経営工学三十六法

東山三十六峰といえば、京都を仕切る山々で、この山のむこうは琵琶湖である。
北は比叡山、南は伏見稲荷の稲荷山までとなっている。

あくまでも洛中、すなわち京都の中心部からみえる東側の山々を指すが、たいへんなだらかなので、

ふとん着て寝たる姿や東山

という服部風雪の句がある。どうやら加茂大橋から詠んだらしい。
山のかたちが具体的にそのようにみえるのもあるが、東山の範囲には戦場となったり陰謀がめぐらされたりと数々の歴史的エピソードが豊富にあって想いがめぐるし、北から23番目の長楽寺山のふもとは祇園であるから、寝たくもなる。

銀閣寺は北から10番目「月待山」という風流な山のふもとで、かの足利義政は、

わが庵は 月待山の麓にて 傾むく空の 影をしぞ思う

と詠っているから、ずいぶん前からあった名前なのだろう。
平安時代が発祥というのは、日本人なら納得できる。

そんなわけで、「三十六峰」というのは語呂がいい。
だからと無理やり「経営工学」のはなしにすれば、ざっと「三十六法」といわれる「技法」がある。
何のことはない、ただの語呂合わせである。

法学部、経済学部、経営学部や商学部という「文系学部」が、なんとなく将来の経営者になるひとたちに選ばれることになっていて、「理系」の出番はすくないとおもわれがちだが、どっこい「経営工学」という「工学分野」がちゃんとある。

いわゆる「工業大学」や「工科大学」にあって、「理系」になるのは「数学」を応用するからである。
ここが「経営学」とことなる。
すなわち、「経営」に対してのアプローチがちがうのである。

もちろん、「経営学」をおとしめたいのではない。
「経営学」と「経営工学」のいいとこ取りをしたいのである。
そのためには、文系でも理解できる入門書が役に立つ。
ざっと「俯瞰」すれば、それは、東山三十六峰を眺めるごとし、である。

副題は「初心者のビジネス技法36」とある。

この手の本は、深入りしないこと、に読破のコツがある。
あくまでも「全体を俯瞰する」のが目的だから、個々の説明はどうしても粗くなるのは致し方ない。
それで、理解にくるしんで放り出しては元も子もない。

わからないところには、付箋でも貼り付けて、あとから専門書のなかの入門書やわかりやすそうな解説を読めばいい。
場合によってはネット検索で済むこともある。
つまり、飛ばし読みをすればいいのだ。

しかし、人生において「識ってしまう」ということによる自分の「変化」を確認できる。
「しらなかった」自分に、二度と戻れないからである。

企業の研修講師をしていて、たかが10分や20分の講義で、これを受講者が体験して自身の変化を実感するのをみるのは、講師冥利につきるのだが、おおくのばあい、それは、数学的技法の例題を解くときにおきる。

自分が出した「答え」が、数学的に裏打ちされていれば、だれがやってもおなじ結果になるのは当然だ。
しかし、日常的な「仕事」のなかで、だれがやってもおなじ結果というのには「微妙」なニュアンスもある。

その「ニュアンス」は、人間の心理からうまれるので、こんどは経営学における「心理」というテーマが重要になる。
経営者だろうが労働者だろうが、職場をはなれればただの人間なのだから、「人間学」というのは、基本中の基本である。

あのひとは人間ができている、あのひとは人間ができていない。
ことばにすれば、たったこれだけのちがいが、まったくちがう結果をもたらす。

たとえば、高速道路のサービスエリアではじまったストライキは、これだけでも「前代未聞」だが、二週間にならんとするその「長さ」においても異例だろう。

ここにきて、会社は損害賠償請求をちらつかせているらしいが、ストライキの結束でひるむこともないのは、どちらの人間ができていて、どちらの人間ができていないのかを示唆するものだ。

すると、経営学の基本も識らず、経営工学なんて知る由もないひとたちが会社を経営していたのだろうと、容易に予想できるのは、経営学と経営工学を「かじって」いればこそなのである。

わが国の経済史では、戦後、労働組合が合法化されたあと、かずかずの労働争議がおきるのだが、かなりの争議が経営側の稚拙な対応によると分析され、それは経営者たちの「自信のなさ」と表現されている。

公職追放でトップをうしなった「番頭」たちが、突如経営トップに「なってしまった」ことを指すのだろう。
名門といわれた会社ほど、こうした事態がおきたのは、いまではかんがえられない「ワンマン」が追放されたにちがいない。

しかし、残念だが、そんな会社はいまも山ほどあって、あいかわらず経営がなにかをしらない経営者が会社を経営している。
けだし、それは、社員時代に経営を学ばなかったツケであることも否めないから、ブーメランになっている。

迷惑なのは従業員であり、利用客なのだ。
足利義政の心境が、奥ゆかしくもある。

まずは、36法を眺めてみることにしたい。

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