奇跡の資本主義

資本主義について何度か書いてきたが、これからはじまる「恐慌」的「大不況」の「心の準備」のために、念押ししておきたいので、しつこいけれど書いておく。
なお、長いので「連載形式」になるとおことわりする。

もう、わが国は、戦後世代のひとがほとんどになったので、戦後の「資本主義」が、「本来の」資本主義だと思い込んでいる。
その「戦後」のイメージも、とっくに「一面の焼け跡」や「闇市」ではなくて、「高度成長の昭和」になっている。

『三丁目の夕日』は、1974年9月から2013年4月まで、小学館の『ビッグコミックオリジナル』に長期連載されていた、西岸良平の人気作品だ。
2005年に公開され、2006年にかけてわが国映画賞を「総なめ」した、『ALWAYS 三丁目の夕日』の原作である。

これが、「昭和のイメージ」をいまに決定づけたといえるだろう。

しかし、わが国は、明治になって資本主義を導入し、「産業革命」をアジア地域で初めて成功させたという、「神話」がある。
これをもって「日本人の優秀性」をいうひとがたくさんいる。
このときの「日本人」とは、誰のことか?と問えば、だれもが「明治の日本人」というだろう。

これが、「神話」になる問題なのである。
そのときのことしか「見ない」で、「見えることだけ」で決めつけてしまう態度が、いまのコロナ・パニックをも産むからである。

また、現在の政府がかかげる、「第4次産業革命」という「倒錯」にいたる原因にもなるのだ。
内閣府の『経済財政白書・世界経済の潮流等』の「日本経済2016-2017」の第2章にある。

なにが「倒錯」しているのか?
まずは、順番である。
あろうことか、日本政府は、産業革命を、「18世紀末以降の水力や蒸気機関による工場の機械化である第1次産業革命」(前掲より抜粋)と書いているのだ。

前提に「十分条件」がない、「必要条件」だけの文になっている。
第一に、資本主義が成立したから、産業革命が起きたのだ。
このことが示す重大な「誤解」は、資本主義そのものに対する「誤解」も含まれている。

それは、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるという「誤解」である。上の引用もこのことを明確に示している。
これを「作文」した、まさに、わが国官僚とそのブレーンが、「スターリン主義者」であることを告白したも同然なのである。

なぜなら、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるということが、スターリンの「五ヵ年計画」の「根本思想」だったからで、この「思想」が彼の死後も継続し、ついには「ソ連崩壊」の原因となったからである。

カネと技術革新さえあれば、産業革命が起きる。
しかも、そのカネは「国家」が提供し、技術革新も「国家」が推進するのだと断言する。
まさに、スターリン主義のことをいう。

なんという「浅はか」であろう。
資本主義の成立要件で、絶対に欠かせないのは、「資本主義の精神」なのである。
この「精神」とは、「勤勉なる労働が、自己の魂の救済になる」という「信仰」に起因しているのだ。

そして、この「信仰」が、「結果としての利益・利潤」を「道徳」として社会が認めたことで、資本主義が成り立った。
「目的としての利益・利潤」ではないことが、人類史上の「画期」なのである。

人類史という長い目でふり返れば、「資本主義」は、18世紀という「時期」に、初めて、しかも一回だけ、まずは英国などのヨーロッパ地域で「成立」した。
つまり、古代から17世紀まで、人類は一度も「資本主義」を経験したことが「なかった」のである。

けれども、驚くなかれ、日本における資本主義の精神を言い出したのは、なんと、本家のヨーロッパよりもぜんぜん早い、天正9年(1579年)生まれの、鈴木正三である。
詳細は、山本七平『日本資本主義の精神』をご覧あれ。

鈴木正三のことは、わが国の資本主義をかんがえるときに、また語りたい。

世界史の興亡は、あまたの国や帝国が出現し、その栄耀栄華を極めながらも滅亡をくりかえす。
驚くほどの富と権力を手にしたひとたちのだれもが「目的としての利益・利潤」を「当然」としていたのだ。

だから、いまでいう「詐欺」や「掠奪」だって、ついこの前までは「ふつうのこと」だった。それで、「だますよりだまされる方が悪い」という変なことが格言にもなるのである。
「目的としての利益・利潤」のもうひとつの典型は、ギャンブルで賭けるひとである。ギャンブルの場で働くひとのことではない。

これが、たまたま、カソリック教会への不満が爆発し、その勢いで支持された「カルバニズム」という激烈な「信仰」から、コペルニクス的価値観の大転換が起きたのが「資本主義」である。

それが、「結果としての利益・利潤」の扱いだった。
形だけ教会に行って「免罪符というお札」を買えば救われるのではなくて、「本気で祈る」ことにこそ価値があると思い詰めた。

これには、ヨーロッパの人口を半減させた、「ペストの大流行」も影響しているのだ。
そして、本気で祈る清楚な生活と、他人が喜ぶ生真面目な製品づくりをしていたら、あろうことか「利益」が手元に残ったのである。つまり、意図しないのに「儲かってしまった」のだ。

他人のため、というかんがえ方が利潤をもたらす。
これは、いいことなのか?それともわるいことなのか?
一心不乱に祈りを捧げる行為とおなじように、一心不乱に労働したら利益を得るのは「いいことだ」になった。

そして、勤勉さにこそ価値があり、結果としての利益・利潤が、「勤勉さの証」になったのである。
だから、結果としての利益・利潤を蓄えた「金持ちが尊敬される」世の中になって、このひとたちが、社会のために「投資」した。

その投資対象が、だれもが腰を引くような最新技術でもあったから、それが産業革命になったのである。
つまり、単に資本と技術があっても、産業革命は起きないし、じっさいに17世紀までの人類社会に産業革命は起きていない。

おおもとを見失うと、「浅はか」が正面にでてきて、決して成功しない。
資本主義の精神に興味がない、わが政府の「計画」が、成功するわけがない、ということになる。

初期の資本主義とは、こういうものであったことを忘れてはいけない。

このことを力説したのが、ヤマト運輸の中興の祖、故小倉昌男の『経営学』である。
「サービスが先、利益は後」とは、「結果としての利益・利潤」にほかならないから、「正統・資本主義」の教科書でもある。

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