場末の飲み屋は場末か?

青森に来た。
初めての土地である。
街の第一印象は、交通機関がきめる「駅」であるけど、この地には東北新幹線の「新青森駅」とむかしながらの「青森駅」がある。
かつての「青函連絡船」の想い出は、もっぱら「青森駅」であることはいうまでもない。

新幹線から奥羽本線に乗り換える。
電化されているとはいえ、いきなり2両編成のワンマンカーがやってくる。
どの位置に止まるのかは、地元のひとらしきひとたちの集団に近づくしかないが、あんがい的外れの場所で待っているのはどういうわけか。
「あらら」といいながら、通りすぎた列車のあとを追う。

5分ほどの一駅で「青森駅」に到着する。
「終点」からながめると、線路が右に曲がっているのは往年のとおりなのか?
ここから、連絡線に搭乗するひとの波や空中撮影されたかつての「青森駅」の写真が通路に掲示されている。
この「センス」が、JR東日本なのだ。もっとちゃんとながめられる場所にしないと、通行のじゃまになる。

青森は「港町」なのだ。

ここが肝心で、そのへんの衰退する県庁所在地とはちがう。
にもかかわらず、横並びの感覚が抜けないから、住民は単純に「ダメだ」と思い込んでいるのかもしれない。
しかし、雪のためのアーケードがしっかりしている駅前商店街は、シャッター街ではない。
申し訳ないが、山梨県の甲府駅の悲惨とはわけがちがう。

いったん、甲府は全国に視察受け入れを表明して、その実態をさらけ出すといいだろう。
第一は、各県庁所在地が甲府ほどは酷くないと安心する。
第二は、甲府のようになりたくないと感じる。
第三は、どうしたら甲府のようにならないで済むのか?をかんがえるきっかけになる。

このように、恥をさらすことで、甲府は自分でできることをかんがえるきっかけになる。
すくなくとも、いまの山梨県知事をえらんだ、国による支援が役にたたないどころか、かえってマイナスになることをしることができる。
甲府といえば武田信玄だけれども、武田家滅亡後は徳川の牙城になる。
「甲府殿」から、第六代将軍にだってなっている。

これが、山梨県人の国家依存のはじまりなのかしらないが、将軍輩出後は柳沢吉保が城主になるから、あんがいと「栄耀栄華」を誇ったはずだ。
しかし、一般に、青森県民が山梨県の甲府市の現状を識るチャンスにとぼしい。
だからこそ、「山梨に行く」というキャンペーンを青森県がやっていい。

それに、全国の地方からの修学旅行を山梨にするといいだろう。
かなり「教育的」な旅行になるはずである。
ギリギリ「首都圏」にあっての現状から学ぶことは重要だ。

その青森は、繁華街が分断されていて、中心街はやっぱり「港」周辺なのだ。
このあたりは、横浜と似ている。
かつて、船員たちや港湾労働者たちのいこいの場があったのだろう。
その意味で、大都市横浜の衰退は、青森をけっしてバカにはできない。

宿でもらった飲食店案内図には表記がない場所に、地元も認める店があった。

青森県はやっかいな「県」で、かつての南部藩と津軽藩からできている。
これが東西を分割するから、明治政府の強引さがわかるというものだ。
もちろん、両藩の仲は悪く、とくに南部藩からしたら津軽藩は裏切り者にあたる。
それが言語にもあらわれて、県内でも南部方言と津軽方言は相通じない。
江戸語でもない、「標準語」ができた由来である。

雪が降る青森市から、雪のない八戸へ仕事の都合で移住すると、八戸(南部藩)の同僚からいわれる「イヤミ」が辛いという。
青森市の悪口しか言わない、と。
スペインのバスク地方や、イラク周辺のクルド人のことをおもえば、別の「県」になっても不思議はない。
この意味で、青森県人は「我慢強い」から、それが「東北人」の性格になったのか?

さては、この地元も認める店は、元は「民間」の発想から生まれた「屋台村」であった。
紆余曲折して、いまも「民間」の管理となっている。
それでかしらぬが、公共がつくる地図に表記されない。
地元から全国に新聞・テレビで報じられている店の女将は、「どうしてかしら?」という。

「情報統制」がおこなわれているのである。

このようにして、地元行政は地元の情報を公開しない。
さすれば、統括するオーナーが補助金を申請し、これ見よがしに役所のお陰とすることで「よし」とする。
こうして、ミクロで衰退を促進したら、街全体のマクロで衰退してしまう。
役所栄えて街滅ぶとはこのことだ。

そんなわけで、今度は山梨県の甲府市のひとが青森にやってきて、その情報統制の「妙」をならうのか?
それとも、ばかばかしいと一笑に付すのか?
観に来るひとが、役人ではなく住民であれば、こたえはしれている。

しかし、役人どおしが傷をなめ合うなら、絶望は続くのである。

ならば、こんな場末で全国にしられる店をどうやって維持しているのか?
それはあんがい単純で、自分の得意技を駆使しながら、だれになにを提供するのか?という自問に自答しているのである。
だれに?
なにを?
である。

すると、場末なのにこの店「だけ」が場末ではなくなるのである。

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