「正義」ありきと「後から」正義

決定的な「価値観のちがい」が、このタイトルの通りなのである。

日本人は、最初に「正義」をかんがえて、それを貫こうとする「習性」がある世界的に「特異」な発想をする民族なのである。
一方で世界標準ともいえる、白人系の諸族は、自分たちの欲望を優先させて、「後から」正義を理屈づける性質をもっている。

いわゆる、「勝てば官軍」を地で行くのは白人系諸族なのだ。

よって、「勝った側」と「負けた側」には、決定的な「格差」ができて、勝った側は負けた側を「奴隷」にした。
「完全支配」である。

なので、奴隷にされたら「子々孫々まで」酷いことになるので、戦争における「何でもあり」がルールとなったのである。
ところが、狭いヨーロッパのなかで戦いを繰り返しているだけから、徐々に範囲が拡がって、白人同士と違う人種との戦いになっていった。

その典型的な状況が、モンゴルだったのである。

しかも、モンゴルの強さは圧倒的だったし、支配の巧妙さもあって、これに白人はおののくことになる。
そうやって、白人同士の戦いのルールとしては、負けても奴隷化をしないことにして、異人種が相手の場合は容赦しないと決めたのである。

これが、「人種差別」の人種差別たる理由なのである。

そうやってかんがえれば、ヨーロッパ人がいう「哲学」での「平等」とは、たとえそれが、「人間同士の平等」と表記されていても、そこにある「人間」とは「白人に限る」という暗黙の了解があることに気づくのである。

しかしながら、日本人は、「文字どおり解釈した」ので、欧米白人社会が掲げる「理想」と「現実」の矛盾が、気になって仕方が無い。
気になるどころか「嘘つき」なのではないかと疑うことになった。

神世の世界からこちら、日本人は日本列島に閉じ込められていたので、「嘘はいけない」という、驚くべき道徳観をだれに教わるものでもないのに修得していた。

これが、「自然崇拝」からの結論だったのである。

いまでは、「原始神道」とかといって、近世にできたあたらしい宗教としての「神道」と区別している。
それでも、欧米人には、「原始神道」と「神道」の区別は困難で、「経典がない」ことを理由に、「アニミズム」として一刀両断するのである。

つまり、文字で書いた「経典」の「有無」が、「宗教」としての「定義」にしているのが欧米白人社会の疑いもない「常識」なのである。
だからか、日本人のおおくが「無宗教」を標榜してはばからないことになったのは、「欧米白人社会の基準」だとおもわないといけない。

しかし、おおくの日本人が無宗教だとおもっている背景に、「原始神道」への「深いが薄い信仰」があるために、自己認識しないけど集団行動としての強い参拝要求があるのである。

これが毎年の「初詣」になってあらわれている。

どうして「初詣」に行くのか?についての理由をスラスラ言えないのが日本人の大半で、そこに「経典のなにがし」という記述すら、そもそも存在しない。

あえていえば、年初のすがすがしい雰囲気のなかで、やすらぎの1年間を希求して参拝する、ということだろう。
すると、もっとも「宗教らしい」行為が、初詣にあるということになって、「経典宗教」をはるかに凌駕した「宗教人」たちが日本人といえるのである。

「創世記」の物語にある、7日目の休息を日曜日としたことも、そもそも日本人の生活には関係なかったので、旧暦での生活では、今日は「何日?」はあったけど、「何曜日?」はなかった。

なので、日曜日に神社仏閣に詣でることはなく、たとえば「5の日」とかがいまでも「縁日」になっている。
その日にお詣りすれば、「結縁(けちえん)」するというのは、「仏教」から採り入れているけれど。

そんなわけで、仏教も「経典宗教」だけれども、日本人には「はじめにありき」としての宗教が、ゆるぎなき「原始神道」であるために、ぜんぶの経典宗教がこの「土台」のうえに乗っているのである。

よって、欧米白人社会の基準と、永遠に「水と油」の関係にあるのが日本人だといえる。
むしろ、ニーチェがキリスト教を否定したように、歩み寄ってくるのは「あちら」だという構造になっている。

こうしたことをしっていたかどうかは横に置いて、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」で日本代表団が言った「人種差別撤廃提案」は、欧米白人社会の仲間内絶対基準に対する、根底からの「否定」と「挑戦」だと認識されたのだった。

それからの「世界史」は、脅威を感じた欧米白人社会からの徹底的な日本攻撃になって、とうとう追いつめられたのだった。
その悲鳴が、「開戦の詔勅」であり、人種差別撤廃(植民地解放)を曲げない「帝国政府声明文」であった。

そうして、とうとう「戦争」のルールすら破って、一般市民を虐殺されるまでに及び、みずから矛を収めたのが「終戦の詔勅(玉音放送)」だった。

しかして、欧米白人社会の「外」に置かれたわが国は、滅亡した白人国家たるドイツと根本的にちがって、徹底的な「奴隷化」が行われて今日に至ったのである。

さては時代の節目を迎えて、その欧米白人社会も二分化が著しく、旧来の基準を「保守」するグローバル全体主義と、人類の自由社会を「保守」するナショナリストとの対決が鮮明になってきた。

11月のアメリカ中間選挙が、向こう100年以上の世界を決める、事実上の「決戦」なのである。
わが国の「奴隷化解放」も、この一戦にかかっているから、なんとしても共和党MAGA運動に勝利してもらいたい。

これを、日本人は自発的に「祈る」しかないのか?
いや、9月の沖縄県知事選やら各市の選挙が、あんがいと援護射撃になるのである。

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