大分県臼杵市議の孤独な戦い

市議会における、「マスク着用の申し合わせ」はあったけど、一人で反発して、「鼻だし」から「マスク未着用」という段階的「抗議」をしている議員がいる。

「鼻だし」状態のときでも、議会本会議はもとより委員会でも、発言を議長及び委員長に拒否されて、とうとう昨年に市を相手取って民事提訴に至った。

地元テレビ局やその他でも、この「ニュース」を扱っていて、ネットでは「辞任せよ」とのコメントが圧倒的多数に見える。

「ニュース」としての扱いは、慎重かつ巧妙に、いわゆる「提訴されない防御」をしながら、視聴者には「憎悪」を促す、まさにジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)にある「真理省」の役割を果たしている。

この意味で、わが国が「まとも」な民主国家を次世代にも伝える、という「保守思想」があれば、全入となって授業料も無料化しようという事実上の「義務教育」状態になった高等学校における、「公民、現代社会、倫理、政治・経済」のどれか、あるいは、「現代国語」で、『1984年』は必修の課題図書に指定しないといけない。

つまり、『1984年』を知らない日本国民は「いない」という状態にすることが明るい未来をつくるのである。

なお、近年では、生徒に日和って「選択科目」になってしまっている「理系」のうち、せめて「生物」ならば、副読本として、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界:Brave New World』(1932年)を課題図書にするとなおよい。

   

とはいえ、残念ながら『Brave New World』のドラマ作品は、シーズン1で打ち切られたので、続きは原作を「読む」しかない。
また、ドラマ作品のビデオは英語版であるから、日本語で視聴するなら「配信」しているのを観るしかないことになっている。

ついでに、この作品で重要な道具立てになっている、精神安定飲料「ソーマ」については、わが国戦後近代文学の金字塔と三島由紀夫が評した、『家畜人ヤプー』にも「おなじもの」が登場する。
ながく「絶版」となっていた、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も2010年に復刻(全4巻)されている。

ただし、この作品自体が「成人向け」なので、まだ高校生には刺戟が強すぎるし、その「エログロ」具合は、ノーマルな成人にもかなりのものであるから、目にするには覚悟がいる。

『1984年』や『すばらしい新世界』とは、わが国が国として、ぜんぜん民主主義国家を目指していないし、マスコミがいう「民主主義」とは、共産党の「民主集中制」の「民主」を言っているにすぎないことに気づくための「教科書」なのである。

『1984年』での、「ダブルスタンダード」に基づく、「ニュースピーク」という、国民の論理的な思考を封じる「語法」の解説なのだ。

また、『すばらしい新世界』での、家族の解体が遺伝子操作によるところまで進行するという話は、かつての「優生主義」の究極で、次世代の「母」になる女子生徒には必須の事前知識を与えるから、「家庭科」における副読本にするのもよい。

すると、「フェミ」がいうことの本質が、じつは「女性の敵」だという逆転になっていることにも気づくであろう。
ここを、「突いて」からかっているのが、前に書いたネットで人気の「ちくわ【あるある】」の瞬間芸なのである。

よって、これらの図書や映画は、わが国の「主流をなすひとたち」から推奨されるわけもなく、むしろ、これらを「知らない」国民にすることに、「使命感」すらあるはずである。

個人的経験だが、とある現役東大生(政治学専攻)が、4年生になっても、上記作品の存在すら「知らなかった」のに驚いたことがある。
しばらくしてから、メールで「読破して驚いた」という「お礼」のメッセージをもらった。

まじめな学生ゆえの反応なので、かえって本当に東大の政治学専攻課程で、ジョージ・オーウェルもオルダス・ハクスリーも、さらにいえば、ディストピア小説の「はじめ」にあたる、トマス・モア『ユートピア』も教えていないのかと疑った。

いや、東大生は、教師がいうまでもなく「読んでいるはず」という「前提」があるにちがいない。
しかしそれは、極めて「不親切」であって、やっぱり「知らない」ままの「エリート」を量産したいのではないかと確信するのである。

そんなわけで、大分県臼杵市の若林純一市議は、「知っている」側の「小数派」だから、想像以上の「孤独な戦い」をしているにちがいない。

札幌市議会での「議長選出」を巡る「ピエロ」がいたけれど、若林市議の場合は、はるかに政治哲学的本質を衝いている。

人間を支配するのは「恐怖」である。
これに気づいて実行したのが、ヒトラー、スターリン、毛沢東、それにカンボジアのクメールルージュだった。

選挙で選ばれた議員たちが集団で、「マスクをしない」というだけでの言論封殺をすることの重大性に気づいていないことの恐怖。
それを支持する、ネットコメントを書き込むひとたちの、全体主義への「無防備」と、それが全体主義であることの無自覚という恐怖。

その「条件」になっている、マスクがウイルス感染を予防するという「科学」の適当な解釈に至った恐怖、あるいは、「エセ科学」を信じる野蛮の恐怖。

もちろん、日本が戦争に打って出るように仕向けられた、米英による資源締付けの恐怖だってあるし、バイデン氏が一方的に煽る「戦争への恐怖」は、いまやっていることだ。

これらに通じる「戦い」だということに、気づかない「自覚なき可哀想な奴隷たち」が、若林市議を非難するひとたちなのである。

どんな「判決」がでるのかに、興味が涌くことの意味は、すでにある、「司法」への疑いからのことである。

地方裁判所の裁判官を言うのではない。
最高裁判所で、国民審査の対象にもならない、「事務総局」がやっている全国裁判所の裁判官「人事」における、統制の恐怖なのである。

事務と組織が互いに「進化」して、これに通信の進化が掛けあわさってできてきたのが、「効率的な統制」であった。
その事務と組織をとりまとめる者の、(役人の)匿名性が、顔出し名さらしの政治家を無力にしてしまう。

若林市議の「まとも」が日本人の「まとも」にならないことが意味するのは、残念ながら「全体主義の完成」なのである。

台湾海峡危機が、どんな恐怖をもって日本人を野蛮にさせるかも、これから起きることである。
国防の必要と野蛮は別なのである。

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