「要素価格均等化定理」再考

前にも書いたけど、書き手のわたしに「埋もれた感」があるので、再考して更新としたい。

新年早々に書いた、2022年ノーベル物理学賞の驚愕が、これからどんどん一般に広がると、哲学や宗教までもが、「書き換えられる」ことになる必然がある。

しかしながら、「書き換えられたら困る」ひとたちが、既存の支配層だったり、超富裕層だったりするから、一般人に知られないように例によって例のごとく、「報道しない」、「報道させない」という手段を用いるのである。

報道しないのは、このひとたちが主要報道機関を所有しているからで、報道させないのは、このひとたちが主要スポンサーとして、広告出稿費をコントロールするぞと脅すからである。

この二つの手法で、ほぼ全世界の報道機関が、プロパガンダ機関への変換を余儀なくされた。

その上手の手から水が漏ることになったのは、「裏切り者」イーロン・マスク氏による、Twitterの「無検閲」だ。
なので、いま、みえないけどバーチャル言論空間の「出島」としての価値を唯一提供する媒体に、逆変貌したのである。

このために、Twitterでの爆発的な情報拡散があっても、主要メディアやその他のSNSが、一切無視することが、かえってあからさまになっている。
それでもグーグルの検索機能に依存すると、人生を間違えるけど、多くのひとが人生を間違えても気づかないほどに、飼い慣らされてしまった。

これを、「奴隷の幸せ」と書いた。

さてそれで、要素価格均等化定理である。
かんがえだした、ヘクシャーとオリーン両氏の名前をとって、「ヘクシャー・オリーンの定理」ともいう。

1977年のノーベル経済学賞だ。

この時期は、「近代経済学(近経)」と「マルクス経済学(マル経)」の論争が盛んで、情報統制されたソ連圏のプロパガンダが功を奏して、「ソ連脅威論」を背景に、あんがいとマル経が頑張っていた。

反体制派のサハロフ博士の活躍や、ソルジェニーツィンがノーベル文学賞(1970年)をとっても、マル経のひとたちは、これを無視できる精神構造があって、いまも健在なのである。
学問を装った政治が優先されていた。

それで、数学者あがりのポール・サミュエルソンが、「数理モデル」という新機軸で一世を風靡していたけれど、数理モデルでマル経を語ると破綻する(ミーゼスが1920年代に数学的証明をしている)のに、サミュエルソン自身が、「新古典派総合」なる、「実質マル経」を考案したのである。

そんなサミュエルソンの、『経済学』が、日本におけるマル経の看板学者で、各種「学会」を牛耳った政治家でもあった、都留重人が翻訳して、これを岩波書店が出して、「主流派一流大学」のスタンダード教科書にせしめた。

この教科書のベストセラーぶりは、初版が1948年で、最後の13版がでたのが1985年だったことでもわかる。
なお、日本語版の初版は、1966年で、原書第6版からである。
ちなみにわたしは、原著第9版の日本語新版(1981年:旧版は1974年)を所蔵している。

すると、学者として40年ほどを過ごすとすると、この教科書で学んだことの影響力がわかるというものだ。
つまり、世界が左傾化(グローバリズムに染まった)した原因のひとつに挙げていい。

だから、いまでも評価が高いのは、そうでないと人生の否定になるひとたちが多数になるからだ。

要素価格均等化定理を、ヘクシャーとオリーン、それにサミュエルソンの三人が追及して、ヘクシャー・オリーン・サミュエルソン・モデル(頭文字から、「HOSモデル」という)ができた。

それでもって、要素価格均等化定理が、世界でみごとに「効いている」のが、日本経済なのだ。

資本、土地、労働のそれぞれの「価格」が、貿易を通じて相手国と「均等化する=等しくなる」が、この定理だ。
資本とは、資金の移動に関わるコストだけでなく、調達コストのことだし、土地は、土地そのものの地価だけでなく、農産物の価格にも変換される。

わが国の賃金が30年間も横ばいか、あるいは減ったのに、わが国以外の世界では上がっていることの原因はなにか?がずっと議論になっていて、たいていが政府に依存して、日本政府(予算)だけが肥大化した。

それでもぜんぜん経済はよくならないばかりか、生活はどんどん厳しくなっていて、また政府になんとかしろと依存している。
しかし、ここまで依存させることに成功した政府は、「増税」を掲げてビクともしない。

要素価格均等化定理が「発動する」ことの前提に、「仕事のやり方がおなじなら」という「仮定」があることが、もっとも重要な条件だ。

これには、当然に企業努力もあるけれど、政府依存という他人まかせの努力が、「仕事のやり方を変えない」ことの最大要因になっていないか?
つまるところ、徹底的な現状維持の努力が、世界で唯一、「要素価格均等化定理」が効きまくっていることの原因なのである。

しかし、利権にむらがる政治家も、天下り先でおいしいおもいをしたい役人も、政府依存させることにこそ、旨味があるから、国民には甘言をいって、これをぜったいに手放さない。

そのために、都合のいい理屈が、「新古典派総合」という、社会主義・共産主義の経済理論なのである。

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