ただしき「競争」は、ただしい世界をつくる。
これが、本来の「資本主義」なのである。
だから、「競争」について、「哲学」することは、実務に哲学が「役立つ」ことを体験できるのである。
その具現化をしたものが、「独占禁止法」となったのだが。
つまり、資本主義も人間がつくりだす「主義」なので、かかわる人間の都合にあわせようとすると、ふつうに「ゆがむ」。
こうして、ゆがんだ資本主義だけを指摘して、ある思惑にもとづいて批判を繰り返せば、もっと「ゆがむ」。
したがって、「資本主義はいけない」というときの資本主義は、人間がよってたかってゆがませた結果なので、短い言葉での反論が困難になる。
それで、気のはやいひとが、「資本主義の終焉」といって、ほくそ笑むのである。
では、「終焉」してどうなるのか?
これをいわないから、ずるいのだ。
結局、ぜんぜん終焉なんてせずに、ゆがんだ資本主義がダラダラとつづくのである。
そこで、ふたつの選択肢がでてくる。
社会主義に向かう努力を「正しい」とするか、ほんらいの資本主義にもどす努力を「正しい」とするかである。
これが、二大政党のアメリカという国での「選択」となって、とりあえず、社会主義に向かう勢力が政権を奪取した。
しかし、そうはさせじとする勢力が、すでに活発な活動をはじめて、味方のなかの敵の排除を開始している。
これも、「競争」の原理のゆえである。
70年代から80年代、スタグフレーションに苦しんだイギリス人とアメリカ人は、後者の「ほんらいの資本主義」にもどす努力を選んだ。
どちらも、「競争」から修正をこころみたのだ。
例としてあげると、その対象は、公立学校だった。
まったくもって「競争」がないと批判の対象になったのは、生徒ではなくて「教師の側」のことである。
住んでいる地域の「学区」が適用されて、自動的に通うべき学校が指定される。
入学すれば、生徒は教師を選択できず、偶然が支配するクラス分け(学級)によって、教師もあてがわれるのである。
こうしたゆがみを修正するための理論が、フリードマンによる「教育クーポン」のはなしである。
教育相として初入閣したサッチャー氏が、これを採用し、その後わずかして首相になったのである。
アメリカでも、レーガン氏が推進したし、日本でも一部の自治体・教育委員会が採用したけど、「大胆さ」は採用されなかった。
そんなわけで、文科省という役所が指定する「学習指導要領」に準拠しないといけない、という「強制」が、じつは教師も縛っている。
「わかる授業」が管理職から嫌われることにもなっているのだ。
生徒の「わかる」よりもなによりも「年間時間内準拠」が優先されるからである。
もちろん、これを現場に強制するのは、地元教育委員会という役所・役人だ。
もはや、わが国には教育委員会というえたいの知れない役所がはびこっていて、組織名から想像できる「委員長」はとっくに存在せずに、役人の「教育長」がトップに君臨している。
それで、市長やらの首長も、教育長には妙な遠慮をしたりする。
コロナとは関係なく、「授業がとにかく面白かったら子どもの心に火がつけられるはず」という想いから、中学生向けのオンライン無料塾を2019年に構想し昨年4月に立ち上げたひとたちがいる。
本業は、大学受験予備校だ。
『スタフリ』とは、「STUDY FREAK」の略だという。
塾に行けない、勉強について行けなくなった子、もっと学力を伸ばしたい子を対象とする、学びの場、と定義している。
まったく行政から切り離された「場」だから、たとえバーチャルな「場」でも、その工夫とは熟慮・熟考がされている。
だからこれは、「問題解決」の「プレゼンテーション」なのだ。
どこで「つまずく」のか?なにが「わからない」のか?といった、現状の把握。
どうしたら「わかった」とか、「なるほど」とさせられるのか?とは、改善方法。
そして、ほんとうに「結果」がでるのか?という検証。
これは、「科学的アプローチ(接近法)」そのものだ。
受験であろうが、学習課目の理解を目的にしようが、「塾の経営」には、自由競争の原理がまとわりついている。
利用者が、「効果」があると認めれば需要が高まるし、「割に合わない」となれば、即座に経営が行き詰まる。
わが国では、行政が手を出せない、かなり珍しい産業分野として、学習塾があることをしっていていい。
さてそれで、中学をでてすぐ就職するひとは皆無になった現状がある。
はたして、義務教育の範囲で、人生をまっとうすることができるのか?
「職人」の世界は、かえって早いうちからの訓練が、「五感」を鈍らせない「最良」とわかっている。
理想をいえば、10歳ほどからの訓練が効く。
しかし、いまでは児童労働になるし、本人がこれに耐えられない。
それで、なんだか高校にいくから、高校全入時代になった。
ところが、いがいと「中退」しているのである。
理由は、いじめや経済的やらと多様で、役所の指示をうける学校当局はついていけない。
もちろん、生徒の将来ではなくて、じぶんたちの将来を優先させる。
社会は冷酷だと、学校が教えてくれるのである。
すると、最終学歴は「中卒」になるから、時間のムダにもなっている。
『高等学校卒業程度認定試験(旧大検)』という、文科省が「独占」している試験がある(日本では独占禁止法に抵触しない)けど、これに合格しても学歴はやっぱり「中卒」という罠がある。
名前を変えても、大学受験資格で留まっているのだ。
だから、「高校卒業」と履歴書に書きたいなら、高校を卒業するのが重要なので、『スタフリ』の需要が見えてくる。
中学校の復習こそが、高校には必須の要素なのだ。
「多様性」とか口ではいいながら、本音は「みんなと一緒」が価値観の弊害なのであるけれど、そこがポイントなのである。