ライバルの「日経連」がなつかしい

「日経連」とは、日本経営者団体連盟の略称で、労働問題を専門的に扱う経営者団体のことだ。
昭和23年(1948年)に発足し、平成14年(2002年)に、経団連と統合して「消滅」した。

スポーツやら芸術でも「競技(芸術なら「コンクール」とか「オーディション」)の世界では、だいたい「同世代」にライバルがいて、いつもその相手と対戦を強いられるという「宿命」がある。

「現役」だと、最初は「憎き敵」ということになるけれど、互いに研鑽を積んで「一流」というレベルに達すると、ふしぎと「尊敬」の念が発生する。
自分の辛い努力を相手もやっていることに気づくからだろう。

それから、対戦相手となっても、「勝負」は別として、「楽しむ」という感覚が生まれ、たいていは「生涯の友」になるものだ。
それが、実際の交流はなくとも、「心の交流」という自意識になるのは、自分の価値を確認する方法にもなるからである。

だから、突然、ライバルがいなくなると、大きく心が乱れて、自分の心が折れてしまうことがある。
そうやって、「目標物」を見失うと、あたかも自分自身の目標を失った感じがするものだ。

それが、「かけがえのないライバル」という表現になる。

これは、一種の「ベンチマーク」なのである。
しかし、一心不乱に目標を設定して、「勝利」を目指してきたなら、もはや冷静ではなくなる。

こうしたことは、人間の心理の中に形成されるので、なにもスポーツとかの分野に限定されることではない。
むしろ、企業活動における「ライバル企業」という存在が、社内での共通認識となれば、社をあげて対抗することに異論はなくなる。

だから、これを、「煽る」経営トップが出てくるのも、そうしないと内部組織から突き上げを喰らう畏れがあるからだ。
「うちの社長はお公家さんか?」とかと批判されて、むき出しの敵意を示さないことに不満が出てきたりする。

そんな状態で、一度でも業績でライバルに負けたりしたら、それこそ「トップの責任」が、社内から問われて、統治能力を喪失してしまえば、株主の意向とは関係なく、「辞任」という事態にまでなるのである。
「人心一新」という言葉をつかうのは、このことだ。

気分一新も、景気も、「気」の字があるのは、どれもが「心理」が人間を支配しているからで、「その気」にならないと、ひとは「本気」を出さない。

さてそれで、日経連が出来た「時期」をみると、一つのメッセージがそこにある。
つまり、「占領期」という事実に、「裏」を感じさせるメッセージがあるということだ。

日本を完全支配していたGHQという組織目標は、当初「日本弱体化」の一点に尽きる。
また、アメリカ本国における「長大」ともいえる民主党政権によって、あろうことかわが国の「社会主義化」が実施された。

なるほど、社会主義国になれば、間違いなく国力を失うから、日本弱体化という目的に合致する、もっとも合理的方法ではある。
しかし、もしや「憧れ」の実践という一石二鳥だったかもしれないので、話がややこしくなるのである。

さらに、朝鮮戦争という「神風」によって、あるいは、アメリカ本国の共和党への政権交代で、「不沈空母化」という大方針転換があったから、一概に「占領期」を単純に評価することはできない。
もちろんここに、マッカーサー自身が共和党から大統領候補になるという「野望」も展開する複雑さがあった。

すると、共和党のマッカーサーをトップにしてはいるけれど、配下の将軍や佐官たち(管理職)が民主党左派だったから、GHQなる組織は、より一層なんなのか?が見えにくいのである。
だから、「歴史的偽装」という見方も出来る。

公職追放という荒技で、日本を支えた経営者を追い払ったのも、マネジメント能力に劣るひとたちを「昇格」させて、弱体化を図ったのだけれど、同時に労働組合とストライキを容認して、企業内部からの弱体化も図るという周到さをやってのけた。

ところが、昇格したひとたちがあまりにも「稚拙」なので、「経営者よ正しく強かれ」というスローガンをもって日経連を造ったのは、社会混乱が本物の革命を誘発する可能性にまで高まったからでもあった。

この当時の労組とのやり取りを見ると、幼児的ケンカを売っているのは経営側に見ることができる。

それでもって、日経連が、労組と対峙することになって、労組は日経連を論破する努力をするが、ことごとく「論破」されたのは労組の側であった。
ここに、分かりやすい「ライバル」関係ができたのだ。

しかしながら、いよいよわが国の「世界の工場」という役割を終えるために、日経連を消滅させたら、とうとう労組まで弱体化してしまった。
じつはライバルを失ったのは「経営者」の方で、それが「著しい劣化」となって、わが国の経済力は「落ち続ける」ということになったのである。

だから、労働組合の活動が「付加価値生産性」を向上させるために経営者と対峙するという、「新しい」活動しか、もはやわが国経済の復活を望めないところにまでなっている。
劣化した経営者を、労組が付加価値生産性向上で追いつめる、という構図だ。

実際、これしか、賃金を増やす方法がない、というところまできている。

すなわち、労働組合が「社会主義を棄てる」ということが、唯一の解決策になったのである。

これに、洗脳されっぱなしの経営者と労働組合の双方が気がつかない悲劇がある。

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