現実の「ディープ・ステート」

アメリカが「官僚国家」になっていた。

これが、「ディープ・ステート(闇の政府)」の正体である。
かねてから、ディープ・ステートの存在は、「陰謀論」として一蹴されてきたから、これを口にする者は、「変人」どころか「妄想家」として相手にされなかった。

ところが、アメリカ大統領選挙における組織だった選挙不正の実態が明らかになるにつれ、現実の「ディープ・ステート」が姿をあらわしたのである。
それは、連邦政府役人と州政府どころか郡までもが、これに服していることが判明してきた。

そして、とうとうアメリカ政府の公式見解になった『不正選挙レポート(ナヴァロ報告書)』を提出した、ピーター・ナヴァロ国家通商会議議長が、「ディープ・ステートを見た」とつぶやいたのだ。
それは、官僚組織の「SES」を指す。

まさに、裏の全国官僚行政組織だった。

これは、元をたどれば、カーター政権による高級官僚の採用と長期雇用制度を目的として創設された、「シニア・エグゼクティブ・サービス」(1979年)である。
ある意味、当時、経済が絶好調だったわが国の官僚制度を真似たのだ。

カーター氏がこの重大な勘違いをしたのは、アメリカ商務省が「日本株式会社」といいだしたのが1972年、あの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)によるところ大なのではないか?

ちなみに、C.ジョンソンの有名な『通産省と日本の奇跡』は1982年の出版であるから、勘違いを確信にしたかもしれない。
この本のネタ本とまでいわれたのが、NHKのプロパガンダ・ドラマにもなった、『官僚たちの夏』(城山三郎、1980年)がある。

  

アメリカの官僚は、「政治任用」を旨とするので、政権交代すると数千人のひとたちが、政府から民間へ、民間から政府へと入れ替わることでしられている。
これは、伝統的な、「ジャクソン・ルール:猟官制(スポイルズ・システム)」の運用なのである。

第7代ジャクソン大統領がはじめた制度で、彼の信念である、「役人は誰にでもできる」が貫かれている。
すなわち、行政府の役人とは、議会の決定に従って業務を行うのを旨とするので、それ自体に優秀さを必要としない、というかんがえかたなのだ。

しかしながら、政府役人の質が低くて、行政ザービスの履行が議会の決定通りにできない、という問題が顕在化した。
そこで、カーター氏は、優秀な学生をインターンとして経験させ、もって、各省への就職と業務に興味を持たせるようにしたのだった。
もちろん、低給でしられる給与を、このひとたちには高給(年収20万ドル以上)とした。

こうしてSESは、ワシントンの「官僚機構を管理する」上位組織となった。
対象となる約8200人の高級官僚を、入れ替えがない「定職」として、政府の幹部としたのである。

どのくらい「高級」かといえば、軍の将官クラス(いわゆる「局長級」)に匹敵して、さらにアメリカでは珍しく身分保障されるため解雇されない。
よって、卒業生のほぼ全員が民間に流れていた、有名大学の人材をあつめることに成功した。

これに目をつけたのが、オバマ氏で、彼は自身の8年の任期中に、彼に近しい人材をSESとして採用・任用し、もはやその数は7000人以上ともいわれている。
つまり、この集団が、「ディープ・ステート」だったのである。

そして、政府内部で、トランプ政権になってもさまざまな政策遂行の妨害工作をしていたことが明らかになってきた。
すると、トランプ氏が、あまたの「長官・次官級」をあからさまに解雇してきた意味も理解できるというものだ。

この最たるものが、今回の「総選挙」における選挙不正だった。

すると、真似っこされたわが国はどうなのか?

わが国官僚の「優秀性」は、世界に冠たるものだと自慢している場合ではない。
むしろ、その「危険性」に、国民は気づくべきなのだ。

ディープ・ステートが問題なのは、これらのひとたちが、憲法を守らないからである。
そればかりか、ある特定の利益集団の目的と、自己の利益を合致させるのである。

だから、「闇の政府」なのだ。
これは、民主主義国家としてはあり得ない、国民への裏切りである。

わが国の闇は、明治憲法になかった「枢密院」からはじまる。
同じく憲法に一字の記述もない、「元老」が、内閣と同格以上に位置するのを、誰も不思議といわない不思議。
ここに、明治維新の、ふつうではない「闇」がある。

それが、武士政権の延長としての明治政府なのである。
武士政権の本質は、将軍主導ではなくて、まさに老中や家老以下による「ディープ・ステート」たる武士集団が牛耳ることだ。
これは、解雇されずに禄を食む「SES」と本質的におなじだし、子孫にまで継承される強固なシステムだ。

すると、カーター氏とオバマ氏が真似た日本の官僚制とは、明治以降近代のものではなく、江戸幕府と各藩の官僚制の方だと理解すれば、辻褄が合うのである。

なんだ、いまの官僚とはちがうのか?とはならない。
わが国の官僚政治体制は、もはや確固たる支配体制になっていて、内閣の上位に位置する。

そして、そこには、唯一のメリットだった、「武士道」の微塵もない。
官僚たる武士は、最終責任を「切腹」と「お家断絶」で果たしたのだ。
いまの官僚には、責任という概念すらない。
あろうことか、企業内官僚もこの真似をして恥じるところがなくなった。

官民ともに、かつてない、最低の体制になり果てたのである。

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