、極小化されたので、これが政府の民間への介入を不能にした。
このことが、「自由経済」の元となったという本質的皮肉がある。

それで、植民地負担のなさの効果と奇跡の「3本の矢」で発展したら、政府の体制も整って、政府の介入が「組織的」に可能となると、日本経済の成長も止まったのである。

これを、「完成」させたのが、田中角栄内閣であった。
それから幾星霜、アベノミクスが磨きをかけて、いよいよ社会主義経済体制ができあがったところにコロナがやってきた。

環境問題にかこつけた、内燃機関をやめさせる自動車産業への「破壊工作」が、政府をして熱心なのは、日本人を貧乏にして、奴隷化するという、マルクス・レーニン主義のシナリオ通りだ。

800万人の職を政府が奪う。

かつては、植民地の人々の「役に立った」政府による国富「流出」だったけど、投資先たる植民地とは、「日本領土」そのものだったから、「列島改造論」が小さく見える「地方分配」ではあった。

いまは、誰が得をするのかわからない国富の「流失」を画策しているのが、自民党とそのスタッフである官僚がつくる日本政府なのである。

「OSCE」はどうなっている

欧州安全保障協力機構(OSCE:Organization for Security and Co-operation in Europe)は、加盟国が57ヵ国もある、世界最大の「地域安全保障機構」だ。
1972年に発足し、本部はウィーンにある。

名前に「欧州」がついているからといって、「欧州に限らない」のは、NATO同様で、「北米(アメリカ、カナダ)」はもとより「中央アジア諸国」も加盟している。

つまり、「集合」でいうと、「OSCE」∋「NATO」となっている。

なお、わが国を含めて、「協力国」となっているのは、中東、アジア、アフリカ、オセアニアにもある。
また、わが国は事実上、「準加盟国」的に扱われていて、恒常的に常設理事会、安全保障協力フォーラムなどに参加できるのだ。

ただし、NATOが純粋に「軍事機構」であるのに対して、OSCEの目的には、民主主義体制の構築・強化、基本的人権の保障と保護、武力行使の抑止における加盟各国の協力と相互尊重があるので、「緩い」といえば緩い。

これには、1990年の「パリ憲章」の合意がある。
OSCE加盟国が、「ヨーロッパにおける冷戦体制の終結宣言」をして、「民主主義の促進と人権問題解決の確認」などに合意したのである。

だから、ロシアもウクライナ(1992年加盟)も、OSCEに加盟していて、かつ「パリ憲章」にも調印している。

戦争を望むひとたちが焚きつけて、先日はウクライナの大統領がアメリカに対して「迷惑だ」と発言したのに、まだアメリカのバイデン氏は「ロシアの侵攻がある」と言って、ウクライナの経済的混乱に拍車をかけている。

ところで、元海将の伊藤俊幸氏は、「兵站」というキーワードから、ロシア軍の侵攻は「あり得ない」との見解を述べている。
「演習」をしているのは、10万の兵力で「しか」いない。

これが、「侵攻」して弾薬を撃ちつくしても、周辺のどこにも、「補給部隊」の存在が確認できていないのだ。

戦闘要員としてのフロントに10万ならば、弾薬だけでも補給にはトラックが数百台必要だし、食料からなにからとなれば、補給部隊には20万人が必要になるのは、断続的かつ安定的な補給が必須だからである。
もちろん、補給部隊を護衛する部隊もいる。

これらの部隊の姿が、今どきの精緻な衛星からも、見つからない。
補給なき軍隊がどんなことになるのかは、ナポレオンもドイツ軍もモスクワを目前に敗退した理由になったし、秀吉が強かったのも、補給のプロ、弟秀頼の「お陰」だった。

それに、「将兵の心理」という角度からは、「大義名分の有無」ということを重視して、「政治目的との合理性」に鑑みば、やっぱり「あり得ない」という分析を示した。

すると、バイデン氏の「煽り」は、軍産複合体である「同じ穴のムジナ」のブッシュ息子大統領令がやった、「大量破壊兵器がある(はず)」という、(結果的にも)見込み違いの「イラク戦争」と同じパターンなのだと気づく。

敵は内にあり、という「原則」に照らすと、プーチン大統領を追いつめているのは、ロシア議会(下院)の決議だ。
ウクライナのロシア人地域の「独立」を、大統領に要請する議決をしてしまった。

これはこれで、クリミア半島を「併合した」ときと同じパターンだけれども、このときには実際に「独立戦争」的な「内戦状態」であったから、平和時のいまとは条件がちがう。
それに、クリミア半島を併合してからの、「ミンスク合意」に、現状のままなら完全に「違反」する。

ところで、OSCEにロシアが加盟したのは、1973年なのだ。
このときは、「ソ連」であった。
そして、いわゆる「東側衛星国」は、一国も加盟していない。
ついでに、「永世中立国」の、スイスとオーストリアが加盟している。

それから2年後の1975年、OSCEの「最終合意文書」である、「ヘルシンキ宣言」には、なんと、鎖国しているアルバニアを除いて、全欧州各国(東側衛星国も)、ちゃんと署名しているのである。
アメリカとカナダも、だ。

それでもって、2014年の「クリミア危機」でも、このヘルシンキ宣言の適用問題が議論されている。
すると、今回は?

実は、ロシアというかロシア人は、ソ連時代もだけど、「いったん決まったこと」については、妙に「律儀な頑固者」という性格がある。
だから、決める前にはなかなか「首を振らない」で「拒否し続ける」というのも、嫌われる原因だ。

対する、アングロ・サクソンの英米は、「いったん決まったこと」をあっさりと自己都合で一方的に「廃棄」することに躊躇しない、という特性があって、しかも武力で押し通すのだ。

典型的アングロ・サクソンのアメリカ民主党が、ロシアを信用しない理由がこれだ。
自分たちが「裏切り」を何とも思わないから相手もそうにちがいないという、「思い込み」があるのだろう。

なんだか、そんな民族の性格比べが「ウクライナ危機」になっている。

もしやロシアもNATOに加盟したいかも、と前に書いたけど、OSCEにその「本音」があると見える。
ところが、2012年に思わぬ国がOSCEに「申請」して加盟していた。

それが、「モンゴル」なのである。
あれれ、現代世界の人類の敵の「蓋」になる最前線ではないか。

しかもモンゴル人(内モンゴルを含む)は、漢人が大嫌いで、日本が一番好き、二番がヨーロッパというお国なのである。
さすがは、あと一歩でヨーロッパを征服したにちがいない、チンギスハンの遺伝子か。

もしや、モンゴルがアジアで真っ先に、NATOに加盟するやもしれぬ。

教育委員のリコール選挙

なんでも選挙をすることが「いいこと」なのか、「悪いこと」なのか、あんがいと難しい問題である。

たとえば、身近な「行政」の、市町村でかんがえると、役所の「下請け機関」になっているのが、町内会や自治会である。
この組織の執行部をどうやって決めるのか?といえば、形式的には立候補制である。

しかし、たいがい「やり手」がいないので、むかしの「隣組」の流れからなる、10軒単位ほどの「班」から順繰りに「班長」になったひとたちが集まって、「役員」を形成することになっている。
それで、「くじ引き」をして役職を決めることもある。

ところが、「高齢化」で、10年に1回のはずの「班長」のなり手が、「若手」になって3~4年で順番がきている。
「80歳を超えたから、勘弁してくれ」といわれたら、「そうですね」になってしまって、50代からがしぶしぶなるのである。

一方で、「なりたがる」という現象もあって、特定の「政党支持者」だったり、「宗派」のひとだったりするのだ。
それで、町内会や自治会で「宣伝」や「布教」をやって、おおいに迷惑がられることもある。

けれども、「なり手」がいないから、面倒でも我慢する、というストレスが発生するのである。

コロナ前に、別の町内のひとたちとの定期的な懇親会があって、そこでの雑談で「市議会が機能していない」という問題について話題になったことがある。

横浜市は、人口がざっと370万人で、行政区は18区、市議会は87人の議員からなる。
小学生のとき「分区」があって、10区から14区になったけど、さらに分区されたのは、「田舎」の人口が激増したからである。

わたしが生まれた昭和36年の人口は、130万人強で、14区になった昭和44年は、210万人強となっていた。
なお、市中心部の人口減少(まん中が空洞の「ドーナツ化」と呼んだ)は、30年代の終わりからすでにはじまっていた。

人口と議員数については、むかし朝日新聞が人口当たりの議員数を「機械的」に全国一律基準で増やすのが「民主主義だ」と主張していた記事を覚えている。

朝日の主張だから「逆神」なので、そんなはずはない、が正解にちがいない。
それに、地方議会は全国一律「一院制」ということが固定化されて、それが、「常識」になってもいる。

そんなわけで、「各区内の町内会や自治会」の会長を、議員としたらどうか?と言ったのは、「上院議員」というイメージだったけど、だれからも賛同されなかった。
そんなことをしたら、「その筋」のひとたちがこぞって「会長」になってしまう「危険」がある、というのである。

さらに、町内会の「規約」を変えて、「終身制」にされたらどうする?と心配するのだけれども、どうやって規約を改定するのかの手続きも変えないとできない。
むしろ、「危険」だから、緊張感があっていい、と言ったら、そんな「生活」は嫌だ、という。

でも、現状の「下請け機関」の困った実態はどうやったら改善できるのか?
既存の地元議員たちは、こんな懇親会にかならず顔を出すけれど、確かに「まとも」な見識を聞いたことがなく、むしろ役人の原案に「賛成する」のが、「議員たる者の常識」らしい。

だから、「どっちもどっち」なのである。

そんなわけで、わたしは「呆れた」けど、みなさんから「呆れられた」ので、雑談はこれでやめて後は諸氏のお話を聞いているふりをしていた。
「下請け」が嫌なのは、楽して暮らしたいのにそれができないから、という一点での「ぼやき」に過ぎない与太話だったのである。

さて、民主党のアメリカがわが国に導入した「教育委員制度」というのも、かんがえてみれば日本人はみごとに「換骨奪胎」して、教育委員会という行政組織はあるけど、とうとう「教育委員長」をなくして、役人がなる事務局長たる「教育長」がトップになった。

市民から選ばれるだけでも面倒なのに、なりたくもない「長」にされたりしたら、楽な生活ができないので、お役人様に任せるという、江戸時代の伝統がいまに生きる。
これはこれで、「合理的」であったのは、こないだまでの世代には厳しい「職業倫理」があったからである。

そんななか、民主党の牙城のひとつ、カリフォルニア州で、鉄壁を誇る民主党支配のサンフランシスコ市教育委員7人のうち、「長」を含む3人が、7割以上が「賛成」という圧倒的多数で「リコール」された。

なお、残りの4人がリコールされなかったのは、就任後の期間が短く、リコール対象にすることができない事情だけだという。
ならばどんな「新人」が選ばれるのかも、今後の興味になるのである。

なんでも「公職」なら、選挙をするのがアメリカの仕組みなので、住民は「楽ができない」という面倒を「ふつう」にしている。
こんな仕組みにしたのは、「民度の低さ」からであるけれど、水の流れのごとく、「高いところから低いところへ」と、わが国もなってしまっている。

前にも書いた、バージニア州知事選のように、「教育問題」がいまのアメリカのキーワードになっているのは、民主党の極左が推進する「批判的人種理論」への市民の反発という「常識」に、振り子が大きく振れているからだ。

これを、「目覚め」というならば、残念ながらわが国の方は、「深い眠り」という「安穏」にずっと浸っていたいという願望が優っている。
もしや、「意識不明」なのかもしれないけれど。

アメリカ人が優れているのではなくて、わが国民が「やばい」のである。

大分県臼杵市議の孤独な戦い

市議会における、「マスク着用の申し合わせ」はあったけど、一人で反発して、「鼻だし」から「マスク未着用」という段階的「抗議」をしている議員がいる。

「鼻だし」状態のときでも、議会本会議はもとより委員会でも、発言を議長及び委員長に拒否されて、とうとう昨年に市を相手取って民事提訴に至った。

地元テレビ局やその他でも、この「ニュース」を扱っていて、ネットでは「辞任せよ」とのコメントが圧倒的多数に見える。

「ニュース」としての扱いは、慎重かつ巧妙に、いわゆる「提訴されない防御」をしながら、視聴者には「憎悪」を促す、まさにジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)にある「真理省」の役割を果たしている。

この意味で、わが国が「まとも」な民主国家を次世代にも伝える、という「保守思想」があれば、全入となって授業料も無料化しようという事実上の「義務教育」状態になった高等学校における、「公民、現代社会、倫理、政治・経済」のどれか、あるいは、「現代国語」で、『1984年』は必修の課題図書に指定しないといけない。

つまり、『1984年』を知らない日本国民は「いない」という状態にすることが明るい未来をつくるのである。

なお、近年では、生徒に日和って「選択科目」になってしまっている「理系」のうち、せめて「生物」ならば、副読本として、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界:Brave New World』(1932年)を課題図書にするとなおよい。

   

とはいえ、残念ながら『Brave New World』のドラマ作品は、シーズン1で打ち切られたので、続きは原作を「読む」しかない。
また、ドラマ作品のビデオは英語版であるから、日本語で視聴するなら「配信」しているのを観るしかないことになっている。

ついでに、この作品で重要な道具立てになっている、精神安定飲料「ソーマ」については、わが国戦後近代文学の金字塔と三島由紀夫が評した、『家畜人ヤプー』にも「おなじもの」が登場する。
ながく「絶版」となっていた、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も2010年に復刻(全4巻)されている。

ただし、この作品自体が「成人向け」なので、まだ高校生には刺戟が強すぎるし、その「エログロ」具合は、ノーマルな成人にもかなりのものであるから、目にするには覚悟がいる。

『1984年』や『すばらしい新世界』とは、わが国が国として、ぜんぜん民主主義国家を目指していないし、マスコミがいう「民主主義」とは、共産党の「民主集中制」の「民主」を言っているにすぎないことに気づくための「教科書」なのである。

『1984年』での、「ダブルスタンダード」に基づく、「ニュースピーク」という、国民の論理的な思考を封じる「語法」の解説なのだ。

また、『すばらしい新世界』での、家族の解体が遺伝子操作によるところまで進行するという話は、かつての「優生主義」の究極で、次世代の「母」になる女子生徒には必須の事前知識を与えるから、「家庭科」における副読本にするのもよい。

すると、「フェミ」がいうことの本質が、じつは「女性の敵」だという逆転になっていることにも気づくであろう。
ここを、「突いて」からかっているのが、前に書いたネットで人気の「ちくわ【あるある】」の瞬間芸なのである。

よって、これらの図書や映画は、わが国の「主流をなすひとたち」から推奨されるわけもなく、むしろ、これらを「知らない」国民にすることに、「使命感」すらあるはずである。

個人的経験だが、とある現役東大生(政治学専攻)が、4年生になっても、上記作品の存在すら「知らなかった」のに驚いたことがある。
しばらくしてから、メールで「読破して驚いた」という「お礼」のメッセージをもらった。

まじめな学生ゆえの反応なので、かえって本当に東大の政治学専攻課程で、ジョージ・オーウェルもオルダス・ハクスリーも、さらにいえば、ディストピア小説の「はじめ」にあたる、トマス・モア『ユートピア』も教えていないのかと疑った。

いや、東大生は、教師がいうまでもなく「読んでいるはず」という「前提」があるにちがいない。
しかしそれは、極めて「不親切」であって、やっぱり「知らない」ままの「エリート」を量産したいのではないかと確信するのである。

そんなわけで、大分県臼杵市の若林純一市議は、「知っている」側の「小数派」だから、想像以上の「孤独な戦い」をしているにちがいない。

札幌市議会での「議長選出」を巡る「ピエロ」がいたけれど、若林市議の場合は、はるかに政治哲学的本質を衝いている。

人間を支配するのは「恐怖」である。
これに気づいて実行したのが、ヒトラー、スターリン、毛沢東、それにカンボジアのクメールルージュだった。

選挙で選ばれた議員たちが集団で、「マスクをしない」というだけでの言論封殺をすることの重大性に気づいていないことの恐怖。
それを支持する、ネットコメントを書き込むひとたちの、全体主義への「無防備」と、それが全体主義であることの無自覚という恐怖。

その「条件」になっている、マスクがウイルス感染を予防するという「科学」の適当な解釈に至った恐怖、あるいは、「エセ科学」を信じる野蛮の恐怖。

もちろん、日本が戦争に打って出るように仕向けられた、米英による資源締付けの恐怖だってあるし、バイデン氏が一方的に煽る「戦争への恐怖」は、いまやっていることだ。

これらに通じる「戦い」だということに、気づかない「自覚なき可哀想な奴隷たち」が、若林市議を非難するひとたちなのである。

どんな「判決」がでるのかに、興味が涌くことの意味は、すでにある、「司法」への疑いからのことである。

地方裁判所の裁判官を言うのではない。
最高裁判所で、国民審査の対象にもならない、「事務総局」がやっている全国裁判所の裁判官「人事」における、統制の恐怖なのである。

事務と組織が互いに「進化」して、これに通信の進化が掛けあわさってできてきたのが、「効率的な統制」であった。
その事務と組織をとりまとめる者の、(役人の)匿名性が、顔出し名さらしの政治家を無力にしてしまう。

若林市議の「まとも」が日本人の「まとも」にならないことが意味するのは、残念ながら「全体主義の完成」なのである。

台湾海峡危機が、どんな恐怖をもって日本人を野蛮にさせるかも、これから起きることである。
国防の必要と野蛮は別なのである。

「こども家庭庁」反対の建白書

17日、自民党の会合で「設置法(案)」が了承されたことで、事実上の「設置」が確定した。
来年、2023年4月に発足するという。

なお、「庁」なのでどの「省」の外局なのかとみたら、納得の「内閣府」だった。
まことに、不気味な役所であるから、不気味な「こども家庭庁」にふさわしい。

「字面」で文句をいうのはムダな議論に思えるかもしれないけれども、あんがいと「意味」がある。
「こども」なのはなぜか?ということがその「性格」を自白しているのである。

「子供」なのか「子ども」なのか「こども」なのか、それとも「小人」?

「こども」と書いて「子供」を避けているのは、「共」の字の意味にあると、かんがえる。
武将が戦闘開始を告げる、「者共かかれ!」の「共」が、差別的用語であるという悪い発想をするひとたちがいるのである。

子供にも「人権」があるから、「共」の字を「使ってはならない」という。

けれども、日本語で「子供」のことを「こども」というから、「子ども」にもしないで、「こども」と表記するように言い出した。
だから、「大人」に対する「小人」を、「こども」というのもいけない、という「ことば狩り」になったのである。

こんな「ものいい」はナンセンスだとして、一笑に付しながら「切り捨てる」ことが、すっかり左翼政党になった自民党にできなくなったのである。

一見、どうでもいいような「表記」ではあるけれど、すでにこの「表記」にたっぷりと「悪意」が込められている。

では、この「庁」の目的はなにか?
検索したら、「自民党のHP」がヒットした。
タイトルは、『子供政策の司令塔創設へ こども家庭庁設置法案の概要について説明受ける』である。

説明を受けたのは、党「こども・若者」輝く未来創造本部の下に設置されている「こども・若者」輝く未来実現会議、という「会議体」である。
それで、説明したのは、「関係省庁」だと記載されている。

肝心の目的については、「子供政策の司令塔となる「こども家庭庁」を内閣府の外局として設置するのが目的」だとあるので、「設置するのが目的」に読めるけど、枕に「個人として等しく健やかに成長することができる社会の実現」とあるから、きっとこのことだろう。

この時点で、すでに「大きなお世話」である。
「個人として等しく健やかに成長すること」が、どうして国の役所の仕事なものか。
障がい者福祉の充実に勤しむ方が、まだまともである。

この会議体のひとたちの関心がどこにあるかは、次の文に書いてある。
「庁の設置に伴い、各省庁への勧告権などを有する内閣府特命担当大臣を設置する方針」だと。

つまり、大臣ポストが増える、ということだ。
それに、「各省庁への勧告権など」ということは、省庁の上に省庁をつくることを意味している。
ならば、なんのための「内閣」なのか?

大臣間のコミュニケーションの「なさ」を告白している。

驚くべき役人主導を、あたかも内閣の「目玉政策」のごときにするのは、「悪意」としか考えられない。

しかして、この記事はここで終わって、詳細は自民党機関誌『自由民主』の「購読」を申し込まないといけないけれど、なんと「有料」なのである。

国民からの税金を源にする、「政党助成金」をしこたまもらっている「公党」が、法案の事実上の「通過」を意味する会議の内容を、広く国民に伝える意思がない、あるいは自らこれを「拒否」しているのである。

おそらく、「党機関紙」を、「売文」して生計を立てている「新聞」と同じだと勘違いしているのだろう。
いや、確信的に「同じ」だと考えているにちがいない。
責任者たる「広報本部長」は、あの河野太郎氏だから、納得できる。

どこまでも、トンチンカンなのだ。

さて、日本人は小学校や中学校で、『アンネの日記』を読むように推奨されて、成績優秀な「いいこ」ほど熱心な読者となるように仕向けられる。
半世紀前の、アニメ『魔法使いサリー』(原作:横山光輝、放送:1966年12月~68年12月、キー放送局:NET)では、登場人物の小学生少女たちが樋口一葉の『たけくらべ』に憧れるのと、大違い、なのである。

1978年、テレビシリーズ『ホロコースト-戦争と家族』は、メリル・ストリープの出世作となった。
日本でこのドラマは、テレビ朝日(旧「NET」)が4日間(1978年10月5日~8日)にわたって放送した。

日本・ドイツ・イタリアの三国同盟が問題にされ続けているのは、ドイツとイタリアの「ファシズム」があるからだ。
なお、「ファシズム」とは、ムッソリーニの「ファシスト党」を語源として、ヒトラーの「ナチズム」とは厳密には分けている。

そこで、学校の授業では「教えない」ことになっているけど、検定済み教科書には、「戦前・戦中の日本はファシズムの時代だった」という記述があって、おとなには「そういうこと」になっている。

日本における「ファシズム」が、中途半端だったのは、もちろん「よかった」ことになるのは、この両国と比べたら「マシだった」という意味ではあるけど、どうして完全一致しなかったのか?は、わが国に「ヨーロッパの歴史を基盤とする共通価値」がなかったからである。

それは、ハンナ・アーレントの大著『全体主義の起源』を読めばわかる。

しかし、戦前・戦中よりもはるかに「欧米化」した、バブル崩壊以降のわが国は、だんだんと「ヨーロッパの歴史を基盤とする共通の価値観」に侵蝕されて、すなわち一方で「日本の歴史を基盤とする共通の価値観」が失われてきたので、よりアーレントの解説が役立つという「困った」になったのである。

その嚆矢ともいえるのが、「条例文に書くことに失敗した」神奈川県における『禁煙条例』の「原案」だった。
この「案」では、「家庭内禁煙」と「罰則」がセットになっていた。
もちろん、起案したのは神奈川県の役人で、専門家に見せて検討させたのは、ときの知事、松沢成文氏だった。

さしもの専門家たちも、個人宅に官憲が訪問し、喫煙をみつけては罰則を科すのは「ファシズム的」だということで、この案はなくなったのだ。

国家権力はどこまで「個人」あるいは、「個人の生活」に介入できて規制できるのか?
誰からも命令されない「自由」とは、水と油なのである。

ましてや、本件で扱う内容は、「臭いものに蓋をする」程度しかできない「行政」の限界は、最初からある。
それを、万能化しようという企ては、ファシズムなのだ。

自民党は、ファシズムかナチズムに傾いている。
恐ろしいことだという認識を国民がしだしたとき、ほぼ「完成」させているから、恐ろしいのである。

子供のためにも、家庭のためにもならないのが、「こども家庭庁」の本質なのである。

カナダがこわれちゃう

カナダといえば「メープルシロップ」が浮かぶけど、その他には?と、たたみ込まれたらしばし「絶句」してしまう。
植村直己がまさかの遭難という「報」があったのは、1984年2月13日のことだ。

その現場、マッキンリー山(現デナリ山)は、米国アラスカ州にあるので、カナダではない。
日本人には、米国本土とカナダ、それにロシアから「購入した」アラスカとの境界がはっきりイメージできないのだ。

中東やアフリカもそうだけど、国境線やらの「境界線」が、まっすぐなのは「人為」の証拠である。
現地にいけば、フェンスすらないこともしばしばだ。
ランドマークもないから、「地図」に直線を書いて「境界」とした。

英仏が「犬猿の仲」なのは、フランスから来た「征服王」にやられたのを発端に、原住民のケルト語とフランス語が交わってできのが「英語」だというから、よほど「根深い」のである。
もっとも、その前にローマがやってきてもいる。

さらにさかのぼれば、「中央アジア」の発祥で、馬と馬車(車輪がある)をともなって移住してきたひとたちを祖先にするのが「ケルト」だから、モンゴルよりもぜんぜん早い。
シーザーが戦った「ガリア」は、別系統のひとだというけれど、どうなっているのか。

ずっと新しいのに車輪がなかった、李氏朝鮮と中央アジアとの関係もどうなっているのか気になるところだけれども、ここでは論じない。

そんなわけで、カナダも「英連邦」で、女王陛下の名代たる「総督」が、いまでも着任している国だ。
いまでは下火になった、「フランス語圏」のケベック州独立運動は、北アイルランド紛争に似て、過激だったのである。

さて14日、トルドー首相は、戦争と国内暴動以外で初めてとなる「緊急事態(戦時特措)法」を発動した。
対象は、どうやら「トラック野郎たちのデモ」である。
しかしながら、彼らも彼らを支援するひとたちも、どこにも「暴動」はしていない。

けが人もなく、むしろ手をつないでダンスを踊っていたりしているのだ。

デモへの支援寄付金を、今様の「クラウドファンディング」で募集したら、すぐさま10億円を超える資金があつまったけど、最初の「プラットフォーム」が「ユーチューブ」や「ツイッター」のように、裏切って、集まった資金は「内規に触れる暴動資金」と勝手に認定した。

それでもって、自分らが支援する団体に資金を振り分けると発表したので、「詐欺だ」と大問題となって、結局は寄付者のもとに「返金」することになったから、経営者の暴走を弁護士が修正させたのだろう。
「送金手数料」も一緒に返したので、運営者は大赤字になるという「天に唾する結果」となったことでわかる。

なお、同社は、猛威を振るった「BLM運動」の資金集めには、いまだになもしない、という「正常運営」をやっていることもばれて、一般人の脳裡に刻まれることにもなって、プラットフォームとしての信用を自ら壊した。

こうなると、二番手がでてくるのがアメリカで、キリスト教系のプラットフォームが手を挙げたら、ふたたび「11億円」を超える資金が集まった。
これに、カナダの裁判所が「違法判決」を出すトンチンカンが、火に油を注ぐことになった。

プラットフォームは、アメリカにあるので、カナダの判決は痛くも痒くもない、というわけである。
ついでに、アメリカ側の「州」も州民が自由意思で寄付したことを根拠に、カナダ側の裁判所に「抗議する」ことにもなったから、「寝た子を起こす」ようなはめにおちたのである。

さて、イケメンで有名な、ジャスティン・トルドー首相は、親子で首相に就任したひとでもある。
父の、ピエール・トルドーが首相在任(1968年~79年)中に生まれた子が、ジャスティンである。

ピエールのときに、ケベック州独立運動にともなう国内暴動に対する「戦時特措法適用」をしたので、親子で「戦争以外」でこの法を適用したことになった。
ちなみに、名前からもわかるとおり、「フランス系」だけど、ケベック独立には反対していた。

親子共に「党首」に就任したその党は、「自由党」とは名乗るけど、ぜんぜん「自由主義ではない」というのがおかしい。
現状の最大野党は、「保守党」であるけども、こちらもあんまり「保守主義」ではないのは、本国のいまのイギリスと同じだ。

じっさいに、10州あるうちの5州は戦時特措法適用に「反対表明」していたというから、連邦政府の強行突破的な話になっている。
この法と、「テロ対策法」がセットで、カナダ政府に反対する者の銀行口座や電子取引の「凍結」も実施予定というから、このような「法整備がない」わが国からしたら、小説や映画のような「恐怖政治」が実現している。

どうやって、「反対者を特定して口座凍結ができるのか?」の方法が、とっくに政府にある、という意味だ。

「法整備」は、あるなしでなく、「法の中身」が重要だという教訓となっている。
国民を縛る意味での憲法改正も、トンチンカンだから気をつけたい。
民主国家の憲法とは、国民から政府への「命令書」なのだ。

たぶん何もしないわが国外務省は、カナダ人に日本をアッピールするチャンスなんだけど。

若きトルドー氏が、党首に選出(2013年)されたとき、記者から「理想の国はどこか?」と質問され、「中国のような独裁国家」と返答している動画が「発掘」されている。
たとえ冗談でも、「やばい」発言であることは間違いないけど、どうやら「まじめ」な回答だった。

カナダも今年は、地方選挙の年にあたっている。
国民の選択は、もうギリギリのところまできている。

ポータブル・無線・スピーカー

旅に出るとき、なにを持っていくのか?
あるいは、なにを家に置いていくのか?

出張ならそれなりの「道具」としてのパソコンとか、周辺機器は必須だろうけど、個人旅行なら、少しは身軽になる。
ただし、「リラックス」したい、という願望を果たすのに、どれほどのこだわりを持つかによって、その荷物も変わるというものだ。

日本が元気で、さかんに「新製品」を輩出していたころの「画期」をなしたのが『ウォークマン』であったことは、いまでは、「伝説的」でもあるけれど、たしかに、「録音機能がない」という「テープ・レコーダー」という概念には驚いた。

だから、SONY「以外」のライバルメーカーからは、録音機能が「ある」製品が続々と出て、それが「差別化」になっていたのである。
「レコーダー」なのだから、「録音機能がない」のは、あり得ないという常識が、しばらくは消費者にもまだあったのだった。

しかし、どちらにしても、「聴く」ための機器は、「有線のヘッドホン」にかわりはなかった。
それで、「インナー型」でも納得できる音質のイヤホンをつくったのも、やっぱり「SONY」だったのである。

ステレオ・コンポーネントの普及から、カセット・デッキも同時に普及して、音源は「LPレコード」であっても、いわゆる「ダビング」して、「カセットテープ」に録音した。

これを、「再生専用機」で聴くわけだから、「ウォークマン」を持っているということは、その辺の「モノ」を十分に所有している、という証でもあった。

また、「カセットテープ」の材質である「磁気体」にえらくこだわった「高級テープ」もたくさんできて、あーだこーだと選択に迷ったのである。

こうした一連が、面倒くさい(当時の)「高齢者」などは、その財力にものをいわせて、最初からプロが録音した製品の、「ミュージックテープ」を買って、これを聴いていた。
どうせ、LPレコードからの自前の録音ならば、必ず針が拾うノイズがあったからである。

その意味で、「おとな買い」ではあったけど、ジャンルとして「演歌」中心であった残念がある。
だから、「CD」が出たときの驚きは格別だった。

いまでは、ダウンロードさえ「古い」状態で、電子ブックならぬ「音楽配信」では、やっぱり「アマゾンミュージック」がダントツの状態になった。

「アップルミュージック」がいまいちなのは、アップル製品(iPhone、iPod、iPad)を聴くときに無線のブルートゥース機器を使うなら「コーデック方式」が、「アンドロイド」の高音質に劣るからである。
なお、ウォークマンを席巻した「iPod」も、先頃「新製品開発中止」のニュースがあって、すでに「時代遅れ」になってしまった。

それにしてもダウンロードが「アメリカ発」となったのは、「著作権」に関わる「既存法」を、あたらしいビジネスに適応させることに成功した、「議会第一主義」の成果なのである。
日・欧(EU)ともに、官僚主導の「行政第一主義」だから、「既存法」を「保守」することが優先されて、新しいビジネスに適応させることができない。

そんなわけで、アメリカで大流行した、「既成事実」という「外圧」がないと、なにも変えないことが、作り手にも消費者にも足かせになっている。
これが、「規制緩和」の重要なファクターだったけど、なんだかよくわからない「議論」になるのが、日・欧の「いまでも」なのである。

だから、「規制領域がない」分野での、「ものづくり」になるのが、わが国の宿命となったので、「SONY」は、超高級「ウォークマン」を出すしかない。

一台30万円というお値段を聞いて、「たまげた」のは、ビジネス・ソリューションで画期を成すのではなく、やっぱり「音質」の高級だったからで、当該機器に適合した「超高級ヘッドホン」もシリーズ化の予定であるという。

今どきは、小中学生も両耳にヘッドホンなりイヤホンをつけて歩いているけど、自転車で事故ったときの加害者になったら、驚く額の賠償を命令される「判例」が常識だから、人生の破壊危機をつくる機器にもなっている。
これをやめさせない、親(さいきんは「保護者」という)は、なにをかんがえているのか?

「音楽が生活の一部」になったのはよしとして、旅先での楽しみにするには、「持参する」ということに留まっている。
蔵を改装して客室にした宿では、最新のスピーカー・システムが完備されていたので、DVDを持参して自宅ではあり得ない大迫力を体験したことがある。

いまどきは、「ミニシアター・システム」を設置して、自宅で「ふつう」を買っているひともいるだろうけど、「宿」がついていけてない。
隣室との「壁」が薄いと迷惑になるから、小出力のポータブル・スピーカーがちょうどいい。

映画が観られるホテルでも、大画面と音響のセットが揃う部屋はめったにないのだ。

これをどうするか?
あるいは、テレビを置かない、モニターだけの「シンプル」で、スピーカーの設置はある、という「経営判断」もあっていい。

なぜなら、高給をとる富裕層ほど、テレビを観ないからである。
とっくのとおに、テレビ・ニュースを観ることのムダを知っている。

フランス大統領選挙のゆくえ

4月10日が一回目投票日の、フランス大統領選挙だけど、あんがいと日本で話題になっていない。
もう、あと2ヶ月を切っている。
なお、一回目で過半数の得票者がないばあいは、24日に上位二名の決選投票となる。

アメリカの軍産複合体が仕掛ける、怪しげな「ウクライナ危機」という「目先」の問題だって、NATOをどうするのか?に直接関係する。
なにしろ、フランス人の「へそ曲がり」は、加盟したり脱退したり、再加盟したりと、忙しいのである。

NATOが設立された1949年に加盟した「原加盟国」で「本部」もパリだったけど、第二次大戦の英雄、ド・ゴール大統領が「アメリカ主導」にへそを曲げて、1966年に「脱退」した。
以来、何回か「復帰」を画策する大統領はいたけれど、2009年、親米だったサルコジ氏のときにやっとこさ「再加盟」していまに至っている。

だから、「もしや再脱退?」はあり得るのだ。

それに、ブレグジットならぬ「フ」レグジットも議論されているのは、軍事分野のNATOに対して、政治・経済分野が「EU」なのだから、当然すぎる。
この点、イギリスは、NATOに留まって、「それとこれ」を分けたけど。

イギリス人の野蛮と、フランス人の異様なストイックさが分けるものなのだろう。

日本人は当事者だから、あんがいと理解できないのだけれども、「フランス人は日本がお好き」なのである。
よくいわれるのが、「ジャポニズム」で、100年以上前の19世紀後半に現れた絵画などでの「日本趣味」がある。

これに、「アニメ」や「コミック」のサブカルが、見事に「ネオ・ジャポニズム」をつくりだしたのは、日本の出版社による「努力」だろう。
フランスには「BD:バンデシネ:bande dessinée」という「漫画」があったのも重要な共通の文化基盤だ。

漫画は子供がみるものでおとなは興味を示さない、を壊したのは、マクドナルド式に、子供へのアプローチに成功して、一生の「顧客」に変えたのだった。
そうやって、日本以外でフランスが世界一「コミック」を購入する国になった。

人口6700万人の国で、年間4700万冊の販売実績がある。
日本で出版される「単行本」のほとんどが、フランス語訳がついて売られているので、その「マニア」ぶりがわかるというものだ。

それなのに、情報ギャップがいまだにあるのは、伝統的日本とサブカルという「特定ジャンルしか」発信していない、というわが国側の「無作為」があってのことである。
観光庁がやるべきは、「ここだけ」で、あとは「やってはならない」と決めるべきだ。

つまり、現代フランス人も、自己中というフランスの伝統において、日本を勝手に解釈して、自己満足しているのである。

ネットでは、「ボンソワールTV」をやっている、驚くほど上手な日本語を話すフランス人女性が、「日本大好き」目線から、日本向けに情報発信しているのが、たいへん参考になる。(上述コミック情報も)
しかも、彼女を撮影する側にいるのが、日本人の夫なのだから、めったに「大ズレの変なこと」は言わない。

けれども、ちょっとずつの「変」が、この動画の魅力ではある。

たとえば、高校からの日本留学での経験から、日本人女子への憧れを語る回では、「制服」があることの珍しさだけでなく、その「着こなし」のかわいさや、「部活」がないフランスでの学園生活のつまらなさを指摘するばかりか、日本人の「かわいい鼻」や「白い肌」について熱く語っているのだ。

「高くて大きい鼻」は、彼女の美意識では「過剰」で、不細工なのだ。
それに、白人の荒れた肌を疎んで、どうしたら日本人女性のようにきめ細かくて白いきれいな肌になれるのか?ということを、真剣に研究したいという。

そしてそれが、生まれ変わったら絶対に日本人になって生まれたい、とまで高揚するのだ。
コロナがおさまれば、日本に「帰国する」計画があるという。
きっと、細かい点までの「情報ギャップ」を埋めることになるだろう。

そのとき、心境にどんな変化が生じるのか?それとも確信を深めるのか?

彼女の夫が日本人だという生活環境は、きっと「ふつうじゃない」ので、ふつうのフランス人がどこまでの「日本趣味」なのかは、残念ながらわからない。

さて、マスコミがいう「極右」の候補で、5年前の前回に決選まで「善戦」したマリーヌ・ルペン氏とは一線を画す、もうひとりの「極右候補」が、エリック・ゼムール氏だ。

ここで、マスコミが「極右」というときは、「保守派」と解釈するのが妥当だ。
ついでに「左派」といったら、「極左=共産主義者」のことを指す、それぞれが、「用語」になっている。

もちろん、フランスのマスコミも基本的には、「左派」だ。

このゼムール氏は、アルジェリア・ユダヤ系移民の二世であるから、生粋のフランス人ではない。
しかしながら、成績優秀で、パリ政治学院の卒業生だ。
それから新聞記者になって、評論家になったひとである。

ちなみに、旧植民地アルジェリアの支配利権を維持したい側と、ド・ゴールとの話を、サスペンス小説にしてセンセーションを巻きおこしたのが、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(映画は1973年)であった。

 

フランスは革命以来、その「政治の混沌」がずっと続いて、もうすっかり「お国柄」にまでになっている。

ついでに、「ここは地の果てアルジェリア」の一節で有名な、懐メロ『カスバの女』(1955年)でいう「カスバ」とは、首都アルジェの「城壁」(アラビア語で「カスル」、英語で「キャッスル」)を指して、壁に囲われた典型的な城壁都市のことである。

日本も同様だけど、「優秀」といわれることの判断を、「入学や卒業した学校名」に求めることに、ほとんど意味がないばかりか、それらの学校出身者ばかりが、官界・政界にいることが、ずっと「混沌」の原因と結果ともいえるのである。

そんな事情は横にして、ゼムール氏は選挙演説で、フランスが見習うべきは「日本」だと明言しているのである。
移民を受け入れない、失業率の低さ、貿易黒字、わずかばかりのインフレ。
これに支持者たちが、「熱狂的声援」を送っているのだ。

日本人には、エスプリが効きすぎた「褒め殺し」にも聞こえるけれど、相対的に「まだまし」というのも事実なのだろう。

現実路線を採用して、過激さが薄くなったと却って支持者の不満を得ているものの、相変わらず人気のルペン氏とゼムール氏の支持をあわせると、半数に迫るので、左派で独裁色を出した若き現職にとっては「楽勝」の選挙ではない。

まずは、日本に生まれてよかった。
いや、「おフランス」に生まれないでよかった?

来年のバレンタインデー

キリスト教が世界的に、世にも珍しいほどに、「普及しない」わが国のひとたちが、「無宗教」だという「デマ」が「思い込み」になって久しい。

たとえば、映画『ミッション』(1986年)は、日本でも上映されたけど、いまいちピンとこないのは、作品中で改宗した「原住民」以下が日本人だからかもしれない。

悪名高きイエズス会を美化したのは承知でも、同年のカンヌ映画祭でグランプリを獲ったし、音楽も現代の巨匠、エンニオ・モリコーネだったから、「感動」はあったのに。

 

それでもって、とうとう「猿」にされたけど、これを、「よろこんで観る」のも、また日本人なのであった。
第一作は1968年。

それからシリーズ化されても、ぜんぜん日本人に「自覚」がないので、しびれを切らすことにもなって、2001年に最新作がつくられた。
どう観ても、豊臣秀吉とその軍団になっている。
でも、やっぱり日本人は、決して「不快」にならなかったのだった。

暖簾に腕押し,糠にくぎ、馬耳東風、はたまた、豚に真珠か。
それともやっぱり、「和を以て貴しとなす」なのかもしれない。
この意味で、妙に、キリスト教的「慈愛の精神」がある。

 

過ぎたれば、で失敗したのが、先の戦争、ということになっていて、いまでは、なにが「過ぎたれば」だったのかさえもわからなくなっている。

1955年、インドネシアのバンドンで開催されたから、「バンドン会議」というけれど、反帝国主義、反植民地主義を唱えたアジア・アフリカの29か国が集合して、なぜか日本も招待された。
恐る恐る会場にいけば、「満場の拍手」で迎えられたという「伝説」がある。

戦闘で負けたけど、戦争では負けなかったのだ。

こんなことを、記憶喪失したので、ちゃんと「供述不能」になる、という「症状」が現れて、今日に至っている。
それで、こんどは、正反対の「過ぎたれば」をやりだして、近隣諸国からはバカにされ、「親日だった」台湾までもが呆れて相手にしてくれない。

そんなこんなで、今を生きることにした。

これを、「現世利益」というので、これを標榜する宗教団体との親和性ができたのである。
とにかく、「いま」がよければそれでいい。
だからもう、孫や子の時代がどうなるかも気にしないし、子がいないから責任を感じることもない。

むしろ政府は、楽な生活を保障すべきだと思いこむようになったのである。

さてそれで、バレンタインデーの発祥は、神戸の製菓店「モロゾフ」が、居留外国人向けに「チョコレート」を贈ることを提案した、とある。
1936年(昭和11年)のことであった。

モロゾフ一家の悲劇は、自身の名前をつけた会社が、事実上「乗っ取られる」という運命が待っていることで、相手は「清廉潔白」のはずの日本人である。

なお、初代モロゾフ氏は、「白系ロシア人」であったから、いまでいう「ベラルーシ」の出身である、ということではなくて、「赤軍」の「赤」ではない、という意味だから注意がいる。

つまり、反革命の「亡命ロシア人」だった。

ときに、二年前の昭和9年は、天保以来といわれる「飢饉」となって、東北地方における「惨状」は、筆舌に尽くしがたいものだった。
米価が復活したのが、昭和11年だったのである。
それから、二年後の昭和13年には、「国家総動員法」が施行された。

さて、取締役だったモロゾフ氏が日本人経営者(社長)に不信を抱いたのは、33年(昭和8年)のことだった。
原因は、帳簿を見せてくれない、ということで、モロゾフ氏との契約では、利益に応じた報酬の支払いがあったのである。

それでもって、袂を分かつことになったのは、36年の夏のことであるから、「バレンタインデーのチョコレート」は、じつに「苦い味」がしたことだろう。

こうして、会社を追われた氏には、41年まで「モロゾフの商号使用の禁止」まであったけど、これを、泣く泣く「のんだ」のは、ソ連への強制送還をすると脅されたからであった。
いわゆる「日本で散々な目にあった」のである。

この件で、日本の裁判所は、「大津事件」のような気概を見せなかった。

なんだか、長崎の「グラバー邸」で有名な、武器商人トーマス・グラバーの長男、倉場富三郎氏の「神戸版」のような話なのである。
こちらの「悲劇」は、もっと話が大きくて「自殺」という最悪の結末だったけど。

戦後の高度成長になって、バレンタインデーのチョコレートが一般に普及したのは、それが、「女子から男子へ告白」という日本ローカル・ルールがついて、翌月の3月14日が「返礼」の日となるという「独自の文化」になった。

「第二次性徴」が男子より早いおませな女子には、ここ一番、の日になったのである。

そうやって、聖バレンタインとはぜんぜん関係のない、楽しいイベントになった。

さてそれで、流動化する世界にあって、この平穏が永遠のものと思いこんでいる節がある、現代日本人は、「来年も」幸せなバレンタインデーを迎えられるのか?

一抹の不安を覚える昨今なのである。