邦人救出作戦?

自衛隊輸送機がアフガニスタンにいる邦人を救出するために出発した。
「歴史的な快挙」であると、「保守」のひとはいうけれど、何かが変なのである。

もちろん、「救出」であろうが、「退避」であろうが、外国にいる邦人の生命を守ることに文句をいいたいのではない。
そこは、共産党の書記局長とはぜんぜんちがう。
なお、このひとは「医師」でもあるという不思議もある。
職業的専門知識も、間違った思想によってトンチンカンになるというわかりやすい事例を数々提供してくれる、という意味で「だけ」有益だ。

「邦人救出作戦」という意味では、「憲法第13条」に規定されているものの、これに付属する「第9条」が前面にでてきて、「在外邦人救出は憲法違反」ということを言い出すひとたちがいる。

自分自身が外国旅行中であったり、家族や友人などを「救出」しないといけない、となったときにも同じことを主張するのだろうか?
このリアリティの欠如を、「DQN(ドキュン)」ともいう。

この言い方で思い出すのは、1999年(平成11年)神奈川県山北町で起きた「玄倉川(くろくらがわ)水難事故)」である。
俗に「DQNの川流れ」として語り草になっているけど、テレビの実況中継のさなかで流されて子供4名を含む合計13名が死亡した悲惨な事故だ。

リーダー格の男性(生き残った)は、前夜からの何度にもわたる「退避勧告」に、悪態を吐いて従わなかった結果なのだけど、上流のダムが緊急放流するに至って、水が腰までやって来たら今度は「早く助けろ」とか、「ヘリを出せ」とかと叫んでいた。
もちろんレスキュー隊も黙って見ていた訳はないけど、天候の悪化と二次災害の危険によって、有効な手を確実に実行することができなかった。

要は、勧告どおりに「もっと早く避難していたら」ということに尽きるのである。
しかも、現場は、キャンプ地としてもっとも不適切な場所として知られる「中州」であった。
キャンプのガイドブックにも、必ず「中州は危険」、「絶対ダメ」と記載されるのがふつうなのだ。
しかし、天気がよいと「最高の場所に見える」のも「中州」なのである。

だから、中州にテントを張って、バーベキューを楽しんで無事に帰ることには「ラッキー」が隠れている。
このラッキーな経験を積めば、危険な場所という感覚を麻痺させて、他人からの注意を、お楽しみの邪魔とみなすのだ。
しかし、よく知っているひとからすれば「自殺行為」に見えるし、危険を知らせてくれたひとに罵詈雑言を浴びせるなんてことは、「信じられないほどの愚か」な行為にしか思えないものだ。

お亡くなりになった13人には気の毒だけど、この事件のお陰で「中州=危険」が全国に認知されたことは、確かな功績ではある。

そんなわけで、「邦人救出」である。
何があっても戦争はいけない、という戦後の「絶対的平和主義」というスローガンが、いつの間にか「そっち」のイデオロギーに転換されて、これが、「絶対的話し合い」になった。
文脈はどうでもいい、便利な「切り取り」手法で、5.15事件の犬養首相の一言「話せば分かる」に「問答無用、撃て」だけが例に出される。

確かに「話せば分かる」は重要だけど、相手によっては「問答無用、撃て」なのだから、「絶対的話し合い」を強調したい論理には変な「切り取り」なのである。
でも、そんな疑問も「切り取って」、絶対的話し合いは「絶対」になった。
家庭でも学校教育でも、脳も言語理解も「成長過程(=未熟)」な子供に体罰が厳禁になったのも、「イデオロギー」がそうさせている。言って聞かせても「理解できない」のが子供なのに。

別に体罰をせよ、といいたいのではない。
相手の状況を理解すべきといいたいのだ。

念のためいえば、アフガニスタン全土をこの度「実効支配」したのは、自由主義の各国政府の共通で「テロリスト集団」ということになっている。
だから、基本的に「話せば分かる」ひとたちではない。
彼らが話して分かるのは、イスラム法の原理に基づく議論だけなのだ。

それにしても、わが国は、過去の邦人救出を「ラッキー」でしのいできた。
例えば、1985年のイラン・イラク戦争で、テヘランからの邦人救出は、トルコ航空が救援機を出してくれた。
わたしがカイロにいたときの、テルアビブ日本大使館へのミサイル攻撃に至った事件では、アメリカ第六(地中海)艦隊が、残留米国人と日本人を乗せて、イタリアまで退避させている。

カイロ放送のテレビニュースで、空母の甲板にて「うれしそうに」インタビューに答えるひとの「日本語」が聞こえた。
「まさか、自分が本物の空母に乗れるなんて」、は、翌日エジプト人に「戦争のリアリティのなさ」を指摘されたものだ。
テロップの日本語⇒アラビア語翻訳が、あんがいちゃんとしていたらしくて、何を言ったか正確に理解していた。

その他、過去多数の「邦人救出」は、なんとなく「なんとかなってきた」のである。
そして、その都度、「自衛隊による救出」が議論されてはきたけれど、「戦争になる」という論理の飛躍が論理になって、いわば放置されてきた。

さては、この意味で「画期的」なのではあるが、この度の「規定」では、自衛隊は空港内での待機を命じられている。
すなわち、救出されるべきひとたちは、「自力」で空港まで行かなければならないという「命がけ」がある。
もちろん、これを阻止すべく、「テロリスト集団」は、空港までの道路を閉鎖した。

それでも「画期的」というのは、「DQN」ではないのか?
ちなみに、今どきアフガンにいる日本人とは物好きな自業自得、とはならないのは、多くが国際機関の職員か国際ボランティアのひとたちなのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください