人生は砂時計

ガラスで出来た砂時計はどうやって作るのか?
けっこう大変な作業だろうと容易に想像できるのは、手早くしないと砂の量とくびれの細さの関係調整が、加工できるガラスの温度管理とからめて、難しいとおもうからである。

時間の設定には、ストップウォッチを使って、砂の量を決めるから、最初にくびれを作る手順になる。
まさに「職人技を買っている」のが、砂時計という商品なのだ。

「時間とはなにか?」をかんがえだしたら、夜も眠れなくなりそうな難題で、とうとう『時間は存在しない』(NHK出版 、2019年)が、「最新」の議論になっている。
書いたのは、ホーキング博士の再来というイタリア人、カルロ・ロヴェッリ博士だ。

前に書いた、「人間は臨終の際、脳から量子が飛び出して、宇宙へと放出される」という話は、『ペンローズの量子脳理論』(ちくま学芸文庫、2006年)だった。

もちろん、ペンロース博士も、アインシュタインの再来ともいわれる大学者で、生前のホーキング博士との「対談」は、有名だ。

そうはいっても、一介の文系素人には、わかったようなわからない話で、とても「理解できた」と自慢できるものではないし、かえって、なにがなんだかわからないのである。
つまり、宇宙規模の世の中は、「わからない」というのが、まちがいなく現時点での「答え」なのである。

そこで、さらに「素人」がこまるのは、「わかっていること」との「境界」がどこにあるか?がわからないので、なんだか狐につままれたような話になる。
だから、いきなり「時間は存在しない」といわれても、なんのこと?になるし、なにいっているの?になって、生活者は相手にしないのである。

ここに、専門家と生活者との「断絶」があって、それは、「ガリレオ裁判」にもつながるような、「無関心」なのであるけど、「そのうち」世間の常識に変化するものだ。

いまはだれにとっても、1日は24時間で、砂時計でも時間が計れる。
むかしは、1日はあってもそれが24時間だったわけではない。
「24時間の定時法の時計」を伝えたのは、あのザビエルだった。
しかし、日本人は「不定時法の時計」という発明をした。

日の出と日没を基準として、「昼の時間」、「夜の時間」のそれぞれを「均等割」にしたものだ。
明るくなったら活動して、暗くなったら寝る。
この生活のために、「不定時法」が重宝したのである。

だから、夏と冬とで1時間の長さが変わった。

対して砂時計は、一定の時間を計るのに役立つ。
砂粒の大きさの一定が精度に影響する。
それに、「素粒子の流れ」をもってしたら、時間もこれに当たるという話があったので、砂時計はおそろしく「量子論的」な「時計」なのだ。

「粒が流れる」という意味で、おなじだからで、粒の数をカウントしたら「デジタル」なのである。

それゆえに、量子の粒はいつどこから生まれてどこへいくのか?も「砂時計」を作るときの発想だと思えば、いつどこから生まれたのか?は、砂時計でいう「上」の空間で、それが「下」の空間に流れたら、どこへいくのか?という話にもなる。

この上・下が、「ループしている」としたら、「永遠」あるいは「永久運動」になるから、「時間は存在しない」というのだろう。
すると、わたしたちが「時間」を感じているのは、通過点の「くびれ」に住んでいるからだとも思える。

しかし、この「くびれ」の部分が、宇宙なのだといわれて途方に暮れるのだ。
せめて太陽系に限定するとかならば、なんとかついていけそうだけど、そのそも中心にあるはずの太陽すら、「公転」しているという驚きもある。

計算上の「真の中心」から太陽がズレるのは、系の惑星たちの重力で太陽もブレるからだ、と。

もちろん、地球だって太陽の周りを素直にスムースになんて回っていなくて、月とダンスを踊るようにブレながら周回している。
その月も、年に3センチほど地球から離れているから、億年とかの単位でいえば、地球は月を失う可能性があって、そうなれば、潮の満ち引きもなくなる。

これがどんなに地球に影響するかは、少なくとも「人類」には、厄災がやって来ることまちがいない。
それまで人類が存続していれば、だけれど。

一個の個体として、もちろんそんな長生きの人生はないので、かんがえるこすら生活には無駄である。
ならば、どこまで先をひとはかんがえるのか?

数年前まであった「100年カレンダー」をすっかりみなくなったのは、その中の「ある日」が、自分の命日だとかんがえると、自殺を誘引するという危険があると指摘されて、「市場」から消えたらしい。

もっと先がある、という感覚と、先が見えてきた、という感覚は、砂時計の「残り」をみるようなのだ。
若い頃には、時間は永遠だとだれもが勘違いして、齢を重ねたら「残り時間」を意識する。

人間のそんな感覚とは一切関係なしに、「時はすすむ」から、時間とは残酷なものだ。
若い部下にこれをいったら、笑い飛ばされたことがあった。
その人物も50を迎えて、もう笑えないことをしっている。

それゆえに、先を心配してもはじまらない。
逆に、残りの一粒一粒を輝かせるには、なにがよいかをかんがえた方が「楽しい」のだ。

金銭欲、物欲、名誉欲。
はたまた、無欲の境地。
いやいや、自由なる活動への欲求だ。

それがまた、ひとそれぞれなのである。
老後の不安は、ひとまず忘れることだ。

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