「こども家庭庁」反対の建白書

17日、自民党の会合で「設置法(案)」が了承されたことで、事実上の「設置」が確定した。
来年、2023年4月に発足するという。

なお、「庁」なのでどの「省」の外局なのかとみたら、納得の「内閣府」だった。
まことに、不気味な役所であるから、不気味な「こども家庭庁」にふさわしい。

「字面」で文句をいうのはムダな議論に思えるかもしれないけれども、あんがいと「意味」がある。
「こども」なのはなぜか?ということがその「性格」を自白しているのである。

「子供」なのか「子ども」なのか「こども」なのか、それとも「小人」?

「こども」と書いて「子供」を避けているのは、「共」の字の意味にあると、かんがえる。
武将が戦闘開始を告げる、「者共かかれ!」の「共」が、差別的用語であるという悪い発想をするひとたちがいるのである。

子供にも「人権」があるから、「共」の字を「使ってはならない」という。

けれども、日本語で「子供」のことを「こども」というから、「子ども」にもしないで、「こども」と表記するように言い出した。
だから、「大人」に対する「小人」を、「こども」というのもいけない、という「ことば狩り」になったのである。

こんな「ものいい」はナンセンスだとして、一笑に付しながら「切り捨てる」ことが、すっかり左翼政党になった自民党にできなくなったのである。

一見、どうでもいいような「表記」ではあるけれど、すでにこの「表記」にたっぷりと「悪意」が込められている。

では、この「庁」の目的はなにか?
検索したら、「自民党のHP」がヒットした。
タイトルは、『子供政策の司令塔創設へ こども家庭庁設置法案の概要について説明受ける』である。

説明を受けたのは、党「こども・若者」輝く未来創造本部の下に設置されている「こども・若者」輝く未来実現会議、という「会議体」である。
それで、説明したのは、「関係省庁」だと記載されている。

肝心の目的については、「子供政策の司令塔となる「こども家庭庁」を内閣府の外局として設置するのが目的」だとあるので、「設置するのが目的」に読めるけど、枕に「個人として等しく健やかに成長することができる社会の実現」とあるから、きっとこのことだろう。

この時点で、すでに「大きなお世話」である。
「個人として等しく健やかに成長すること」が、どうして国の役所の仕事なものか。
障がい者福祉の充実に勤しむ方が、まだまともである。

この会議体のひとたちの関心がどこにあるかは、次の文に書いてある。
「庁の設置に伴い、各省庁への勧告権などを有する内閣府特命担当大臣を設置する方針」だと。

つまり、大臣ポストが増える、ということだ。
それに、「各省庁への勧告権など」ということは、省庁の上に省庁をつくることを意味している。
ならば、なんのための「内閣」なのか?

大臣間のコミュニケーションの「なさ」を告白している。

驚くべき役人主導を、あたかも内閣の「目玉政策」のごときにするのは、「悪意」としか考えられない。

しかして、この記事はここで終わって、詳細は自民党機関誌『自由民主』の「購読」を申し込まないといけないけれど、なんと「有料」なのである。

国民からの税金を源にする、「政党助成金」をしこたまもらっている「公党」が、法案の事実上の「通過」を意味する会議の内容を、広く国民に伝える意思がない、あるいは自らこれを「拒否」しているのである。

おそらく、「党機関紙」を、「売文」して生計を立てている「新聞」と同じだと勘違いしているのだろう。
いや、確信的に「同じ」だと考えているにちがいない。
責任者たる「広報本部長」は、あの河野太郎氏だから、納得できる。

どこまでも、トンチンカンなのだ。

さて、日本人は小学校や中学校で、『アンネの日記』を読むように推奨されて、成績優秀な「いいこ」ほど熱心な読者となるように仕向けられる。
半世紀前の、アニメ『魔法使いサリー』(原作:横山光輝、放送:1966年12月~68年12月、キー放送局:NET)では、登場人物の小学生少女たちが樋口一葉の『たけくらべ』に憧れるのと、大違い、なのである。

1978年、テレビシリーズ『ホロコースト-戦争と家族』は、メリル・ストリープの出世作となった。
日本でこのドラマは、テレビ朝日(旧「NET」)が4日間(1978年10月5日~8日)にわたって放送した。

日本・ドイツ・イタリアの三国同盟が問題にされ続けているのは、ドイツとイタリアの「ファシズム」があるからだ。
なお、「ファシズム」とは、ムッソリーニの「ファシスト党」を語源として、ヒトラーの「ナチズム」とは厳密には分けている。

そこで、学校の授業では「教えない」ことになっているけど、検定済み教科書には、「戦前・戦中の日本はファシズムの時代だった」という記述があって、おとなには「そういうこと」になっている。

日本における「ファシズム」が、中途半端だったのは、もちろん「よかった」ことになるのは、この両国と比べたら「マシだった」という意味ではあるけど、どうして完全一致しなかったのか?は、わが国に「ヨーロッパの歴史を基盤とする共通価値」がなかったからである。

それは、ハンナ・アーレントの大著『全体主義の起源』を読めばわかる。

しかし、戦前・戦中よりもはるかに「欧米化」した、バブル崩壊以降のわが国は、だんだんと「ヨーロッパの歴史を基盤とする共通の価値観」に侵蝕されて、すなわち一方で「日本の歴史を基盤とする共通の価値観」が失われてきたので、よりアーレントの解説が役立つという「困った」になったのである。

その嚆矢ともいえるのが、「条例文に書くことに失敗した」神奈川県における『禁煙条例』の「原案」だった。
この「案」では、「家庭内禁煙」と「罰則」がセットになっていた。
もちろん、起案したのは神奈川県の役人で、専門家に見せて検討させたのは、ときの知事、松沢成文氏だった。

さしもの専門家たちも、個人宅に官憲が訪問し、喫煙をみつけては罰則を科すのは「ファシズム的」だということで、この案はなくなったのだ。

国家権力はどこまで「個人」あるいは、「個人の生活」に介入できて規制できるのか?
誰からも命令されない「自由」とは、水と油なのである。

ましてや、本件で扱う内容は、「臭いものに蓋をする」程度しかできない「行政」の限界は、最初からある。
それを、万能化しようという企ては、ファシズムなのだ。

自民党は、ファシズムかナチズムに傾いている。
恐ろしいことだという認識を国民がしだしたとき、ほぼ「完成」させているから、恐ろしいのである。

子供のためにも、家庭のためにもならないのが、「こども家庭庁」の本質なのである。

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