臆病者は逃げたからもう安心

日本が大好きというロシア人やウクライナ人、あるいはベラルーシ人の日本語ユーチューバーがたくさんいる。
たいがいが女性で、それぞれが「お仲間」なので、互いの「チャンネル」にゲスト出演して、美女たちの流暢な日本語会話を楽しめる。

慣れればどうということはなくなるけれど、圧倒的「外人顔」のひとたちが、日本語だけで日常を語る「映像」は、さいしょのうちはやや違和感があった。

なるほど、これが米英の「ネイティブさんたち」が体験している、国際言語の様子なのかとわかるのである。
彼女たちが日本語を話すようになるきっかけの多くが「アニメ」だったというから、おそるべしなのである。

その一方で、日本に長く住んでいて、日本語だけの生活をしていると、街や電車で外国人を見ると「あっガイジンだ」と思うようだ。
それでなぜか逃げたくなるというのは、外国語で話しかけられるのが、「怖くなる」からだと真顔で「あるある」と盛り上がるのである。

これを、「英語ネイティブ」のゲストも一緒に盛り上がるから、日本語の「魔力」と本人も気づくようである。
ボディーランゲージでは、電話でお辞儀とか、人前を通るときの「片手チョップ」を母国でやって、不思議がられると盛り上がるのであるけれど、ちょっぴり自慢なのは、母国人に日本での滞在経験を想起させるからだともいう。

めったに「政治的な話題」はしないけど、ロシアのウクライナへの侵攻は他人事ではない。
それで、あるウクライナ人ユーチューバーが、なかなかつながらなくなった家族への電話での会話を披露していた。

ようやくつながった相手は「お父さん」だった。

「卑怯な臆病者たちは外国へ逃げたからもう安心だ」、「街は普段通りでなにも心配することはない」という。
あんまり「心配するな」というから、情報がない日本にいる本人は逆に心配になると話していた。

とっくに壊れてしまったアメリカのメディアは、役に立たないホワイトハウスの発表やらで騒ぐことしかしないで、これを、「ソース」にしている日本のメディアも同様である。

本27日のゴールデンタイムに放送予定という、池◯彰氏の「緊急特番」では、どんな「デマ情報」が流されるのか?
脳が壊されるので観ないように決めているけど、「怖いモノみたさ」はある。

さてそれで、「アラブ」と「スラブ」はカタカナ表記だと「酷似」していて、「ア」と「ス」のちがいしかない。
しかし、元来「アラブ」はむかしの「国名」で、「スラブ=スラヴ」のこちらは「言語」を指す区別があった。

地域でかんがえれば、アラブの北にトルコを挟んでスラブが住んでいるから、「近い」といえば、日本ほど遠くない。

そんなわけで、中東のテレビ局といえば、ドバイを本拠とする「アルジャジーラ」がある。
「アル」は定冠詞、英語でいえば「The」。
「ジャジーラ」は、「島」のアラビア語なので、「The 島」という名称の放送局だ。

こちらはウクライナの様子を、「平常」と報じた。

社会インフラ(電気、ガス、水道)は機能していて、公共の交通機関(電車、バス)も平常運転されている。
ただし、学校は休校で、それなりのひとたちが「外国へ脱出した」という。

なので、「お父さん」の話があっている。

しかしながら、気になるのは、ウクライナ大統領が直接テレビで呼びかけた、「ロシアと戦う意思のある市民には、武器を配布する」と呼びかけたことの「重大さ」なのである。

このひとは、汚職ばかりが続いてうんざりした国民が、それならば、として選んだ、人気「コメディアン」だった。
日本的には、お茶の間に明るい笑いを届けたのだから、政治も明るくしてくれるだろう、と。

言ってみれば、大阪府知事に横山ノック氏が選ばれたようなものだ。
もっといえば、東京都知事に青島幸男氏がなったのとおなじだ。
それで、明るくスッキリしたとはいえずに、混迷は深まったのだから、洋の東西は問わない「法則」があるようだ。

政府が市民に武器を与えることの重大さは、国際法の「戦闘」に関する取り決め、つまり、「戦争のルール」に反するばかりか、それが、「捕虜を保護する」ための取り決め(ジュネーブ4条約)にも違反することだ。

戦争をいまだに「正規軍同士の戦い」と想定しているのは、「軍服」と「階級章」の「着用」という、見た目で「敵と味方」を区別するようにしているからで、もしも捕虜になったら階級章で「扱いが変わる」のである。

では、市民が軍服を着用しないで武装していたらどうなるか?

「無差別攻撃」を正当化させるのである。
しかも、「投降」という意味もないから、捕虜としても扱われることもないのは、敵方は捕虜とみなす必要もない、という口実を法的に与えることになる。

つまり、市民に「死ね」という意味が、この元コメディアン大統領の発言の意味になる。

日本人には、ありもしない、南京事件の「悲劇」が、「虐殺」だというのも、軍服を着用しない市民によるゲリラ戦だった、という「トンデモ」まで主張するのが、「あった」という側だ、ということをかんがえればわかるだろう。

それにしても、「なかなか困難」とはいえ、ウクライナの個人に、携帯電話がつながる、というのも、事件、ではなかろうか?
それこそ、「平常」の証拠になるからである。

さて、外国に逃げた「それなりのひとたち」とは誰なのか?
これが、「この戦争の原因」を示唆することにもなるのだが、話が長くなるのでここまでにする。

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