ナンセンスな「コロナ粛正」

政治家が「小粒になった」のは、昭和の時代後半からのことであった。
いまは、政治家が「いない」時代になった。

わが国に議員は、万人単位でいる。
しかし、地方から国政レベルまで、どこを探しても「政治家がいない」のだ。

「大宰相」なんてひとは、本人の「意志」の有無が左右するから、もう出てこない。
国民のために政府を運営する意志のことである。
きょうび、自分たちのために政府を運営する意志をもった集団と化した。

つまり、「政治屋」はたくさんいても、「政治家」が絶えたのである。

コロナ戒厳令下にあるいま、バーやクラブにいって楽しいひとときを過ごした政治屋が、粛正されている。
離党ではすまなくなって、議員辞職に発展してきたのは、潔癖症がなすメカニズムによる。

はたして、国民のおおかたの反応は?といえば、正直、「どうでもよい」のである。
なぜなら、こうした議員に対して、国民が、国民のための政治家だと認識していないからだ。

おそらく、議員本人は、そんなことはない、自分はかくかくしかじか国民のために政治活動をやってきた、と「常識」を述べるだろう。
しかしながら、その「常識」が、国民にとって、国民のための政治活動だとぜんぜん認識できないのだ。

このギャップは、どうしてできたのか?
それはあんがい単純な仕組みだけれど、大がかりで大規模だから、絶望感さえ醸し出す。
行政事務官たちの集団独裁を、国民は感じ見ているのである。

アメリカ風にいえば、「日本版ディープステート」だ。

これを修正して正常化させるには、政治家集団による巻き返しが必要だけど、集団どころかひとりもそんな意志をもった人間がいないから、議員が徹底的に「小粒化」して、とうとう目に見えないミクロンとか、オングストローム単位にまで縮小してしまった。

これをもって、「いない」というのである。

トランプ氏を強く支持する日本人をネット上に多数見受けるのは、トランプ党日本支部が欲しい、という切実なれど、幻想をみる快さがあるからだ。
つまり、日本政治マーケットにおいて、既存政党のポートフォリオは、完全に間違っている、という意味だ。

だとすれば、粛正対象になった議員は、静かに粛正されるのではなくて、大騒ぎして抵抗すべきであった。
・第一に、コロナパンデミックの科学的論拠が皆無なこと
・第二に、自粛警察が全体主義を促進することの警告
・第三に、全体主義化のメカニズムの説明

最初の「抵抗」は、しつこいほどこのブログで書いてきたし、二番目の話もおなじだ。
三番目について、ひと言でいえば以下のようになる。

家庭内や、小さい組織内だけで語られるローカルだが伝統的な価値観に基づく「道徳心」が、社会全体に広がって、それが社会構成員の全員に「強制」されるようになると、たちまちにして「全体主義」へと変容する、ということだ。

だから、いまこそ抵抗が必要なのである。

ややこしいかもしれないが、全体主義を防止するためのメカニズムは、この逆の発想にある。
それは、利己心が結果的に利他となる、という「逆説的」かんがえ方だ。
計算の順番を間違えると答が違う、かけ算と足し算がおなじ式にあるときのようなことが社会で起きる。

じつは、資本主義が生まれた原因といわれているかんがえ方も同様なのである。
厳しい信仰をもったひとたちが、「まじめに」自分の職業に没頭したら、個々人が「儲って」しまった。そこで、その儲けをふやすべく他人に投資したら、社会全体に「よい」利益をもたらしたという「真理」なのである。

つまり、ハイエクが「発見」した、「カタラクシー(交換)」メカニズムの発露としてかんがえれば、今回いう「抵抗」とは、ぜんぜん「あり」の、きわめて論理的行動となるのである。
ハイエクをしらない政治屋の見識の薄さが、粛正される側になる「仇」となったのは自業自得だ。

あゝ、もっと勉強しておけばよかった。

でも、残念なことに、偏差値で進学先学校を選ぶと、なかなかハイエクを教えてくれる先生に当たらないのが、わが国「集団独裁」の恐ろしいところなのだ。
かんたんにいうと、集団独裁を推進したいひとたちばかりの「東京大学」を頂点に、偏差値でいう自分の「限界」を目指してはいけないのである。

すると、困ったことに、高校生が自分から将来いったいどこの誰に師事するのか?を現役のときに決めてから、その師がいる学校を受験するという手順になる。
こまかくいうと、その師が、別の学校に転籍してはこまるので、教師の人事情報も受験の前に必要になる。

つまるところ、いまのように、偏差値でいけそうな大学を選んで受験して合格するという流れにあっては、教師との出会いも「偶然」となる「仕組み」になっているのである。
これは、「情報の非対称性」そのものの「市場競争」を強いられていることを意味する不幸である。これが、「偏差値偏向教育批判」の本質だ。

もちろん、ひとの出会いは偶然性があるものだけれど、めざす先生の周辺に、偶然の出会いがあることが「高等教育」としては望ましい。
すると、いまの「高等学校」がぜんぜん高等ではなくて、予備校化している批判の意味もみえてくる。

とにもかくにも、学業エリートを政治家として選んではいけないのだ。

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