隠蔽体質という文化

民間企業には、「コンプライアンスを強化せよ」と命令し,方向違いの手間を多分に強制してコスト高を押しつけながら,自分たち役人の仕事は隠す.
別にいまに始まったことではないが,これを大陸中国のメディアがかき立てるから,ここでも話しが混乱する.

日本政府を嗤う体をよそおいながら,あんがい自国の共産党政府を皮肉っているかもしれないからだ.
それは役人というものの本質で,重要情報は教えない,ということでこその存在意義でもあると,昨日役所に就職した新人でも知っている.

役人のもっとも大切な仕事は,社会の役に立たないのに,なにかやっているように見せて,たいそうな予算を複数年,できれば未来永劫獲得することに尽きる.
役に立たないで,なぜ予算がつくのか?などという野暮なかんがえを思いついてはいけない.役人も,予算を決める議員も,みんな税金という他人のカネなのだから,真剣にかんがえるものはいない.もし,真剣にかんがえている,というなら,そのひとは芯からのうそつきだ.

だいたい,世の中の役に立つことには,だれかにとっては都合が悪いことがおおいから,そんなことをしていたらうらみをかう.役人も,議員も全方位からほめられないと都合が悪いので,世の中の役に立つことには,ついにはだれも関心がなくなるのだ.
真剣に世の中に役立つことをかんがえたら,役所の予算では足りないからそのひとは破産するだろうし,だれかに命をねらわれることになる.

こうして他人のカネを,世の中の役に立たないことに使えば,だれからも文句なく,関係者の全員がハッピーでいられた.
地方都市に行くと,町外れなのか町の入口なのかにある巨大看板「核廃絶都市宣言」もそのひとつだろう.「持っていないものを捨てる」と他人にむかって表明するものに,予算がつく.それでいて,原発でつくった電気を気にせずにつかっている.
民主主義の暗黒さがここにある.
黒澤明の「生きる」が突きつけたものだ.

しかし,現実は映画ではない.
昨今吹き出した,中央官庁の隠蔽事件は,ついぞこないだ連発した大企業の不正事件と地下茎でつながっているようにみえる.
大企業の不祥事は,「日本経済の危機」と言っていたから,今度は「国家の危機」になるのだろう.

「奇跡的な無能」と経営者を嗤う,デービッド・アトキンソンさんの新著「新・生産性立国論」は,なにも民間企業経営者だけのはなしではない.
「国家の経営」がおかしくなっている.

それは、オルテガの「大衆の反逆」を地で行く国家になったことでもある.
日本という国は,大衆が支配する国になった.
それを過激に解説したのが,摘菜収「日本をダメにしたB層の研究」である.

  

この本でいう「B層」とは,小泉純一郎政権のとき分析を依頼した民間会社の定義によるもので,横軸に「構造改革への賛否」,縦軸に「IQ」をおいた十字状(四象限)の図における第Ⅳ象限をさす.つまり,「構造改革に賛成で,IQが低いひとたち」のことである.
この「構造改革に賛成」を,「マスコミ報道に流されやすい」と置き換えても,「自分でかんがえず他人の意見に従う」としてもいい.

この分析を応用して,自民党は郵政選挙に大勝し,その後民主党もまねて政権奪取に成功したという実績がある.
IQが低いB層には,「単純なフレーズ」のくり返しと,「二者択一」の提案が効く.
与野党ともに成功体験があるから,おそらく,むこう数十年は選挙のたびにこの手法がつづくだろう.
これは,政党による「顧客戦略」なのであるが,たんなる人気とりだけが目立つようになるのは,むずかしいことをかんがえることが嫌いなB層には政治志向もないからである.

つまるところ,官庁のエリートも,企業経営者も,一般人も,オルテガのいう「大衆」すなわち「B層」になってしまったということだ.それで,ゆとりと称した教育で若い国民のIQもさげる努力をしたから手が込んでいる.日本は特別だという,傲慢な思想が生んだ,民族集団自殺の準備だ.
しかし,これはいまに始まったことなのだろうか?

明治の自由民権運動も,日露戦争での日比谷焼き討ち事件も,大正時代の米騒動も,関東大震災の朝鮮人虐殺も,そして、米英との戦争を求める民衆デモも,じつは時々の「B層」のしわざではなかったか?

そもそも,明治維新とて,いまでは水戸学が役に立たなかったという常識が定着しているが,幕末水戸学の代表的学者,会沢正志斎のベストセラー「新論」では,倒幕後もこの国の支配者は武士階級でなければならない,としている.じっさい,明治政府とは藩閥というれっきとした武士政権であった.
下級武士も武士階級に属すことにかわりはないが,これを隠蔽して現代的価値感で再構築したのもを「大河ドラマ」と称し,国民から料金を半ば強制的に徴収してたれながしている.

明治体制が国家的自殺の敗戦でおわったら,戦後もGHQというお墨付き機関があった.
「占領」が終わって念願のはずの「独立」を果たすとき,離日する軍事独裁的支配者に「ありがとうマッカーサー元帥」と大見出しで書いたのは日本を代表する新聞であった.
まるで支配の継続を望むようでもある.これを,日本的事大主義というのだろう.隣の半島国家だけが事大主義ではない.

ついでに,日本には日本が世界の中心だと勘違いする「小中華思想」もあるから,隣と本家争いをして不仲になる.どっちもどっちなのであって,わるいことしか生まれない.
お隣の国が大好きな新聞社系民放局が,主に白人の外国人から褒められて日本を自慢する番組をつくるのは,まさに小中華思想であおるマッチポンプをやっているのだ.
そんな局のニュース番組では,そもそも,アメリカと日本が対等・同格だと信じているひとたちばかりが出演して,えらそうな発言をしている.
これらを「B層」のしわざといわずしてなんというのか?

まちがってもいいから,自分でかんがえることだ.
だから、なるべくテレビは観てはいけない.ラジオも聴いてはいけない.
新聞も見出しだけの流し読み程度で良いので,通勤電車のなかでじっくり読んではいけない.
でないと,しらずにマインドコントロールされてしまう.

隠蔽体質という文化の本当のおそろしさは,政府が隠蔽することではなく,だれかに対する「憎悪」を強要され,しらずにそれと一体化してしまう自分自身ができあがることである.
ジョージ・オーウェルの「1984年」にある,全体主義国家で国民が義務として参加しなければならないのは,双方向テレビにむかって罵詈雑言を吐く「二分間憎悪」の時間だ.ちゃんと憎悪をしているかを当局がチェックするための双方向なのだ.もし,憎悪の態度が甘いとされたら,自分が反逆者にされてしまう.

 

もう,技術的にはこれができる時代になっている.

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