書店がきえる

またひとつ、近所の書店が閉店になった。

たしかに、近年、書店にいく機会がめっきりへったとはいうものの、なくなるのはこまるから、消費者とはわがままなものである。

アマゾンでの本の購入は、新刊だけでなく古書もある。
しかし、時間があるとき、散歩がてらに古本屋に寄るのが、あんがいたのしいのは、ほう、という発見のよろこびがあるからだ。

検索には、パッシブな検索とアクティブな検索の二種類がある。
潜水艦でいう、パッシブソナーとアクティブソナーとおなじだ。
パッシブは、むこうからやってくる情報をとらえることで、アクティブとは、じぶんからとりにいくことである。

だから、ネットでの検索は、基本的にアクティブで、書店での検索はパッシブになる。
ぶらぶらと書店を歩きまわるだけで、めずらしい本をみつけることができるのは、まさに「ならでは」だ。

ネット書店を猟歩しても、リアル書店のような「発見」はむずかしい。
それで、わるい消費者は、リアル書店で見つけた本をネット書店に注文したりして、リアル書店の売上に貢献しない。

そんなわけで、リアル書店の営業がたちいかなくなって、けっきょく不便を被ることになったのは、消費者の自業自得だろう。

いっぽうで、書店側はどうなのか?
世界をみわたすと、「美しい書店」というかんがえかたがある。
これらの画像や映像をみると、行ってみたい、という衝動がうまれる。
もちろん、そこで売っている本を読むためのじぶんの語学力は無視してだ。

そして、おそらく、なにが書いてあるかはわからないけど、「美しい『本』」をみつければ、購入するだろうじぶんが容易に想像できる。
つまり、書店が「観光地」になる、ということであって、そこで売られている「本」が、観光みやげになる、ということを意味する。

ただ本を並べれば「書店」なのか?
それは、ただ魚を並べれば「魚屋」なのか?
ただ野菜を並べれば「八百屋」なのか?という問いとおなじだ。

日本が貧しかったころ、ということなのだが、じつは、ついさいきんまで「貧しかった」のだ。
戦後の混乱期は圧倒的な「物不足」を経験していたし、そもそも、その前からふつうに「物不足」だった。

石油ショックのときは、まだ新規の珍しさがのこっていたスーパーマーケットに、トイレットペーパーをもとめる混乱があったのも、「物不足」経験からの反動だし、東日本大震災のときのコンビニから商品が消えた状態もおなじ心理からだった。

なんのことはない、あいかわらず、貧しいのであって、わざわざむかしを思いださなくても、こころのかたすみにDNAのように、しみわたっているのが日本人なのだ。

公共放送が「買いだめをするな」とよそ行きのことばで連呼しても、だれも聴かないのは、上の発想がきえないからだし、ことばだけの公共放送の無責任をしっているからである。

だから、「もの」にこだわる。
「ものづくり」の「もの」もおなじだ。
作り手もそうだが、売り手の商店だって、「もの」を売っていると信じている。

それで、品揃えが豊富でないといけない、という発想になる。
神田の古本屋が「専門化」しているのに、新刊書は百花繚乱の店づくりになっていて、各コーナーの専門ですら深くない。
売れ筋の取捨選択がそうさせるのだろう。

「本屋大賞」も、本屋がじぶんで読んで掘り出し物の作品を紹介したかったのだろうが、ジャンルがせまくて魅力に欠けるから、売れている本とおなじになって、なんだか全体がうすまった。

古書店には、所轄警察から「古物商」の許可をもらわないといけないから、新刊書の本屋とちがう。
新刊書には、再販制度という特権があって、売れ残りは取次に返品ができるようになっている。

一見、書店のリスクがないし、そのぶん、あんまり売れそうにない本もとりあえず出版できる。
しかし、流通取引での競争がないから、業界が硬直化してしまうのは、必然的なことである。

そこに、アメリカから「アマゾン」がやってきたわけだ。
書籍という商品が、「通販」で市場をかくも荒らされるとは、だれもおもわなかったのではないか?

これに、「グーグル」もくわわって、アマゾン対グーグルという奇妙な戦いになっている。
アマゾンは「ネット通販」が本業で、グーグルは「ネット広告」が本業だからである。

つまり、書店という「もの」をあつかう商売が、べつの商売に翻弄されてしまったのは、制度のぬるま湯に浸かったまま、じぶんたちは何者かをわすれた結果だともいえる。

「美しい書店」しか、生きのこれないのか?
しかし、そこには「美しい本」がなければならない。
けだし、ただそこに「本」がある、だけではもう成りたたない。

消費者が欲する本はどんなものか?
時代は、「あなたへのおすすめ」の精度を、アマゾンとグーグルが競争しているのである。

すなわち、アクティブからパッシブへの転換がとっくにはじまっているということだ。
「本」を売っているというかんがえと、消費者が「買っている」ものがちがうのである。

消費者は、じぶんの知見がふえることを買っているのだ。
「本屋」は「本」を売っているとかんがえてはいけないのである。

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