雷は地上から上空へ「昇る」?

台風なのか?熱帯低気圧なのか?それとも温帯低気圧か?が曖昧な、一応台風15号が通過した。
横浜は、ずっと「ゴロゴロ」と雷鳴が轟いていたけれど、音だけだった。

先週の14号では、ごく近所に三つほど「落ちて」、よくも停電しなかったものだと思うほど「腹」に響いたものである。

昔から、雷は「落ちるもの」だから、ちゃんと「落雷」というけれど、おどろくことに、雷は「地上から上空へ」電流の柱が「昇る」のである。
たしかに、小さな電流があちこちの上空から降りてきて、これが地上に到達すると「通電」する。

しかし、それだけ、では雷にならず、通電の瞬間に今度は「雷」となって、上空に昇るのである。
それが、「稲妻」だ。

人間の目には、上空からの小さな電流が見えない。
見えるのは、「稲妻」である「雷光」で、それとプラズマ化で空気を裂くことでできた「雷鳴」が、同時に「落ちる」ように感じるのである。

つまり、稲妻の前段階である、地面に通電する、という点では「落ちてくる」のでる。

では、上空とはどのくらい「上」なのか?
「水蒸気」でできている「雲」は、「対流圏」までしか存在できない。
ジェット旅客機が巡航する、「成層圏」に雲はない。

すると、だいたい地上から極地では6キロメートル、赤道で17キロメートル上空が「対流圏界面」という境界になっている。
なので、小さな電流が落ち始めるのも、この高さを上限とする。
なお、このあたりの気温はマイナス50度はある。

それで、水蒸気は氷粒になるけれど、「核」となるなにかがないと水蒸気が集まって固まらない。
これがまた、太陽からの「放射線:太陽風」による「塵」が材料なのだ。

この氷粒が落下して、温度が下がると雪になり、さらに温度が下がると雨になる。
雨になるのは、だいたい4キロメートル上空から下なので、ここから地上に降るまでに空気抵抗もあって1時間~40分ほどかかる。

つまり、いま傘に当たっている雨粒は、1時間前に「降り出した」ものではあるけど、おそらくさらに上空にあって、氷粒だったものである。
それも、「太陽風」がないといけないので、水蒸気だけではいけなくて、どこまでも「太陽のおかげ」なのだ。

しかし、空中の「電荷」は、最上部は「プラス」、雪から雨になるあたりが「マイナス」、それから下がまた「プラス」になっている。
もちろん、「地面」は、「アース」なので、「マイナス」である。

なんだか電池を2本つなげたような。

これが空気中でバリバリしながら、地上に来ずに済んでいる状態もある。
それでもって、科学の結論は、雷は4種類ある、だ。
上から下、下から上がそれぞれ2パターンずつ。

結局のところ、電子の流れと電流の流れの組合せで、これがプラズマになったのが雷だ。
やっぱり、雷光になる前の状態は目に見えない。

すると、目に見える状態になったとき、とは、ほぼすべてが終わった状態を示す、ということだ。
つまり、結果、である。

こうしたことは、自然現象だけでなく、社会現象でもいえる。

目に見えない作業を「仕込み」といったり、「準備」といったりするし、もっと大がかりになれば、「計画」ともいう。
この計画が、なんだか物騒なものなら「陰謀」ともいう。

なので、よくある「陰謀論」を相手にしない、という態度は、あんがいと「計画」の意味をしらないと自白している側面もある。

一般的に、計画をたてるときに気をつかうべきことに、「科学的アプローチ」があることはしられている。
しかし、社会の全員がしっているとは限らない。

これは、科学的アプローチを常識とする企業・組織のなかに、仲間入りしないといけないからである。
ならば、小・中学校や高等学校・大学で、どうして科学的アプローチを教えないのか?といえば、教師たちがしらないからだ。

わが国で教師になるのは、「大卒」でないといけない。
だから、大学でも習わないと、教師になってもしらないままなのである。
すると、大学の教師もしらない、ということになって、一部の教授が「組織論」を授業している状態だけがある。

組織論は、授業であって、その大学組織を云々することはない。
ここが大学の厄介なところで、あんがいと「灯台下暗し」なのである。

そんなわけで、目に見えないことの重要性を、科学者はしっているが、文系は無視する。
こうして同様に、科学的アプローチもしらないで、なんとかなるのが文系の世界になったのが、日本の経済力を劣化させているのである。

もちろん、国民がそんな状態になれば、おのずと政治家もそんな状態でいられるから、こんどは一部の政治家が科学的アプローチをやろうとすると、へんな邪魔がはいるのである。

それで、国民はそのへんな邪魔を支持するように仕向けられて、科学的アプローチを嫌がるのは、そのほうが「楽」だからである。
残念ながら、この意味で日本人は「勤勉さ」を失った。

たまには、雷が昇ることもあるのだとしってみても、それがどうした?自分には関係ない、というひとたちになってしまった。
ならば、なになら関係があるのか?

これが、経済「貧困化」の原因で、それは、「精神の貧困」からやってくるのである。

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