郡是を是として近江絹糸を見る

2020年も押し迫ってきた。
ことしは、日米で「フェイクニュース」が爆裂した「歴史的」な年だった。
アメリカは大統領選挙。
わが国は、コロナ禍のニュースである。

島国の特性で、事実上の「鎖国」を決めたわが国に、外国人観光客が入国することはなくなった。
業務であっても、2週間も隔離されるから、めったに来ない。

それなのに、WHOのいう通りにして、患者数と感染者数を「わざと混同」させ、あたかも「パンデミック」だといいふらすことを、誰も阻止しない破壊工作が行われている。

コロナ禍を世界で一番克服している台湾が、WHO未加盟なのが「うらやましい」ことになっている。
そのWHOの最大資金提供者が、ビル・ゲイツ財団だから、どこが「国連専門機関」なものか。

そんなわけで、あんがい重要なニュースが隠れてしまったのも、今年の特徴なのだ。
マスコミの機能不全が原因だから、隠れたのではなくて、隠された、という方がしっくりくる。

かつてわが国経済を支えた一大産業の「繊維業」で、5月に老舗が事実上「廃業」したのは、「他山の石」としての価値があるから今さらだけど書いておく。

「郡是」とは、インナー製品などの「グンゼ」のことである。
明治29年(1896年)に京都府何鹿(いかるが)郡で創業した。社名の由来は、国是あっての郡是である。

一方、「近江絹糸」とは、「オーミケンシ」のことで、こちらは大正6年(1917年)に滋賀県彦根市で創業した。
両社は、どちらも「絹紡糸」からはじまっている。

その「オーミケンシ」が、5月13日に、繊維事業から撤退して、従業員全員に退職勧奨をした。
一方の「グンゼ」は、しっかり利益を創出している優良企業なのである。
いわば、同業なのに「天と地のちがい」はどこからやってきたのか?が、本稿のテーマである。

結論からいえば、経営者の経営力のちがいである。
では、経営者の経営力とはなにか?

あたりまえのことから紐解かないといけないのは、いまの世間から「あたりまえ」が消えてしまったからである。
それが、病気の判定の混乱にもみられると、冒頭のように、今年はさんざん書いてきた。

症状があるひとが、医療機関にいって医師の見立てから、「風邪ですね」と診断されて初めて「患者」となる。その病気が、感染症なら、そこで初めて「感染者」にもなる。

潜伏期間は、発症から逆算するけど、症状がなければ本人だって周囲だってわからないのだ。
だから、宿には利用者に宿帳記載の義務があって、もしもの感染経路を追えるようにしている。宿泊業の営業許可が地元保健所管轄の理由だ。

これが、今年、「壊れた」のだ。

経営者の経営力とは、経営者の役割をしらないと議論できない。
経営者は、企業組織の維持発展のために、経営資源の配分をする役割をするひとを指す。

経営資源とは、「ヒト・モノ・カネ・情報・時間」を指すけれど、最も重要な資源は、頭脳と感情がある生きものであり、限られた人生の時間をつかう「ヒト」になる。
だから、ヒトの扱い方を、ちゃんとできることが経営者にとって最大の「資質」となるのである。

これが、「できない」なら、経営者になってはいけない。
なれば、会社も従業員も傷むことになる。
資質がないのに、経営学やMBAという「知識」だけでなってしまうことを「よし」としたら、資本主義が傷ついた。

ヒトの扱い方が「壊れる」と、どうなるのか?
あたりまえに、取り返しがつかないことになる。
この「あたりまえ」の喪失が、経営者におきると、たちまち職場の人間関係が壊れて、不信感が蔓延する。

そうやって、とうとう「労働争議」になるのである。

たとえば、宿泊業でも、かつて激しい争議があったのは、ときの経営者たちに経営力がなくて、ヒトをモノ以下の資源と同様に扱ったことが、そのほとんどの原因なのである。

これは、「働き方」の問題ではなく、「働かせ方」の問題だ。
人間という動物は、所属する集団・組織のなかにあって、自分の価値をみいだされたとき、圧倒的な満足感をえるから、さらに張り切るものだ。
逆に、自分の価値が認められないと感じたとき、耐えられない不満となる。

こうなると、既存秩序の「破壊」が、当人には正義となる。
それが、「個人」から「集団」ともなれば、大規模な争議になること「必定」なのである。

経営者の背後には、多数の株主がいる。
だから、個々の従業員は、個のままでは相手にされないことがある。
それで、労働組合が社会の認知ばかりか、「必要」をえたのである。
すると、じつは労働組合とは、個々のひとたちの幸福を追求する役割が本分だとわかる。

すなわち、労働組合という組織のためにするというなら、それは本末転倒なのだ。
もし、本末転倒の集団と化して、経営力がない経営者と対峙したら、それはかならず泥沼化するのは、どちらにも「本分」がないからである。

労働組合の理想的指導者(労働組合の経営者)に、企業経営者と同等かそれ以上の自己抑制を資質とするのはこのためだ。
あんまりいわれることがないけど、労働組合という組織も、「経営陣」で決まるのだ。

とはいえ、経営者の経営力がない企業に勤めることは、株主をも幸せにしない。
つまるところ、短期的売買で利益確保を常識とする株主(というより「投資家」)たちの、企業を育てるという「あたりまえ」の欠如が、資本主義を弱めているのである。

自分が好きと思う経営者がつくる「社風」の企業の株主になりたい。
これを実現するには、株式の短期売買の規制が必要なのだ。

さてこの両社、どちらも従業員を大切にする創業の精神があったものが、いまも続く企業と、従業員との人間関係を失った企業との「明暗」として、ひとつの逸話をつくったことが、オーミケンシ最後の価値となったのである。

今日は御用納めのひとも多かろう。
今年1年、お疲れさまでした。

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