栄養学は有効か?

食と健康をかんがえるときに、必須となるのが「栄養学」である。

生物は、栄養を体内に取り込んで生きているから、どんなふうに取り込んで、どんなふうに活用し、どんなふうに排出するのか?という「流れ」が必ずあるものだ。

この「栄養」を、「エネルギー」と読み替えれば、生命体とはエネルギーの流れがある状態という意味になる。
すると、「死」は、このエネルギーの流れが止まった状態になることをいう。

それでむかしから、「死」を「物故」というのは、えらく科学的ないい方なのだ。

人間も動物なので、体外から体内に食物を取り込んで生きている。
この取り込むときにしているのが、「消化」だ。
どうやって消化しているのか?といえば、「化学反応」なので分子レベルでの話になる。

だから、教科書では「分子」の説明から始めようとするけれど、その前に「原子」のことを知っていないといけないので、まずはもっとも単純な「水素原子」の「おさらい」から始めることになっている。

なお、原子を構成している「素粒子」のことまではなかなか触れない。
素粒子に言及すると、「量子物理学」の話になってしまうからだろうけど、「消化」に量子がどうかかわっているのか?についての詳しい説明は「これから」にちがいない。

化学反応を支配しているのが、量子だからである。

水素原子は中心の「原子核」が、1個の「陽子」(量子)で、その周辺に1個の「電子」(量子)が回っていると習う。
もしここで、電子が1個ふえて、2個が回るようになれば、その物質は「ヘリウム」になる。

むかしはこの電子の「軌道」を、「平面」に書いたけど、いまは「電子雲」ということになっている。

こまったことに、量子力学が進歩して、電子の位置が確率でしかなくなったから、「雲のどこか」という位置関係で表現することになったのである。
学問的に「正しい」けれど、初学者にはなんのことだかわからなくなった。

これをビジュアル的に説明する、アニメが普及しないのも不思議なのである。
教科書が「電子化」されても、紙からタブレットで読むだけのちがいなら、目を酷使するだけのちがいともいえて、進化がない。

なんだか、学者が知識を独り占めにして、他人の子供に本気で教える気があるのかを疑うのだ。

この意味で、いまみたいに学問が進んでいなかった時代の、最先端の一流学者の説明はわかりやすかった。
これは、その学者本人の「理解度」が本物だったからであろう。

とくに一流の学者ほど、小学生にでもわかるような説明をしてくれたので、「少年雑誌」に意味があったのである。

いまの「少年」がつく雑誌類は、ほとんどおとなになり損なったようなひとが対象になっている。
どうして「少年」がつく雑誌の表紙に、水着のお姉さんが笑って写っているのか?は、それこそ外国人の親には理解不能だろう。

それに、かなり「バイオレンス」なシーンが続出するのに、「年齢制限なし」のマンガも、アニメも野放しになっている。

いわゆる「偏差値教育」が問題視されてずいぶん経つ。
これは、「テストの点数中心主義」という方式なので、教育界全体が「予備校化」した。

だから、「いい学校」とは、「平均点が高得点な生徒ばかり」のことを指す。
それだから、「いい学校の卒業生」とは、テストで高得点が取れるだけの「優秀さ」が認定されている。

なので、「優秀な」ひとを集めようとすれば、「テストの点数が高いひと」だけが集まるようになっている。
ところが、テストの点数が高いひとが、「応用力があるひと」とは限らない。

むしろ、テストの点数が高いひとは、「応用力に欠ける傾向」があるのは、当然といえば当然だ。
この「風習」を、大企業ほど採用して、社員の「資格昇格試験」をさかんにやっているから、「応用力がないひと」を昇格させている。

なによりも「上司に逆らわないこと」を条件とした、応用力がない上司たちの都合が優先されたのである。

教科書の「原子核」の説明に「電子雲」を使うように指示した学者は、なんだかどんなひとかがわかるのである。
それでもって、いろんな「資格」を卒業時に取得することを目的にすると、やっぱり優秀なのは「テストの点数が高い」ひとになる。

文系ならば、司法試験とか国家公務員上級職とかで、理系ならば、医師国家試験とか管理栄養士、薬剤師に建築士など、結局のところ、ぜんぶ「正解」がはじからある「問題を解く」ことで、目的が達成されるのである。

けれども、世の中は、あらかじめ正解がある問題は「皆無」にひとしい。
実務では正解なき問題に対して、いかに正解に近づけるか?しかないし、そもそも何が正解なのかさえもわからない。

それは、「成功」していてもである。
その成功が、正解を出したゆえの成功なのかすら、わからないのである。

高い志から、管理栄養士になったひとが大病院に就職して、張り切って患者と向き合ったら、決められた「栄養指導」しかできないことに気がついた。「しかできない」とは、勝手に解釈してはならないという意味である。

つまり、「業界マニュアル=士業としてのガイドライン」を逸脱してはならないのは、「士業」ゆえの責任だということなのである。
その「ガイドライン」は、テストの点数が高かったゆえに、「いい学校」の教授になったひとが書いている。

これを包括しているのが、「公的健康保険」による、「点数表」なのだ。

そんなわけで、とある管理栄養士は、せっかく就職した病院を辞めるに至った。
このひとは、独自に調べた患者の食生活から、「業界マニュアル」が無意味ではないかとの疑問から、こっそりと独自の栄養指導をしたら、みるみるうちに患者の病状が改善したのだという。

「偶然」を疑ったけれど、症例を重ねるうちに「確信」になった。

そして、驚いたのは、その無意味の業界マニュアルが「わざと」だと気付いたという。
そうやって、患者の病状を回復させずに、薬漬けにすれば、「業界」が「発展」するという、理屈だと。

げに恐ろしきは、「テストの点数中心主義」が、国民の健康を奪っても構わないところにまでなっていることなのである。

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