「媚中派」の「媚」は、自らかかった「ハニートラップ」やらなにやらの「罠」によって、外国にコントロールされる立場になってしまった、ということがあるのだろうけど、表向き「国民には言えない」、国防上の「絶望」が、その外国による、この1250発の中距離核弾頭であって、わが国の主要都市をターゲットにとっくに配備されている、ということだろう。
前にも書いたが、「核ミサイル ターゲット 日本」に、想定される「国名」を追加して検索すれば、たちまち「配備図」までもがヒットするし、わが国を代表する新聞社は、「被害想定」の記事(見出しは「日本1800万人即死」2020年8月3日付け)まで出している。
つまり、「公然の秘密」という状態になっていて、これを「正式に認める」ことは、国民が「パニックになる」とかなんとかいう理由をつけて「言わない」ことにしているのだろう。
いまさらコロナがどうでもいい「風邪」だった、とは言えないから、効果がまったくないことが世界の「ロックダウン政策」の結果でもわかっているのに、「まんぼう」なるムダな政策をやるのは、もはや「バレたら」パニックになるという「恐怖」からでしかないのとおなじだ。
国民がパニックになるのではなくて、薄々気づいていることが「おおやけ」になることで、「正論」になることが、「政府の無謬性(決して間違えない)」を崩壊させてしまうことの「恐怖」なのである。
だから、2年も経って、「未知の病」だということで「固定」して、新たな知見を無視した政策をとるしかない、ということに政府が自分で追い込んでしまった。
「科学を無視」したことの「つけ」が廻ってきたのである。
では、この「核ミサイル群」はどうなのか?といえば、「事実を無視」したことの「つけ」である。
国民が事実を知らない限り、自分たちの主張の自己欺瞞の言い訳が、「国民を護るため」の「媚」なのだ、という心理でいられる。
これは、脅迫に屈した、ということでの「媚」である。
さらに、昨今開発されたという、「極超音速ミサイル」という最新兵器は、「北」すらも成功させたという報道がされている。
「迎撃不可能」という「事実」は、このミサイルの飛翔スピードが「極超音速」というスピードだから、ではない。
大問題なのは、「軌道を変える」ことなのである。
早くからオリンピック競技になっている、「クレー射撃」の難易度は、クレー撃破「ロボット」が存在しないことでわかる。
その理由は、初速100㎞程度かそれ以上で射出されたクレー(素焼きの皿)の到達予測地点に向けて散弾を撃つことを、およそ0.8秒内で行うことの「困難」なのである。
これには、散弾の到達時間があるからだ。
つまり、目に見えている、いまこの瞬間の位置にあるクレーをめがけて撃っても、散弾が到達するまでに、もはやその位置にクレーは存在せず、放物線上の先に移動してしまうのだ。
よって射手は、目に見えない放物線とその先を予測して撃つことができないと、けっして当たらない。
しかも、散弾の射程距離とクレーの飛翔距離から、以上の動作を0.8秒以内で終えねばならないから、「機械」ではできないのである。
これを、「ミサイル迎撃」ということで考えれば、発射されたミサイルが「放物線」上に落下する従来型であれば、落下地点までの軌道は計算可能で、しかも、数分間の時間があるから、迎撃ミサイルを放物線上の予測地点に発射すれば、「当たる」のである。
しかも、「迎撃ミサイル」には、「目」があって、予測地点に近接したら、「目視」しながらターゲットを確実に撃破するよう、自らの軌道を修正することで、誤差数センチ以内の精度まである。
鉄砲の弾とは大違いなのだ。
けれども、「軌道を変える」という相手には、まったく通じない。
それで、「迎撃不可能」ということになる。
ならば仕方がない、では済まないから、発射前の「止まっている」ミサイルを破壊するしか、方法がないのである。
ましてや、「核弾頭」を乗せているので、通常型でも「誤差数センチ以内の精度」をもって撃破するのは、確実に「核弾頭」を破壊するためである。
放射性物質による「汚染」を理由に、「反対」するひとがいるけど、都市上空で「爆発」したときの被害とは比較にならない。
そんなわけで、発射前のミサイル撃破は「ミサイル防衛」に含まれる、という定義のもと、2015年の日米防衛ガイドラインでは、「日本が」これを主体的に対処する役割を負っていて、米軍は「サポート」となっている。
それで、わが国には発射前のミサイルを撃破するための手段はあるのか?を問えば、「つくるべきかつくらざるべきか」で止まっている。
なんだか、ハムレット状態なのだ。
なるほど、ならば相手に「媚びるだけ媚びる」という方法で、「命乞い」をしているのがわが国の姿なのであるけれど、国民は知らずに「平和」を享受している。
1億人の悲惨をもっての「教訓」として、22世紀の人類に「愚民の平和」という「逸話」を残すしか、貢献できないのかもしれない。