企業が自由を破壊する

外国、特にアメリカの「大統領発言」を機に、航空会社のパイロットたちが、どうやら「集団罹患」して、「病欠ばかり」となり、運航不能で欠航があいついで数千便にものぼっている。
これが、「仮病」なのか?どうなのか?は、わかっていない。

しかし、「同時期」にパイロットばかりが「病欠」しているのである。
さてはパンデミック?ともなっていないのは、「ストライキ」ではないか?との疑いに、労働組合が否定している「だけ」だからである。

問題の「大統領発言」は、今年の9月9日のことだった。
突如、民間も含めた「ワクチン義務化」を「発表」したのだった。
それで、大手航空会社は、ワクチン未接種者あるいは拒否者への「解雇予告」を「強化」したのだった。

これはなにも航空会社だけでなく、全産業をカバーするから、学校では、「最後の授業」が頻発している。
ワクチン未接種あるいは拒否した、教師があいついで「解雇」されているのである。

「生粋のフランス人」アルフォンス・ドーデの作品で、最も有名な『最後の授業』は、普仏戦争(1870~71年)で敗北したフランスが、その領土「アルザス・ロレーヌ地方」(ドイツでは「エルザス・ロートリンゲン」)をドイツに引き渡す直前の「その時」を描いたものだ。

なお、第二次大戦後は、フランス領になっているけど、とにかく「何回」も行ったり来たりしている「係争地」なのである。
この地方は、フランスにあって「ビール」の産地で、ビール醸造所が「直売」するときに出した「つまみ」ごとパリに進出したのが、「ブラッセリー」という「ビアホール(居酒屋)」であった。

「戦争」という、目に見える「勝敗」の結果は、どんなに理不尽であっても受け入れざるを得ない。
それが納得できなければ、再度戦争をして「取り返す」というのを「野蛮」というが、残念ながらいまだに「戦争のルール」なのである。

だから、いつ何時、また奪われるかもしれない。
「領土」は変わっても、「人間」を変えてなるものか、という精神から、この「小説」は、この地方の小学生の「必修の暗誦」課題になっている。
つまり、この地方に住むひとで、この小説を暗誦していないひとは「いない」ということなのだ。

子供からはじめれば、半世紀もすると完全に「社会の常識」になる。
これが、「初等教育」の効果であり、恐ろしさでもある。
わが国では、GHQに禁止された『教育勅語』がこれにあたる。
初等教育を舐めてはいけない、重要な事例なのだ。

戦後の日本人の子供は「必修の暗誦課題」を受けていない。
このことの「不幸」は、郷土愛を含めて「持たせない」ことの決心が、おとなの側にあったということによる。

それは、一種の「精神的被害者」を生産するという意味でもある。
伝統的・精神的価値観を子供に「移植しない」まま、集団に隷従するように「しつける」ということの、「設計」とは、その意図を隠せる立場からしたら、こんなに有利なことはない。

これが、現代の「支配の構造」を支えているのである。

精神的・思想的支柱がないまま、集団には盲目的に隷従するなら、まったくもって為政者たちには都合のよい「国民」になるからである。
これが証拠に、選挙権を18歳に引き下げても、若者は選挙に行かず、興味もない、のは、まことに「教育成果」というしかない。

さてそれで、アメリカ大統領の「発言」は、企業経営者を「その気」にさせて、「解雇」という伝家の宝刀を抜かせている。
ところがまったく不思議なことに、この大統領は、本発言後に「大統領令」すら発していない。

つまり、「言っただけ」の状態なのである。

だから、「解雇された」ひとたちは、連邦政府に「法的根拠」を求めることができず、個別に雇用主を訴えるほかない。
それで、共和党のテキサス州・フロリダ州知事は、「ワクチン強制による解雇禁止令」で対抗している。

ところで、ワクチン強制による解雇を順調に進めているアメリカン・エアーと、大量病欠で欠航が相次ぐサウスウエスト航空は、両社とも本社をテキサス州に置いているから、これからどんなことになるのかが注目されている。

なかでも、サウスウエスト航空のパイロットが投じた動画は、再生回数が驚異的な伸びになっている。
彼の主張は、「選択の自由」を失うことの「恐怖」なのであり、アメリカ建国の「歴史否定」だ、と。

さて、わが国に目を移せば、「ワクチン強制による解雇」には至っていない。
けれども、旅行業界とその周辺は、「ワクチン・パスポート」への期待を露わにしていて、「間接的に強制」を示唆するばかりか「期待」しているようだ。

これぞ、「自由思想」という「芯」がなくて、学校集団のなかで勉強エリートというだけの人生が醸し出す、「隷従」であることすら気づいていないことの証拠だ。

もはや「企業の社会的責任」に堂々と抵触しても、我関せずでいられるのは、「政府がいう空気」に隷従しているからだ。
そして、その隷従を、従業員ばかりか消費者にも、強制しようとしている。

自由経済に立っているはずの企業が、自由を破壊する。
もう、政府はなにもしなくてもいいのだ。
むしろ、国民を痛めつける政策を堂々と推進できると考える。
これが、「岸田政権」の本質だ。

ただし、アメリカ人が目醒めると、日本政府にも影響するから、全く情けないけど、「自由を希求するアメリカ人」に、日本人全体も依存しているのである。

女性優先温浴施設の快適

「エステティック」を「エステ」と略す日本語にしたのは誰なのかを知らないけれど、まずは「女性向け」というイメージがある。
もちろん、「男性エステ」というのも人気があることは承知している。
しかし、その場合は、「男性」を付けて区別するのである。

男女の「中性化」というのは、体内ホルモンの分泌が影響するとしても、どうしてそういうホルモンが出てくるのかは、素人にはわからない。
「清潔感のアピール」という社会的要素もあるだろうけど、だんだんと「アンチエイジング」の要素も老化を意識すると涌いてくる。

もちろん、「若返り」を図りたい、というほどではない。
むしろ、若いときのことを「思い出す」という記憶が、老化しいる現実の自分に「おののく」のである。
これには、個体差はあまりないのではなかろうか。

とはいえ、それが「ふつう」のことで、ムダな抵抗であると割り切れば、なにもすることはない。
「ムダ」だから、なにもしない、という選択が無意識でとられるのも、別段批難の対象にはならない。

けれども、興味本位というきっかけであろうがなんであろうが、「ムダ」を承知で「体験する」と、その場限りの刹那とはいえ、「ほう」と思うことがある。
ましてや、「偶然」ならなおさらだ。

そんなわけで、「偶然」にも複数の地元民の男女から、「この辺の温浴施設でお勧め」と言われたから、素直に行ってみた、だけのことではある。
ただし、とある初老の男性は、「自分にはどうもしっくりこない」と言って、別の「温泉」を勧めてくれた。

だから、先に書いておけば、その温泉にも行く予定を立てたい、と考えている。

さてそれで、勧められた施設は、有名エスティシャンの名を冠した「お風呂」なのである。
料金は聞いていた値段から「やや高め」の、1500円だった。
しかし、タオルや部屋着までがセットになっている。

持ち込みタオルの想定はないらしい。
これはこれで「発見」である。
余計な荷物がいらない。

エントランスからして、豪華さがあるけど、フロントも「その辺のお風呂」とは違う。
脱衣所も、「きれい」だ。
あかすりやカミソリも別途用意されていた。

驚いたのは、「洗剤」で、ボディーソープだけでなく、シャンプーやリンスが「豪勢」なのだ。
「液状」ではない、「泡タイプ」のシャンプー、リンスを、温浴施設で初めて見た。

しかも、わたしが愛用している「泡シャンプー」は、「炭酸洗髪」をうたったものだから、「香料」はない。
ここのものは、「ユニセックス」なのだろうけど、甘いフローラルな香りがするのである。

そして、泡立ちがよい。
ふだんリンスはつかっていないけど、似たデザインのボトルには、「1」、「2」と書いてある。
老眼には小さい文字は困るけど、この「数字」で意味を理解した。

「2」をつかってみたら、こんなものがあったのか、と感心した。
さすがは、有名エスティシャンの名前がついたお風呂である。

男性の浴場にあるのは、バブル風呂と人工炭酸泉、それと「日替わり」という露天風呂の三種類、これにサウナと岩盤浴もある。
しかし、家内によれば、女性の浴場は五種類の浴槽があるという。

わたしの問題は、「温度」だ。
「ぬるゆ」にたっぷりと時間をかけて浸かることに幸福感を見出した。
いつもの「山梨の温泉」には、2時間半は入っている。
「熱い湯」では、ぜったいにできない。

初めてのここは、どんな温度なのか?
人工炭酸泉に入ると、ギリギリの合格温度であった。
もっとぬるくていい。
けれども、しばし居眠りできたのであった。

「日替わり」の湯は、雨の中の露天(風呂には屋根はある)だ。
ここはいい感じでぬるい。
入ってから気がついたのは、なんだか肌がスベスベではなくて、ヌルヌルするのである。

それに、風の具合から、「いい匂い」がする。
てっきり、シャンプーとリンスの匂いが強いのかとも思ったけれど、そうではなくて、「お湯の匂い」なのだ。
しかも、心なしかお湯に「粘度」がある。

背にあった表示版には、「ヒアルロン酸の湯」とあって、「香り」についても記載があった。
あゝ、ここにずっと入っていたい。
温泉ではないのに、珍しくもそう思った。

脱衣所に戻れば、ここにもエステティック・サロンを彷彿とさせる、化粧品類が置いてあった。
悪いが、よくある「スーパー銭湯」の、無名メーカーのそれではない。
「オリジナル」のそれ、なのである。

これも「ユニセックス」なのだろうか?
ちょっと違う気がしたけれど、せっかくなので試してみたら、「香り」以外に違和感はない。

念のために言えば、やっぱり甘いフローラルな香りなのである。
嫌ではないが、シャキッと感がない。

ここは一体どんな施設なのだろう?
フロント横では、母娘が「エステ」の予約待ちをしていた。
あくまでも「女性優先」なのである。

しかし男性でも、1時間半の滞在では「短すぎる」のだった。
「次回」は、「宿泊」もできるので、そのつもりで再訪したい。

「総合雑誌」という分野

「出版文化」の衰退が著しい、と言われ続けて半世紀。
『文藝春秋』や『中央公論』それに『世界』といったものが、正統派として現存していて、「オピニオン誌」という傍流がいくつか残っている。

高校生のときから「愛読」していたのは、『文藝春秋』で、大学生になったら、『諸君!』と『世界』、『正論』、『VOICE』が加わって読み比べたものだった。
たまに、『論座』とか『前衛』なんてものも目にしたけれど、納得できる論文は皆無であった。

社会人になったら、自社の広告が必ず出ているので、やっぱり『文藝春秋』は定期購読していたし、『諸君!』も定期契約をしていたけれど、20年ほどまえに、「論調が変わった」ことに気がついて、まずは『諸君!』の購読をやめた。

それから、『WILL』とかに「切りかえた」のだが、やっぱり違和感があって購読をやめた。
そして、ついに2009年の6月号を最後に、『諸君!』が「休刊」になったとニュースになったけど、さもありなん、と特に感慨はなかった。

記憶がはっきりしないけど、同じような時期に、高校以来の『文藝春秋』も定期購読をやめて、しばらくは電車内の中吊り「広告」次第で単発購入をしていたけれど、これも「続かず」とうとう一切読まなくなった。

これにはいろいろ理由が考えられる。
しかしながら、第一には「読み応え」ということが薄くなったからだと思う。
「往年の執筆陣」が、物故するなりしてしまったのだ。

福田恆存とか、小林秀雄とか、あるいは江藤 淳とかといった「豪華」な面々が繰り出す「評論」には、大概感心したものだった。
いわゆる、「保守論壇」というものが、存在していた。

また、識者100人インタビューとかの「特集」も、忘れられないものがあった。
『文藝春秋』なのに、日本を代表する識者の「人生を変えた記事」では、『中央公論』の「文明の生態史観」(梅棹忠夫)が圧倒的支持で、すでに「アマゾン」で検索する時代になっていたけど、単行本になった「初版」は1円で購入できた。

これが、わたしと梅棹先生の「出会い」となった。

しかし彼らがいなくなってから、なんだか「薄く」て深掘りが足らないのである。
その意味で、読者が離れていった、というのは、「活字離れ」という理由ではない。

むしろ、活字に飢えているのに、提供される「論文」がつまらないのである。
この欲求不満が、ネット社会という「たまたま」によって「解消される」ということでの、「ネトウヨ」になったと思われる。

不思議なのは、「ネトウヨ」はあっても「ネトサヨ」とは言わない。
これは、基本に左翼思想が鎮座ましましているからだろう。
つまり、浮いているのは「右派」ばかりなり、ということになったのである。

これを、「軸のぶれ」というのは簡単だけど、どうして「ぶれたのか?」といえば、「売文」をもって商売としているから、多数に流れるのは、需要と供給の大原則からすれば,当然の帰結となる。

なにも他人の批判ではなくて、だれだって自分の考えに近いものを「読みたがる」し、「見たがる」のは、なんだか犬に似た習性なのだ。
なので、「読みたがる」満足が満たされなければ、購入しない、という行動になる。

あるいは、なんでもいいから「話題性豊富」な「論文」を読んでみたい。

ところが不思議なのは、ならば「市場」に追従しているはずなのに「部数」が伸びずに「廃刊」に追い込まれるのは何故なのか?
誌面での「論争」も緩くなって、緊張感すらなくなったからなのか?
それとも、執筆陣の顔ぶれが狭まって、マンネリ化したためか?

そんななか、「久しぶりのヒット」に、財務省の矢野康治事務次官が寄稿した論文がある。
8日発売の『文芸春秋』11月号に掲載された。

お題は、「財務次官、モノ申す『このままでは国家財政は破綻する』」で、10ページにもわたって日本の「危機的な財政」状況を解説してくれている。

なんだか、「懐かしさ」を感じるのはわたしだけか?
こうやって、過去、さまざまな「増税」がされてきて、めったに「減税」はなかったものだ。

たとえば、「消費税」だって、「税率」ばかりが議論になるけど、「免税点」が引き下げられるという「増税」は、だれも議論しない。
「省令改正」という奥の手で、3%の時代から「大増税」されている。
これを、「益税」という「不公平の解消」と、役人は説明していた。

さて、「危機的な財政」というのは、どんなことなのか?
わが国の、「政府の会計」は、種類がいっぱいあって、まず「どの会計」のことを言っているのかが「不明」だから、「不毛の議論」になる。

それに、中央も地方も、基本的に「単式簿記」なので、「会計」毎に「やり繰り」するようになっているのである。
つまりは、「家計簿」とか、子供の「お小遣い帳」とおなじで、年初に「入金」してから、あとは「つかった分」を引き算するだけだ。

それでもって、年度末に「残高をゼロ」にするように「調整」するのが、各役所の「会計課長」の「腕」なのである。
年度末に、道路工事が盛んになったり、出張が増えるのはこのためだ。

しかも、「国会に報告義務」がある「会計」とは、「一般会計」だけで、あとはわからない。
だから、「予算」も「決算」も、それ以外の「会計」でどうなっているのか?実は、全部を把握している者は「いない」という状態なのだ。

会計検査院が、とっくに追及をあきらめている。
このことが、すでに「財政破綻」なのである。

過去に破たんした企業でいえば、「簿外資産」が「不良化」していることに突如気づいて、倒産するようなものだから、ほんとうは、「財務省」も「わかりません」といえばよかった。
でも、そんなことは死んでもいえない。

もちろん、財政を圧迫する「元凶」の、公的年金とかは、「完全なるネズミ講」状態で、「積立金」とか「掛け金」とか、あるいは「賦課方式」なる、それらしい「用語」でごまかしている。
今集めたおカネは、今の支給につかわれているにすぎない。

しかも、もっともムダな「環境対策」に、年間20兆円もドブに捨てているのを「決してやめない」ばかりか増やすというのだ。

そんなわけで、やっぱり「読むに値しない」けど、「増税準備」の政治的「仕掛け」なのだ、と読める「一篇」であった。
財務省とかの経済官僚と、血筋が濃い、隠れ共産主義者「岸田家」ならではともいえる。

なんだか、「昭和の黒い霧」のままなのだ。
それならいっそ、共産党親派だった松本清張でも読んだがいい。

めでたしめでたし。

「文学」が役に立たない「誤解」

正確には、「人文科学」のことである。

人文科学に付いている「科学」が付くのは、他に、「自然科学」と「社会科学」がある。
ふつう、「科学者=サイエンティスト」と言ったら、「自然科学」の専門家を指すのは、その「客観性」と「再現性」が厳密に問われることに起因する。

たとえば、「物理」でも「化学」でも、「自然法則」というものが前提にある。

どのような大きさの「滑車」を使えば、どんな力でどのくらいの重量のものが持ち上げられる「仕事」になる、とか。
AとBという物質を、決まった割合で混合すれば、必ずCという物質になる、とか。

こうした、「法則」を発見すれば、誰にだって「再現」できる。
だから、「容赦ない」のが「科学」のはずだけど、「社会科学」とか、「人文科学」となると、なかなかに「法則」をみつけても「再現」が困難なことがある。

社会科学には、経済学・政治学・法律学・社会学・歴史学という分野があるし、人文科学には、哲学・文学・史学・語学などがある。
なお、歴史学と史学は、「同じ」と考えられるけど、「社会」からアプローチするか、「人」からアプローチするかの「違い」だと解している。

すると、たとえば、経済学も、「社会」からアプローチするものと、「人」からアプローチするものがあっていい。
これは、「マクロ経済学」と「ミクロ経済学」という切り分けとは違う。
社会現象としての経済と、人生としての経済は違うからである。

さてそれで、一般的に大学の「学部選択」という重要事項が、あんがいと隠されるのが「偏差値」による「レッテル貼り」である。
つまり、「有名大学」とか「偏差値での難関校」に入学したがるのはいいとしても、「どの学部」なのか?が抜けていたりする。

一世を風靡した、『ドラゴン桜』は、低偏差値から東大を目指す、という物語ではあったけど、「法学部」やましてや「宇宙人」とまで表現した「医学部」ではなくて、合格しやすい「工学部」を狙う、という前提があった。

 

大学に行って、学びたいことが二次的で、合格が優先される。
もちろん、「転部」という手続き的手段で、行きたい学部に転じればいい、という「解説」もあったけど。

すると、この作品は、「講師陣」のための参考図書にはなるけど、世にいう「受験テク」を描いたものとは違うだろう。
なにしろ、徹底的に過去問を分析して、「合格する」という目的合理的な
勉強しか「しない、させない」という方法で、講師全員の方針が貫かれている。

だから、試験に出ない範囲は「捨てる」という決断を講師がしていて、生徒はこれを考えなくていいのである。
むしろ、生徒を安心させるために、「配点」の傾向を説明をしている。
よって、生徒も実践の場で「捨てる」ことの意味を知る。

これは、試験の「仕組み」を解析してのことだ。
漫然と与えられた問題を解く、という行為の「ムダ」を指摘している。
まさに、「ABC分析」の極意を説明しているのである。
それだから、講師陣の「科学的」優秀さが目立つのだ。

もっといえば、突如過去の傾向と異なる設問があっても、気にしない、という余裕は、「平均点が落ちる」ことを根拠にしている。
むしろ、その一問よりも、他の設問における「解答ミス」に注意せよ、というのも「科学的」なのだ。

これを、「数学」の講師ではなくて、「古文」や「英語」の講師に語らせるところに、作者のセンスが光るのだ。

しかしながら、一般的に「人文系」は、「役に立たない」という評価がされていて、大学に通いながら「資格取得」のために、専門学校へ通う学生もいる。
たとえば、文学部でいう英文科とか仏文科とか。

それで、「役に立つ」のは、「語学力」に絞られる。
「英文学」とか「仏文学」の知識を無視しがちなのである。
けれども、文学作品を構成しているのは、執筆者がいた社会であって、歴史や哲学がかならず土台になっている。

ビジネスにおいても、その地域の歴史や暮らしから生まれた哲学を無視することはできない。
なぜなら、相手は「人間」だからである。

国内だっていえることが、世界でいえないことはない。

たとえば、英文学をよく知る人が中東に行ったとき、どう見えるのか?
同じく仏文学をよく知る人が、中東に行ったとき、どう見えるのか?
それぞれのアプローチから、中東の人々を分析するであろう。
もちろん、日本人なら、日本人としての目線をベースにはするけれど。

ケン・フォレットの出世作『針の目』における、エジプト人の表現は、「英国が長く支配したのに、バスに並んで乗れない」といった表現がある。
言下に、「フランス支配の弊害」を言いたいのか?と考えたくなる。

ここには、長くローマやオスマン・トルコに支配されたエジプト人の目線はない。
このことを、日本人としてどう見るか?
作者に同調するか?それとも?

 

「役立つ」ということでは、自然科学や社会科学のような「即効性」はないけれど、ジワジワとしかも確実に「役立つ」のである。

やはり、相手が人間だから、に尽きるのだ。

1010デジタルの日

10月10日が「体育の日」でなくなって、「2進法のデジタルの日」という呼び方が生まれた。

どうして10月10日が体育の日だったかといえば、昭和の東京オリンピックを開会するにあたって、「晴天になる日」を調べたら、もっとも「特異日」としてあがったのだった。
なお、もう一つ、11月3日(明治節:明治天皇の誕生日:文化の日)も晴天特異日である。

このエピソードから読み取れるのは、開催国の側が「大会期間」を独自に決めることができた、ということである。
もちろん、令和の東京オリンピックだってそうなんだろうけど、アメリカのプロスポーツ中継との「バッティング」から、「真夏開催」を選択せざるをえなかった。

すると、テレビによるスポーツ中継が世界的に草創期だったために、「最適な期間」に開催できた、ということになる。
テレビ放映権取り引きという、新しい「財源」をもって、国家予算の介入ではなくて民間資金でやることを始めたのは、ロサンゼルス大会(1984年)からではあった。

これがきっかけは、76年のモントリオール大会が「大赤字」になって、その「負担」にカナダ人は怒り心頭に発し、国内の政治問題化したことがあり、さらに80年のモスクワ大会では「西側諸国のボイコット」があった。

ロサンゼルス大会は、「報復」として、「東側諸国のボイコット」があったけど、一部には「選手たちの亡命阻止」も理由にあったといわれている。
それで、大リーグコミッショナーだったピーター・ユベロス大会組織委員長の発案で、「商業化」が図られることになったのである。

なお、1984年当時のアメリカ大統領は、共和党のレーガン氏(1981年-1989年在任)であった。

今回の東京オリンピックの「赤字」は、どうやって処理されるのか?いまいち明快さに欠けるのも、大会組織委が事実上の「役所」だということも、カナダやアメリカとの「体制の違い」がはっきりわかるのである。
カナダ人のように怒る日本人がいないのは、「情報統制」がされているためだ。

皮肉にも、ジョージ・オーウェルの『1984年』が描く、「全体主義」に世界が向かいだして、カナダやアメリカでも「危険視」されているけれど、わが国で警告をいうひとは、このブログを含めて「少数派」である。

何度も書くが、「保守」という用語がいけないのである。
「自由主義」と「社会主義・共産主義」という対立構造を、そのまま言った方がいい。
すなわち、「自由主義」から「全体主義」は生まれないからだ。

「保守」とは「自由主義」のことだ、と「解釈」を要するなら、その「解釈」という工程がムダなのだ。
だから、直接に「自由主義」をいえば、間違いが減るのである。

なお、自由主義の立場から「ナショナリズム」を言うのが、「伝統保守」である。
自由主義の立場から「グローバリズム」を言うと、「伝統破壊=革命思想」に近接することになって、社会主義・共産主義に親和性が生まれる。

これが、「国際金融資本」といわれるものの正体である。
わが国の「保守本流」という「宏池会=岸田派」は、自由主義の立場からグローバリズムを言うひとたちの集団である。
さすれば、新首相が言う「成長と分配」の意味は、社会主義・共産主義だと直線的に理解できるのである。

よって、この政権が選挙後に準備するのは、「増税」である。
そのための誘い水が、レジ袋「無料化」だとすれば、差し詰め「小さい飴と骨まで凍みる痛い鞭」ということになる。

ロシア革命を支援したのは、ロスチャイルドやロックフェラーだったことは、いまでは衆知のこととなったし、現代の大富豪ジョージ・ソロスが資金提供しているさまざまな「左派(極左)団体」も、その意図は同じなのである。

このところ、そのジョージ・ソロスが習近平大批判を展開しているのは、毛沢東主義という「ナショナリズム」を信奉し、「国際金融資本」からの資本提供を拒むからである。
鄧小平 ⇒ 江沢民 という「グローバリズム」で、中国と国際金融資本は成長したのだから、「本音の恨み節」を語っているといえる。

さてそれで、「デジタル」である。
コロナなのか洪水なのか、はたまた何なのか?
日本から「世界の工場」が中国に「移転」して、あらゆる製品の「部品」が中国生産となっているけど、えらく生産が滞っている。

昨年は、トイレの便器(陶器)がコロナで不足して、わが国住宅建築における「完成」が止まってしまった。
キッチンや風呂場も完成しているけど、便器がない家には住めない。
それでも、役人は「完成検査済み証」を出して、銀行の住宅ローンをスタートさせた。

「産業優先」で、ぜんぜん「国民優先」という思想が醸成されないわが国の不幸が、賃貸住宅に住みながら住めないマイホームのローンを払わされるのである。

家電メーカーでは、最初に「エアコン」部品の不足が起きた。
しかし、便器ほど深刻ではないので、当初エアコンがなくとも断熱機能がある新築物件では、なんとかなった。
それから、パソコンの部品が欠品した。

在宅勤務というブームから、空前のパソコン需要が生まれたけれど、それは、空前のパソコン不足となったのである。
そしてこの秋、10月5日には、『ウィンドウズ11』という「新OS」がリリースされた。

しかしながら、「デジタルの日」という「特売日」に、量販店でも新OS搭載のパソコンは「新発売」されていない。
せいぜい「無料アップグレード可能」というステッカーを貼るのが関の山なのである。

ソフトとマシンが「バンドル」されて販売される、という常識が崩壊したのが1010デジタルの日で起きたことであった。

今度の不祥事で「詰む」か?

2018年5月6日、アメリカンフットボールの試合における、危険なタックルを「選手の独断」ということにしようとしたおとなたちがいて、なんだか歯切れの悪い思いをさせられた。

なお、一連の騒動における「捜査」で、「逮捕」あるいは「起訴」された者はいなかった。
タックルをした選手には、「起訴猶予」による不起訴処分。
監督とコーチは、「嫌疑不十分」による不起訴処分だった。

ただし、日大における「処分」はされた。
監督の内田氏とヘッドコーチは、結局「懲戒解雇」されたし、アメリカンフットボール部のOBでコーチでもあった日大常務理事の井ノ口忠男氏も辞任している。

さらに、大塚吉兵衛学長をはじめとして、運動部部長職(副部長、監督)にあった常務理事や理事8名が「解任」された。
これには、 田中英壽理事長が兼任している相撲部部長・総監督職の解任も含まれる。

まさに、大学といっても「経営組織」における、幹部たちに激震が走ったのだった。

しかしながら、結局一度も会見を開かなかった、トップの田中英壽理事長は、理事長のままなのだ。
ところが、変なのは、井ノ口忠男氏の「処遇」なのだ。

日大には「子会社」として、「株式会社日本大学事業部」という名の「会社」がある。
あたかも、日大本部の「内部部署」のようだけど別働隊なのだ。
ここに、事件1年後の2019年、理事として復帰して同年には、同社「役員」になっている。
さらに、2020年には、本社にあたる「日大理事」に復帰したのだ。

こんな状況をみると、「懲戒解雇」や「解任」されたままの人たちが、トカゲのしっぽ切りに見えるのはわたしだけではあるまい。
ちなみに、監督で日本大学常務理事だった内田正人氏は、不起訴をもって日大が下した「懲戒解雇」を不当とした裁判での和解で、「退職」となっている。

日大常務理事の内田氏については、大学の「人事担当」であったため、約3600人の非常勤講師の多くを雇い止める方針についても、「労働問題」となった。

それにつけても、「株式会社日本大学事業部」という会社は妙で、事件後まずは、日大常務理事を「辞任」した内田氏ではあったけど、この会社の役員も、日大人事部長も、保健体育審議会事務局長も辞めることはなかった。

果たして、井ノ口忠男氏の「復帰」にしても、内田正人氏の当初の「処遇」にしても、組織人ならわかるとおり、本人が自分で決められるものではない。
「人事権」を誰かが発動して、これらの人物の立場をコントロールしているはずだ。

良くも悪くも、それが「トップ」だけの「特権」なのは、誰でも知っている組織運営の「常識」というものだ。
一般企業なら、「社長」の持つ最大の権力が「人事」なのである。

こんな事情を踏まえて、前出の「現職日大理事」である井ノ口忠男氏が、日大板橋病院の建て替えで設計会社の選定をめぐる、「背任容疑」で逮捕された。
逮捕したのは、警視庁ではなく東京地検特捜部だ。
また、同特捜部は、田中理事長の自宅にも家宅捜査をした。

これについて、田中英壽理事長は、「自分は悪いことはしていない」とコメントしたことが報道されている。
残念なのは、「組織長として」のコメントをとったのかとらなかったのかが、ハッキリしないことである。

まことに、わが国の報道は「浅い」のである。

少なくとも、理事長として逮捕された部下をみれば、「人事権」と「組織運営上」の責任は免れない。
個人的な収賄とか詐欺ではなくて、日大病院への投資案件についての「背任容疑」なのだ。

もしかしたら、「特別背任罪」へ「格上げ」となるかもしれない。
「背任罪」と「特別背任罪」の違いは、「大きな権限が与えられたひと」によるかどうかであって、刑罰も違う。

だから、すでに「理事」の井ノ口忠男容疑者だって、「大きな権限がある」となれば適用される可能性だってあるけれど、もしや理事長ともなれば「確実」だ。
そんなわけで、今後の捜査の進展がどうなるのか?興味が尽きない。

さてそれで、わが国には、他人の「箸の上げ下ろし」まで「(行政)指導」と表した命令をする、文部科学省に巣くう文部官僚という生き物がいる。

おそらく、日大という当事者よりも、省の組織をあげて、上を下への大騒ぎになっているはずだ。
現職理事の逮捕だけでも、大事件だ。
それでもって、「今後の捜査の進展を見守る」とかなんとか言いながら、日大の総務課長あたりを呼びつけて「事情聴取」をしているだろう。

これに、「病院建設」ということでの、厚生労働省も同様にアタフタとしているだろう。
新内閣における、選挙前の「アリバイ」イベントができた。
なんか仕事をしている「風情」というやつだ。

アメフト事件は、傷害事件とその教唆だったから、本当は金銭欲の本件よりもはるかに「重い」ものだった。
これを逃れた「奢り」が、「詰む」ことになったのである。

人間の性としても、やっぱり後味が悪いのである。

「ファッ◯ ジョー・バイデン」コール

さすがに超過激なこのブログでも、最初の単語「ファッ◯」は、カタカナにしても全部を表記することがはばかれる。
しかも、その後に続くのは、現職大統領の「お名前」なのだ。
英語の綴りだと、「Fuc◯」となる。

これがいま、全米での「コール」になっていて、先月行われた大リーグ(ヤンキース対メッツ)の試合終了後、スタジアムにこだましたのは、この「合い言葉」で、両チームのファンたちが「声を揃えて大合唱した」という。

自動車レース然りで、いまやアメリカにおける「一体感」は、このフレーズの雄叫びが醸し出しているといっても過言ではない。
ただし、生中継のTVレポーターは、「優勝者の名前を盛大にコールしている」と言って、視聴者から失笑を買った。

その背景に何があるのか?
第一に、アリゾナ州からはじまった「2020大統領選挙の不正」の「確認」がベースにある。
それで、激戦州はおろか、全米での「(「法科学的」という厳密性で)選挙監査」を実施すべき論が盛り上がってきた。

第二が、民主党内の「内紛」である。
これがきっかけは、かつての大英帝国がはまり込んだ、「ゆりかごから墓場まで」という、社会主義・共産主義政策の一大法案「3.5兆ドル歳出」を巡る、急進左派対中道派の争いだ。

もちろん、共和党は、主流派と保守派双方とも「反対」している。
なので、議論はもっぱら「民主党内」のことになっている。
日本円にしたら400兆円にあたる歳出の「財源」は?といえば、「法人税増税」と富裕層の「個人増税」となっている。

なお、10年間で、という前提条件があるので念のため。

中道派は、1.5兆ドルまでの減額を要求しているけれど、急進左派からしたら「悲願」の社会主義政策なので、下院で過半数を占める「いま」にチャンスを見ているのである。

それで、話としては別の、上院で先に可決(共和党も賛成した)された「インフラ整備法案」を、なんと「人質」にとる挙にでた。
下院で、「3.5兆ドル法案」を通さないと、「インフラ整備法案」を否決すると脅しているのである。

この「インフラ整備法案」は、ホワイトハウスが主導したものだ。
それで、バイデン氏は、「下院におもむいて」賛成の説得を試みると思っていたら、なんと、「急進左派」に同調してしまった。

ミイラ取りがミイラになった。

日本でいえば、官邸主導の法案に、首相が反対派に寝返って飲み込まれたようになってしまったのである。
これで、中道派は「追い込まれた」ことになったけど、そこが「アメリカ人」で、余計に戦闘的になってしまった。

窮鼠猫をかむ、状態になった。

「ゆりかごから墓場まで」という「福祉国家」を目指せたのは、「大英帝国」の栄幸に陰りが見えてきた頃からだった。
この「タイムラグ」こそが、栄幸の裏にある「資金的余裕」という「奢り」と、「衰退」への「抵抗」なのである。

したがって、労働党だけでなく保守党さえもが、「高福祉」を政策の基盤に置かないと、選挙に勝てない、という泥沼になったのである。
そしてその「泥沼」とは、労働意欲の減衰を生んで、英国は見る影もない衰退と荒廃を経験することになった。

すなわち、「福祉国家」=「高福祉」=「社会主義・共産主義」のことなのである。

そんな英国に颯爽と登場したのがサッチャー女史で、「鉄の女」の思想的支柱であるハイエクの理論を、そのまま実行にうつして、「ゆりかごから墓場まで」を墓場に追いやった。
これとは違う「病因」があったアメリカでは、レーガン氏がフリードマンの理論をそのまま実行したのだった。

ハイエクとフリードマンは、シカゴ大学で「同僚」ではあったけど、「法哲学的な深み」は、ハイエクにある。
しかし、世人は両者を「同じ穴のムジナ」として扱った。
それで、「サッチャリズム」と「レーガノミクス」も、「同じ」とみられている。

トランプ氏は、レーガノミクスより強力な政策を打ち出して、コロナ前までは、前例のない繁栄をもたらした。
アメリカ人は、このことを記憶している。
だからいま起きていることは、民主党の終わりの始まりなのだ。

さて、サッチャーとレーガン時代の同時期のわが国では、「中曽根行革」が行われたけど、「ダイナミック」さに欠けて「ちんまい」結果だったのは、「福祉国家」の看板を下ろさなかったし、国民が下ろさせなかったからである。

もちろん、アメリカ民主党急進左派よりも左に位置する、我が自民党・公明党政権は、「3.5兆ドル法案」がおもちゃに見えるほどの「社会主義」で、「ゆりかごから墓場まで」を「理想」としている。
世界第二位どころか、世界一になってから坂道を下りだして、いよいよ「福祉国家」を強化するのは、「英国病」に完全に「感染」した証拠である。

それでも、「ファッ◯ 安倍」とは言わずに、「安倍政治を許さない」というステッカーに留まったのは、「もっと福祉を!」というひとたちだったからだ。
最近では、「岸田政治を許さない」になっている。

そんなわけで、わが国だけが「福祉国家」を目指す、世界で唯一の国になって、経済成長ではなく、国家の保護で「遊んで暮らす」国づくりという、政府依存の全体主義が自民党をはじめとする「全政党」の「正義」になっている。

自民党で衆議院議員を5期務めた、山本勝市(1896年〈明治29年〉 – 1986年〈昭和61年〉)氏の「名著」が復刻されている。
これぞわが国の「自由主義」理論なのだ。
いまの自民党は、幹部党員ですら読んでいないだろう。

中国からわが国に逃げてきた人たちが、いつまた逃げ出すのか?
アメリカに住みたがる、中共幹部はなにをかんがえているのか?

日本的「正直者はバカをみる」が実践されている。

落選運動と投票行動

我慢できなくなってきた保守系のひとたちが、「落選運動」という行動を開始している。
問題がある、と見なした政治家の選挙区におもむいて、街頭にて「落選」を訴えるものだ。

選挙区の有権者からしたら、最大の問題は「選択肢がない」ことに尽きる。
それで、名が通った「有名人」とか、「当選回数」とか、「学歴」とかを参考に、投票行動をすることになる。

このときの「選択肢がない」という意味は、「誰だかわからないひとには投票したくない」という心理がはたらいているということだ。
すると、「既存政党」への誘導が有効なので、あんがいと「既存政党」はそれなりの集票ができることを意味する。

しかしながら、何度も書いてきたように、わが国の「基準」がずいぶんと「左派寄り」になっている。
昔あった「計算尺」に例えれば、目盛りの振り方が、アメリカのそれとはぜんぜんちがう。

わが国で「保守」とされる自民党は、グローバリズムの「宏池会」に政権交代した。
しかし、「清和会:現細田派」だって、岸信介という社会主義者から別れた系統だから、どっちもどっちなのである。

この点で、自民党は「社会主義政党」として位置づけられる。
もちろんこれはわたしの独断ではなくて、ちゃんと「綱領」に「進歩主義」をうたっていることでわかることだ。

そういえば随分前に、近所の有力者でもあるいいおとなが、「進歩主義は社会主義ではない」と言っていて驚いたことがある。
「歴史の発展形態」をいう「唯物史観」を知らないらしい。
それ以来、このひとを相手に「まともな会話」をするのをやめた。

面倒くさいからである。

そんなわけで、「アベノミクス」だって、立派な社会主義経済を目指していたし、こんどの「新しい資本主義」というスローガンにも驚いた。
「成長と分配」がその趣旨だという。

バリバリの社会主義経済を言っているにすぎない。
要は、キャッチフレーズを変えた、「強化版アベノミクス」をやると言っている。
つまり、「左傾化して党内政権交代」したのだ。

その証拠が、「党内人事」に見られる社会主義者たちの「布陣」だ。
幹事長と幹事長代理のコンビしかり。
自民党税制調査会の会長人事もしかり。
そして、圧倒的な(元)財務・経産官僚たちの起用。

アメリカ民主党の「極左」という、副大統領とか、バーニー・サンダース上院議員も「アッと驚く」、より左の立場と政策を、わが国が「やる」と宣言したのだ。
おかげで、近隣諸国は落ち着いているかに見える。

日本のバブル後の30年という同じ時間で、アメリカは国民所得を3倍にした。
ヨーロッパ(EU)だって、2倍にした。
アジアの大国は5倍になった。

わが国だけが「横ばい」なのだ。

これを見れば、自公政権も、民主党政権も、「経済成長」という点に関しては「完全に落第」なのである。
しかしながら、国富を国家が分配する、という社会主義・共産主義の「理念」だけは、完璧にこなしている。

その「失敗」を、まったく顧みることなくどころか、さらに強力に推進する、ということは、「衰退のために努力する」ことに等しい。

立憲民主党と共産党が党首会談をして、もしも立憲民主党に政権交代したら、共産党は「閣外協力」をすると協定した。
あの共産党が、高齢化も含めて相当に「弱っている」ように見えるのも、自民党が「共産主義」を採用しているからである。

すなわち、「新しい大政翼賛会」が見えない形で成立しているのだ。

ちまたでは、「レジ袋無料化」という淡い期待が盛り上がっている。
一方で、「分配」を国家がやるということの必然は、「増税」に尽きるから、「知能が低くてマスコミ報道に影響される」ひとたちは、「レジ袋無料化」という「撒き餌」に食いつく可能性が高い。

これを、河野広報本部長は、どのように「宣伝」するのか?

レジ袋に関しては、経産省が仕切った「関係省庁の省令改正」という「悪手」を駆使して「有料化」と「罰則」までつくった。
小泉進次郎の環境省は、経産省の手玉に取られただけの三流省庁だ。
国民に負担を強いる政策を「法改正をしない」でやったのは、いまどきの中共もしない暴挙である。

つまるところ、関係省庁の大臣が省令改正で「無料にする」と決めたら、すぐにできる政策なのである。
それをもって、「所得税増税」をする。
金持ち相手の超過累進制を強化するという共産党員が泣いて喜ぶ政策を、自民党がやるだろう。

はてさて、ならばアメリカとはいわないまでも、2倍にしたヨーロッパ並みの方策とはなにか?
「域内自由化」と「環境での締付け」であった。
それでもって、イギリスは「移民強要」で脱退したけど。

「自由化」を土台にして、「環境での締付け」をしなかった、米中が3倍と5倍を達成している。
要は、政府による締付けを解けば、「勝手に成長する」のが「経済」というものなのである。

さてそれで、自民党や野党がダメなのはもうわかった。
ならば、どういった投票行動がいいのか?

わたしの独断でいえば、「知らない泡沫候補」を当選させることである。
こんなことでも、「大勢に影響なし」とはいえない。
びびった自民党が、「保守=自由回帰」しないなら、「体制」に影響することを教えてあげよう。

盛っている首相代数

岸田首相は、第100代の首相にあたる、という表現は、「間違いではない」けれども、「まずくないか?」というテーマの話である。

もちろん、「初代」を伊藤博文にしてからの勘定の仕方だから「間違いではない」。
だが、憲法が違うから、政治体制も違う。
明治憲法の「改正」という形式ではあったけど、実質は「断絶」だった。

すると、わが国の「新体制」とは、「独立回復後」をいうに決まっていて、現行の「日本国憲法」によって首相になったひとから数えないと「おかしい」ではないか。

ふだん、「護憲」をいうひとたちが、どうして「首相の代数」に文句を言わないのか?
「ご都合主義」と言われても、きっとだんまりを決め込むのだろう。

そんなわけで、「初代」は、日本社会党の片山哲である。
伊藤博文から起算すれば、46代ということになる。
ちなみに、終戦後の、東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣、それに、吉田茂(第一次)内閣は、「占領中」という「例外」にあたる。

アメリカ軍が「直轄支配=軍政」した朝鮮と、蒋介石の国民党軍に支配された台湾とは違って、本国の日本では、「政府」の上に「連合軍総司令部」があったのだ。
なお、1875年(明治8年)5月7日に締結した「樺太千島交換条約」によって、千島列島はわが国領土として「確定」したけど、ソ連軍に取られてしまって今に至っている。

領土は戦によって定まる、というヨーロッパ伝統の野蛮な常識が生きているということだ。
この意味で、「台湾」も同じで、わが国と中華民国との間にあるのは、わが国領土の「台湾」を占領されたままになっているという問題なのだ。

故岩里政男(李登輝)氏が、「台湾の日本への復帰」について「当然」としたのは、歴史的正統性からしての見解である。
彼にとっては、「沖縄復帰」と同じことなのである。
したがって、台湾の独立ということは、本来日本としては「賛成できない」ことなのだ。

さて、独立後のわが国は、「社会党政権」だったことが重要だ。
ここにわが国の「出生の秘密」がある。
もちろん、「影で」仕切ったのは、終わったはずの「占領」であった。
それが、「独立」と「同時」に発効した「日米安全保障条約」だった。

これを「仕込んだ」のは、第一次吉田内閣の仕業である。
しかし、「世情」は、「革命前夜」的な雰囲気だったので、日本社会党に表向きの役割を演じさせたのだった。

なお、日本国憲法の第九条について、真っ向から反対表明して政府を攻撃した(GHQを攻撃できないため)のは、日本共産党で、その理由、「独立国としてふさわしくない」は、まったくの「正論」であった。
「軍隊を持たない独立国はない」という主張も、合点がいく。

ただし、我が帝国陸海軍の高級将校は、「赤かった」という事情も重要な事実であった。
よって、軍の復活は、「赤軍」になる可能性を秘めていたのである。
さすれば、日本共産党の主張と合致する。

実際に、中曽根康弘氏はいまだに「タカ派」と見る向きがあるけれど、「盟友」の元大本営参謀、瀬島龍三が墓場まで持っていったから、「ソ連のスパイ」という自白はないものの、ソ連崩壊直後にモスクワのKGB本部で公開された極秘ファイルには、瀬島の名前が重要な協力者として載っていた。

中曽根氏も、総理になってわざわざ「靖国参拝」を「公式参拝」と言い出して、周辺国からのクレームを引きだした。
これ以来、天皇も総理大臣も靖国神社には参拝ができなくなるという、「破壊工作」をやってのけたのだ。

これを、「エセ右翼」というなかれ、「真性のアカ」というべきなのだ。

このような背景を背負っているのが、吉田茂を源流にしている「宏池会=岸田派」の本性である。
岸田氏は、100代ということになったけど、衆議院議員の「任期満了4日前」をもって総選挙に打って出た。

なるほど、組閣はしたけれど、「新人ばかり」なのは、「大臣」という名刺を持たせて、敗色を払拭しようとした作戦だろう。
選挙後、101代首相に岸田氏がすんなりなれるのか?
「改造内閣」では、どんな顔ぶれに「変更」するのか?

「大臣」ポストすら、選挙に利用する狡猾さなら、優柔不断な態度とは、目くらましなのだといえる。
だとすると、あんがいと腹に逸物ある「政治家」だ。

なんだか、第四代ローマ皇帝、「クラウディウス」に似ている。
変人で強烈な権力を行使する、第二代ティベリウスの魔手から逃れるために、「精神障害者」を装った。
第三代カリグラは、そのティベリウスからかわいがられたけれども、後に「暴君」となって親衛隊に暗殺された。

まさか第四代ローマ皇帝の座が回ってきたのは、本人の望むところだったのか?それとも?
結局、「まともな正体」が知れて、善政をしたというものの、カリグラの妹と再婚して、結局はこの女性に毒を盛られた。

さては?

政府は失敗するものだけど

世界帝国アメリカ・バイデン政権の「失策」が、世界を不幸にする。

「理念先行型」を嫌うひとは多い。
しかしながら、国家であれ企業であれ、はたまた町内会であれ、自分たちは何のために存在するのか?ということの共通思想を持たないと、組織としては必ず失敗するものだ。

この、存在を確認する共通思想こそが、「理念」なのである。
ところが、マルクスやエンゲルスの言う「共産主義」といったものは、その「理念」そのものが「間違っている」から、頑張れば頑張るほどに、どんどんおかしくなって、とうとう「粛正」という集団殺人が正義となるのである。

彼らが言う、「党の支配=一党独裁」とは、政府そのものを党がコントロール下に置く、という意味である。
すなわち、「超国家」としての「党」がある。
だから、国家が全能という思想ではなく、もっと「先」に行っている。

国家を超越して、革命の輸出を「義務」とするから、究極の「グローバリズム」が、(国際)共産主義運動となって、その活動組織を「共産主義インターナショナル=コミンテルン」と名づけていた。
こうして、国際金融資本と180度向こうを張って対抗したのだ。

よって、分度器のように「地平」で両者は「同じ」である。

この点で、共産主義への「移行期間」とされる、「社会主義」においては、党と政府の主従関係は未完成ゆえに「緩い」のである。
あるいは、政府側が「中立」を保っているように見せかけて、失政の責任を党にさせるということもやってみせるのだ。

ここで機能するのが、「記者クラブ」という「制度」で、情報が欲しい報道機関を政府がコントロールして、政党の責任を追及させるのだ。
そんな記事を、喜んで目にする国民は、選挙という「美人投票」をさせられて、「主権者」を気取っている。

わが国のこの「独特なやり方」が、あたかも「劇的な経済成長」の原因だという勘違いを誘発した。
それが典型が、戦後の「傾斜生産方式」における、通産省とその官僚の「優秀さ」という「幻想」であった。

この「幻想」を維持させて政府に媚びるために、わが国報道機関はいつまでも「幻想=ファンタジー」を国民の脳に注入し続けるのである。
そうやって、わが国民は日常においてもファンタジー空間で生活していて、これを不思議とも思わなくなった。

これを移植手術したのが、かつて日本であった「朝鮮半島」と「台湾」だった。
そして、改革開放の中国がこれらに続いた。

北は、日本の天皇を「曲解」して、いまだに世襲体制を維持している。
南は、大統領制にしたけれど、国会を「一院制」という欠陥にして、「政府優位」を即効で確立した。

わが国の「保守」にも、「一院制=参議院不要論」をいうものがいるけれど、なぜに「二院制」があるのかを考えたことがないようだ。
むしろ、参議院を「上院」として、衆議院(下院)との棲み分けにより、いまよりも強固にする必要があるのだ。

また、行政府ではない国会事務局は、両院における委員会から、本会議に至るまで、すべての「議決」における、すべての議員の投票行動を公開すべきだ。
どの法案に誰が賛成し反対したのか?を「事務的」に示せばよい。

そんなわけで、韓国は大統領の任期が1年を切ったなか、5月に政府主導の「半導体世界一戦略」を構築したけど、あえなく「失敗」が見えてきた。
こういう「真似っこ」をやるから、日本人にバカにされるのである。
もちろん、先行事例としての「大失敗」をわが国経産省はしでかしている。

その「失敗の構造」までそっくりだから、なんだか気の毒になる。
「学習」できないことの空しさというものだ。

第一に、技術さえあれば、という幻想に固執する。
アメリカ人が持っている特許も申請しない「コア技術」に勝てると考える、文系の哀しさが、アメリカ人の腹黒さに負けているのである。

第二に、販路はどこか?といったら、必然的に中国になる。
わが国から「世界の工場」が移転したという「幻想」もある。
最先端の半導体を中国に輸出できるとかんがえる方がおかしい。
コモディティ化したものしか輸出させていないのだ。

ただし、「窃盗」という問題が別にある。

第三に、上記を踏まえて、半導体と一口に言っても、「メモリー」か「CPU」かに大別される。
最も重要なCPUは、第一の理由があてはまってしまうのは、わが国だって同じだから、いまだに「メモリー」しか作らせてくれない。

それは、陰りが見えてきたとはいえ、相変わらず「インテル入ってる」に象徴される。
最近対抗してコスパで人気の「Ryzen」も、会社はAMD(Advanced Micro Devices, Inc.)で、やっぱりアメリカ企業なのだ。

このことの意味は、「政府が関与しない」ことに強みがあって、バイデン政権でさえも手をつけない、という事実だ。
政府主導の「開発独裁」が有効だったのは、いまよりずっと「単純」な世界だったからである。

昔よりずっと複雑になったいま、政府主導の開発独裁で優位に立つことはない。
改革開放の成功も、政府が手をひいたからである。
政治がこれにブレーキをかけるのは、「政治」だからだ。

しかしながら、新政権は、グローバリストの「宏池会」が仕切るのに、「新自由主義からの脱却」という意味不明をスローガンにしている。
ならば、このひとたちがいう「新自由主義」の定義を教えて欲しい。
「グローバリズム」という自分たちの発想こそが、わが国における「新自由主義批判」の根拠ではなかったか?

世界標準の「新自由主義」は、グローバリズム(=強欲資本主義・国際金融資本)を否定するのだ。
ここに、わが国やその周辺がいう、政治的「用語変換」がある。
あたかも、「進歩派=左翼」を「自由主義=リベラル」と変換するがごとくに。

このように、高度に発展してきた社会だから、政府が失敗し続ける理由が、見えてくるのである。

まさか、選挙対策内閣だった、なんてことか?