豪華は質素・簡素・貧弱の反対語

困ったことに,「質素を旨とする」といわれると,「清廉」なイメージからこの国では「道徳的によいこと」に変換される.
江戸幕府の政策はいまにいきていて,「倹約令」が背景にあるとかんがえられるが,そのまたルーツをたどると,平安時代の「服制」にいくから,「冠位十二階」がおおもとになるのだろうか.
現代の「叙位」における「位」にのこっている.

明治以降は,資源も資本もない国が,列強の餌食にならないように「富国強兵」をスローガンとするが,それはけっして「富国」でも「強兵」でもなかったからである.
先に「強兵」は達成したが,それを支える意味でも,とにかくずっと「富国」にはなれなかった.
ワシントン軍縮会議が,それを悲痛に物語っている.
だから,「欲しがりません,勝つまでは」といった「倹約」が,政治的にも美徳とされた.

もちろん,外国人にもつうじるもっとも有名なものは「茶道」の「わびさび」文化だから,秀吉の黄金の茶室という「例外」が,質素を豪華に転換させたすくない例である.
だから,この国では,上も下も「豪華」とは逆のものが大好きなのだ.
それでか,絢爛豪華な桃山文化が,なぜか日本文化史の上で浮いた感じになるのだ.

2016年に来日した,サウジアラビアのムハンマド副皇太子が皇居にて天皇陛下と会見した写真が,アラブ世界で「衝撃的」だと話題をよんでいた.
それは,会見の場となった皇居新宮殿の部屋が,あまりにも「質素」で「簡素」だったからである.

あちらの方面では,絢爛豪華な金ピカこそが富と権力の象徴なのだから,この「衝撃」はたしかに理解できる.
これを,究極の「ミニマリズム」だと評するのもわかるが,日本人の目にはこの部屋の「豪華さ」がわかるから,はなしは複雑だ.

白木の材木に,超絶的なカンナをかければ塗装はいらない.
ニスを塗るのが常識のひとたちには,説明しても理解がむずかしい.
だから,日本のそうした技術と選び抜かれた材料の贅沢さは,日本料理とにている.
日本人は,美の世界にも質素と簡素をもとめるのだ.

日本が国家として「威信をかけた」はずの,皇居新宮殿建設は,設計者の吉村順三が途中辞任している.「国家予算」という制約と,「建築家」と「発注者(宮内庁)」との関係整理ができない官僚的な性質とがまざっている.
国立競技場の再建にあたって,イラク人建築家のザハ氏ともめたのも,半世紀前の吉村のパターンとおなじではないかと建築史家の五十嵐太郎氏が指摘している.

とまれ,皇居新宮殿は,外国製をつかわない国産の材料と技術に芸術を駆使した,当時としては最高の建築だった.きっと,いまでもそうだろう.
1968年(昭和43年)落成.当初予算90億円,最終総額130億円だった.
これを民間でやったのが,昭和45年に完成した帝国ホテル本館であった.
やはり建設費用の増大で,二年連続赤字となったものの,その気概は立派なものだ.

昭和の成長期,田中角栄が「今太閤」といわれたように,それは「昭和元禄」とも自称して,桃山時代もおりまぜてのむき出しの金ピカこそが富と権力の時代だった.
有名温泉ホテルの自慢が「黄金風呂」だったのもなつかしい.
そして、金ピカの頂点がバブル期だった.

ところが,頂点のバブル期でさえも,日本人は世界のひとが思い描く「絢爛豪華」を味わってはいない.せいぜい,味もわからぬままに一晩で「ドンペリ」や「ロマネ・コンティ」を抜いた本数を争ったりした程度であった.
外資系とは比べるべくもない貧弱なボーナスと,ベンチャー投資がなかったからである.つまり,古い体質のままの頂点だった.

バブルが崩壊して,外国から「ハゲタカ」がやってくると,彼らは不良資産を買いあさりながら,それを事業化し成功させた.
その売却益の莫大さに,日本人はおどろいてやっかんだ.
こうした成功の報酬を,外資はきっちり社員に還元するから,向こう三代の孫までが一生カリブ海の島で遊んで暮らせるボーナスを得たひとは少なからずいる.

日本のバブル崩壊と鉄のカーテンの崩壊は,ほぼ同時期である.
それで,日本人は世界の動きを見失った.
国内のてんやわんやに東西冷戦の終結の意味がわからなかった.たぶんにいまもわかっていない.
そして,1992年(平成4年)に,中国は「社会主義市場経済」を表明した.

日本の不景気はここから続くから,「絢爛豪華」をじつはだれもしらない.
92年は,地球環境サミットもあった.ここから「エコロジー」がくわわる.
これに,企業の経費削減と政府の公共事業削減が「倹約令」になって,「もったいない」が時代の標語になった.

かんたんにいえば,「貧弱」すなわち貧乏くさくなるのだ.
平等が大好きなひとは「格差」を強調するが,「おもてなしの国」で海外最高評価のホテルは,東京のパレスホテル以外に国内資本のホテルはなくなった.
ホテル経営者も,国際的水準での「絢爛豪華」をしらないからだ.

島のリゾートコテージに家族で一ヶ月滞在すると,日本円で1億円という施設は,世界中にちらばって存在している.
ここの「絢爛豪華」さとは,どんなものか?
建物だけではないのは当然だ.

「コスパ」を気にするひとをターゲット顧客にしていないことだけは確かである.
それに,数量×単価というかんがえが確立している.
わが国は,官民挙げて「数量」だけを追求し,「単価」をないがしろにする.
「貧乏暇なし」の原因がここにある.

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