八つ当たりになる「不敬」

どうして国民がこんなに「政府に従順」なのか?を考えたら、「あの方たち」の存在が光り出した。
畏くも、尊くもおわします、万世一系の「あの方」を中心にした「あの方たち」である。

わが国には「絶対にいい人」の集団たる「皇室」があったのだ。

どうして「絶対」といえるかといえば、「絶対に生活に困らない」からである。
それで、徹底的に「(他人たる)国民の幸福」を「祈る」ことを職業にしている。

卑しき精神を賤しく発露する「主義」がいけないのは、「生活に困らない」ことを、生活に困っている自分と比較して「恨む」からである。
そういうことを超越するために、「絶対に生活に困らない」ようにすることが、「絶対条件」にしているのに、だ。

「国民統合の象徴」とはよくいったもので、古来そういう存在だった。
もちろん、「初期の王朝」における「権力争い」はあった。
けれども、人類の時間が経過してみれば、ヨーロッパのような「絶対王政」の時代はついになかった。

贅沢三昧の「太陽王」とか、「ヘンリー8世」のような暴君も、同時代の皇室にはいない。
そうやって考えたら、世にも不思議な一家が存在するものである。
しかし、取り巻きとしての「公家」がいたし、またその取り巻きもいて、何重にもなっていた。

これを、「菊のカーテン」という人がいるけれど、本人たちの意思であったのか?
取り巻きたちが、自分たちのために作ったものだろう。
嫌だといっても、「そうはいかない」のである。

ふつうの国民は、そんな事情を知る由もない。
絶対にいい人であることが、日本国民の絶対的希望条件になっている。
そんなわけだから、日本国民の上に日本政府があっても、さらにその上に「絶対的に国民の幸福を祈願する人がいる」という三重構造は、世界のどこにもない。

つまるところ、日本政府は日本国民を「いじめるわけがない」という「信仰」が、今度は国民の側にできるのである。
これが、政府に従順な国民を形成している。

ところが、「制度疲労」が極まって、国民をいじめることを目的にした日本政府になってきた。
そこで、「あの方」も選択肢がないことに忸怩たる思いでおられるのではなかろうか。

政府の言いなりになるしかない、という選択肢のことである。

これは、「日本国憲法」がそうさせる、ということではなくて、鎌倉幕府(武家政府)以来の「伝統」なのだ。
だから、明治憲法の時代だって、昭和天皇は無力だった。
せいぜい、「和歌を詠んで抵抗」するのが関の山だったのである。

「明治大帝」の御製は生涯で9万3千首を超えている。
満にすれば60歳の御生涯にこの数は、日数にして2万2千日なのだから、ご生誕から崩御まで、単純平均すれば4首/日、という数になる。
もう、「和歌しか詠まない」でおられたに相違ない。

つまり、国民も歴代のあの方も、政府にはやられまくってきたのが実態なのだけど、政府の方があの方の前では頭を垂れたから、それで国民は溜飲を下げていた。
しかし、菊のカーテンの向こうでは、溜飲の下げようもなかったに違いないとゲスの勘ぐりをするのである。

そういえば、お亡くなりになった「ヒゲの殿下」は、アルコール依存症で何度か入院治療されていたけど、「皇族という職業」という言い方をされていた。
こちらは、溜飲ではなくて、お酒を飲むしかなかったのだろう。

その酒も飲んではいけない、売ってもいけないと言い出した、日本政府の発狂ぶりは、さすがにイスラム教の国ではないから、すぐさま取り消す羽目にはなったけど、内閣を首班する首相の「逆鱗に触れた」という印象がまるでない。

およそ自由経済のなんたるかをわきまえないなら、こんな政府は転覆させても罪にはならない。
ところが、自由経済どころか統制経済をやりたい野党のひとたちが批判するから、話がこんがらがるのである。

今上陛下には、なにか一発イヤミでもかましてもらいたいところなので、是非にうまい「和歌」にして、国民の敵になってしまった邪悪な政府に一矢を報いてもらいたい、と八つ当たりになる不敬をいいたくなった。

それではあんまりなので、やっぱり秋の選挙は見ていろ、というファイトがわいてくるのである。
横浜市には、前哨戦の市長選挙が待っている。

どういう魂胆かは知らないけれど、長野県知事をやった、変な作家も出るらしいから、一応は「混沌」としている。
国民としては、「お上」の意向を考慮して、ここ一番の「一票」を入れることが「義務」である。

打倒、反日・反国民の日本政府なのである。

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