ハラスメントは個人の資質か?

さまざまな「ハラスメント」が顕在化してきた.
ちょっとまえには,そんなことばを聞いたこともなかった.
「概念がない」と,「言語にならない」のは,言語が文化であることの本質だろう.
すくなくても,フランス語には「セクハラ」に相当することばがない.彼の国の「文化」になじまないからだ.それを,有名女優が発言したら,世界は「文化」を否定した.

こうなると,どちらが「ハラスメント」なのか?ということになって,始末がわるい.
もちろん,そうはいってもフランスにも「セクハラ」を認識して,いやがるひともいるだろうから,正確さをとわれれば,かんたんに全部を一緒にできない時代になった.
すると,こんどは容易に発言できなくなるから,やっかな世の中だ.

「ハラスメント」の基本判断は,「本人が」嫌だとおもうか?にある.
つまり,自分とはちがう他人の気持ちのなかにある.
だからか,「空気を読む」ことからはなしがはじまる.
すると,いつもその場の空気でさまざまなことが決まるこの国で,「ハラスメント」はさぞやすくないかといえば,これもちがう.

では,「おもてなしの精神」が自慢のこの国で,と問うても,「ハラスメント」はふえるばかりだ.
いやいや,「おもてなしの精神」は,お客様にたいして発するのであって,「内輪は別」だといわれるだろう.

すると,「内輪」という感覚が,日本の「ハラスメント」をつくっていることになる.
これは,家長主義(パターナリズム)ではないか?
いわゆる,「上から目線」である.
これは,あんがいこの社会のあらゆるところにある.

それでか,日本の学校は,パターナリズムから子どもを離す,のではなくて,慣れさせる,という方針が貫かれているようにみえる.
だから、子ども社会における「いじめ」を,おとなの教師が発見できないか,もし見つけても,それに「耐える訓練」とおもえば気にならなくなるのかもしれない.

こんなことで,わが子を殺されてはたまらない.
しかし,被害者は家族もろとも「埒外」にされてしまう不条理さがある.
これが,学校という社会から,本物の社会に浸透してきているのだろう.
企業組織のなかで発生すると,本人には逃げ場がなくなる.

なにも残業などの長時間労働だけが,問題なのではない.
「疎外感」こそが,問題である.
だから,「内部統制」だけでは対処できない.
緊急避難所も必要だが,どうすればよいのかをかんがえる場も必要だ.

それは,はたらきやすい職場をつくる,ということである.
「つくる」のだから,自然発生的なものでなく,意識的な行動がなければならない.
誰にか?
経営者にである.

その経営者が「ハラスメント」を誘発している事例もあろう.
従業員はどうするか?
いろいろなシナリオを,かんがえてみることをおすすめしたい.

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