言霊のちから

日本人論でかならずいわれる「無宗教」性は,外国人観光客からすればかなり「変」におもうはずだ.
なにしろ,有名な観光名所のおおくが「神社仏閣」だし,「国宝」や「重要文化財」も仏教などの宗教的造形がおおく指定されている.

これだけ大切に保存されているのに、「無宗教」とはどういうことか?
むかしの日本人は信心深かったが、いつからこうなったのか?

作家の井沢元彦氏は,人気シリーズ『逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎-』(小学館文庫)で,きっぱりと日本人の無宗教性を否定し,むしろ世界最強クラスの宗教国家であることを述べている.

このなかで,日本人の持つ最強の宗教観とは,「言霊」,「怨霊」,「みそぎ」をあげている。
発言のとおりに物事がおきたり、怨霊をいかに鎮めるかが祈りの本質であったり、けがれを除くためのみそぎであったりと、これらは現代生活で、ふつうにあるのである。

物理学の統一理論といわれる「超ひも理論」の構想が発表されて久しいが,バラバラな理論で四つの力が語られているのを,「統一」しようという試みである.
「電磁力」、「重力」、「弱い力」、「強い力」である。

このうち「弱い力」とは、原子構造における素粒子のふるまいのことで、原子があつまって分子になって物質を構成する根本のちからである。
おどろくほどの弱い力だけれども、このちからがなくなると、原子や分子がバラバラになって存在できないから、この世の中の物質という物質がきえてなくなってしまう。

ちなみに、「強い力」とは、核分裂や核融合といった、膨大なエネルギーを放出するちからをいう。

わたしは、日本人の精神における宗教観感覚とは、この「弱い力」に似ているとかんがえる。
ふだんは、宗教を意識しないで生活しているが、時と場合によって、だれかに命令されるまでもなく強固に結合する。
「初詣」にかけるエネルギーは尋常ではないし、人生の節目における「儀式」に宗教的な演出は欠かせない。

しかし,これだけにとどまらないのは、その「あうんの呼吸」ともいうべき、一体感という感覚だろう。
ふだんはバラバラにみえるのに、ここ一番で終結するちからが、日本人にはあるからだ。
まるで、バラバラな素粒子をまとめる物理学の「弱い力」にそっくりなのだ。

なかでも「言霊」は、日本人の精神を支配している。
その代表的事例が、「憲法9条」の議論だ。
合理主義の外国人からみれば、現実とことばの倒錯ともとれるこの議論は、理解不可能なのではないか?

戦争が起きないのは憲法9条があるからだ。

ふつう、戦争には外国という対戦相手がいる。
外国政府には日本国の憲法9条が適用されないので、現実には、別の理由で日本には戦争がおきていない、とかんがえるのが外国人だろう。

昨年末、わが国を代表する高僧が、ことしの漢字を「災」と書いた。
天災があいついだ年だったことからの選択だった。

ならば、憲法に「台風来るな」、「地震よおきるな」と書けばよいと指摘したひとがいる。
これは名案である。

そんなバカな、どうかしているというなかれ。
憲法9条の議論とおなじ論理でできている。

すると、現代のわが国は、おそろしく宗教的な国家なのだということがわかる。
「神頼み」なのだ。
言葉にしてはいけないことや、言葉をかえてもいけないことも、ぜんぶ「言霊のちから」を信じているからである。

だから、「論理」は関係ない。
論理はあってもなくても、「言霊」がきめるから気にしない。
日本人のことばには魂がやどっているから、口から発声されたとどうじに空気にまじって天空を舞い、相手の呼吸とともに相手の体内のたましいを書き換えるのだ。

このちからが、極大化すると「怨霊」になる。
それで、いかなる宗教をもってこれを退治するかが問題になる。
つまり、日本人は宗教を「治療」の道具にしたてた。
「効く」ならば、なんでもいい。儒教も、仏教も、キリスト教も、ただの道具だった。

いつでも清浄なままでいたいから、みそぎをする。
精神的潔癖症が、日本人の特性である。
それで、議員には選挙がみそぎになった。

こどもの遊び「えんがちょ」も、清浄とけがれが、結界を切ることで相手にうつったり、防御することができる。
これは、外国には存在しない遊びかたである。

論理がつうじない理由は、心の深部にみつけることができる。
だから、論理をつうじるようにするには、まず、みそぎという手順が必要なのである。
それは、目的の説明と理解である。
この手を抜くと、どうにもならなくなるのが日本人なのだ。

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