論理より情緒を優先させるエリートたち

これは、日本語という言語のせいなのか?とさいきんとみにかんがえるようになった。

日本語の美しさとは、情緒にある。
そのおそろしくも繊細な表現は、他の外国語にはみられない。
まさに、「もののあわれ」という感覚こそ、日本人の日本人たるゆえんだろう、と。

平安王朝文学が発祥とはいうものの、いまにいたるまでの日本人の行動様式までも規定している基盤の感情・情緒となると、はるか以前からこの島国に住んでいたひとたちの、独特な感情・情緒が、たまたま平安王朝で花開いたというべきなのだろう。

こうした感情・情緒の基盤に、外国からやってきた儒教という「学問」が、強化剤になって、盤石の精神安定をつくりだす。
それが、「武士道」なのだろう。

儒教の発祥地では、とうぜんいまでも「宗教」という位置づけだから、信じるという感情・情緒そのままにストレートである。
しかし、これが日本的変容となるのは、もとの「もののあわれ」と結合した化学反応となるからで、儒教を宗教ではなく「学問」にしてしまう。

だから、論語は聖典ではなく、情緒や人生訓をまなぶ教科書になった。
学問をおさめたものが身分にかかわらず登用される、という裏に、幕府の人材枯渇という問題があった。
それで、「湯島聖堂」がたてられるが、「聖堂」という建前には、宗教っぽくしてじつは「学問」がホンネのネーミングだったとかんがえれば辻褄が合う。

ここに集められたエリートたちは、けっして「宗教家」をめざしたのではない。
むしろ、将来の幕閣としての教養をまなびにきていた。
だから、発展的に東京大学となって、さらに東京帝国大学になる。

さいしょにできた「東京大学」は、その後の「東京帝国大学」とも、とうぜんいまの「東京大学」ともちがう。
ぜんぶ略せば「東大」になるから、勘違いの原因となっている。

明治10年(1877年)から明治19年(1886年)までの東京大学こそ、わが国の選良=エリートがつのった大学であった。
なぜなら、わが国に唯一の大学であって、教授のおおくが外国人だったから、授業のほとんどが外国語で、つまり「洋学」=「論理」教育がおこなわれていたのだ。

このときの卒業生たちが、その後の「帝国大学」で教授職となるから、たった9年間ではあるが、マザーマシンのような存在だったのだ。

帝国大学ができても、「東京大学」をそのままにすればよかったが、政府はそれをせずに「東京帝国大学」にしてしまい、東京大学でまなんだ学生を、「自前」の教授にした。
こうして、お雇い外国人教授の需要がへっていく。

政府が帝国大学をつくったのは、明治政府の高級官僚を武士階級からだけの採用では足らなくなったからである。
西南戦争は、明治10年だったという時代背景をかんがえればいいだろう。

つまり、帝国大学設置のころの明治政府は、政府行政機構が膨張する時期でもあるのだ。

江戸から明治になったから、突然個人の生活が激変なぞしない。
ましてや、郵便制度も電信もない時代だ。
突然世の中が変わるのだと信じた、山奥の情弱だが生真面目な人物が発狂にいたる物語が、島崎藤村が実父を描いた『夜明け前』であった。

   

しかし、「情弱」のいみがいまとはちがう。
木曽の山奥だから「情弱」なのは、通信手段がなければしかたがない。
それよりも、発狂するほど平田篤胤の国学という学問知識に傾倒していたのが主人公である。

すなわち、情緒に傾倒したから、現実とのギャップに押しつぶされた。
では、現実に論理はあったのか?
それもない。

江戸時代の教育の基本は、儒学(朱子学)と国学を柱とし、幕末になって儒学(陽明学)が一大ブームになる。
だから、それなりの上流階級(庄屋や大商家をふくむ)では、子弟教育の基本「漢籍素読」や「国学」が急激に変化したのではない。

それゆえ、明治42年(1909年)生まれの中島敦にも、漢籍の素養が残ったのだろう。

しかして、戦後、新制学制による民主教育では、「漢籍素読」の復活どころか、よりやさしい現代文による「情緒」の教育がじっしされて、「論理」がないがしろにされたのは、占領政策の目的から当然のことである。

こうして、学問として「論理しかない」理系はまだしも、文系における論理は「法理」だけになったから、西洋人の言語の論理に対抗できない低レベルの「論理」をもって支配できるのがこの国の特徴になった。

官民あげての文系人間が原因の不祥事は、論理の欠如ではなくて「ゆがみ」とか「勘違い」という、子どもじみた幼稚さにこそあるのは、情緒優先がそうさせているのである。

そんな文系人間が、官庁や企業の理系人間を「予算配分」という支配下におさめている。
こうして、論理こそが近代自然科学の骨格なのに、それを情緒で支配するから、現実においつかない。

30年前、アメリカを一瞬でも抜き去ることができたのは、「論理」のかけらがあった世代のおかげであった。
中国に抜き去られたのは、彼らの論理にわれらの情緒が対抗できなかったからである。

それでも懲りずに、情緒の支配はつづく。

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