AI化する日本人

夢のコンピュータ、それが「人口頭脳」だ。
しかし、あの傑作『2001年宇宙の旅』(1968年)で「活躍」した、「HAL9000」のようなコンピュータはいまだに実現していない。

これにはれっきとした技術的な理由がある。

それは、現代のAI技術でコンピュータに文章や音声言語の「意味」を理解させる方法がない、からである。
つまり、いま我々が「AI」と呼んでいる機械は、人間の言語を理解しているわけではなく、数多ある「パターン」(データ・ベース)から、単に「照合」して、あらかじめ用意してある「回答集」から、最適な解を示しているに過ぎない。

だから、言語の「文法」が、単純かつ厳格な「英語」をもって、もっとも先進的な研究がされてきたし、その英語に「似ている」と評価される、中国語(北京語)において「最先端」と言われるようになってきた。
もちろん、中国における政治特性から、自国民の生活を本人たちに遠慮なく「実験」できる、というアドバンテージがあることは否めない。

「自由圏」では、絶対にできないことが、「社会実験」だと断る必要もなく、淡々と実施されて、先行開発の有利さを享受している。
その「有利」は、為政者垂涎の的になるもので、被支配者にとっては「恐怖」の到来を意味するけれど。

これを、自由圏の民間企業が政府より先に手に入れた。

コンピュータに文字を表示させるのに、英語などは「1ビット」で済むが、複雑な「漢字」などのためには「2ビット」を要する。
我が国語の日本語もこれにあたるために、初期の頃のコンピュータでは、日本語表示すら厄介だった。

しかし、そこは技術の進歩で克服した。
けれども、文法が複雑で曖昧な「ゆらぎ:1/f」を特徴とする日本語は、その言語特性のために、もっともAIが不得意とする言語となっている。

家庭にある「AI」として、「スマートスピーカー」がいち早く製品化されたけど、「呪文」のような合図を持ってスイッチが入るのではなくて、全部の会話を聞き取っている。
その中から、特定の「呪文」を見つけると、あたかもスイッチが入って、人間を相手にしているような気の利いた会話をしている気になる。

言葉の意味を理解しないから、単に人間が発する音声の周波数をデータベースに照合しているだけなのだけど、そのさらに向こう側にいる、こうした製品を販売した側の人間は、とてつもない「生活会話」のパターンを「収集」しているのである。

それでデータ収集される側の人間は、勝手に「便利」だと「解釈」してよろこんでいる。
そうでなければ、「不気味の谷間」に、人間の方が落ち込むだろう。

そうさせないように、人間の「脳」は、「柔軟」に対応することを選択し、「不気味」さを自分から感じないように自律的に調整している。
「自律的」だから、当の本人は意識をしないでいられるのだ。

このことは、製品の開発者はわかっているし、意図していることだ。
つまり、人間の脳をいかに騙すかではなくて、積極的に「騙される」ように設計している、ともいえる。

さて、技術的に「HAL9000」の実現が不可能だとわかっている現在、AIと人間の関係をどのように整理すれば良いのか?について、『バカの壁』の著者で有名な、養老孟司氏は、「人間がAIに近づく」という名言を披露した。

つまり、人間が読解力を失えば、AIが活きてくる、という関係式が成りたつのだ。

 

この「発見」は、独裁者がとる古典的な政策手段である、「愚民化」を連想させる。
すると、従来の教育現場はそのままに、「教育改革」の意味が見えてくる。

子供を教育しない、ということが、為政者にとって「理想的」な教育改革になる。
授業がわからないまま、おとなになれば、「自然」と読解力のない、すなわち「自分で考えることができない」おとなになってくれるのである。

「理解度」における「格差の創出」こそ、将来の「所得格差」を確実にする。
こうして、理解度が高いグループを支配側に、そうでない多数のグループを被支配側に配置すれば、支配側に都合の良い「奴隷社会」を実現できる。

こんな「政策」に、教師の労働組合はなぜ協力するのか?
それは、奴隷化実現の暁には、暴力「革命」の勃発を期待するからであろう。

なんてスリリングな、そして、なんという無責任。

養老氏が『バカの壁』のきっかけとした出来事は、家庭教師の経験からだという。
教える側の「教え方」と、教わる側の「理解力」が、どうしても一致しないことがあった、という。

どうやったら「わかってもらえるのか?」がわからない教える側。
どうして「わからないのかがわからない」という問題だ。

いま、幼児から小児をもつ親は、学校の成績を気にする前に、国語の理解力を高めるための訓練をしっかりほどこすことを意識した方がいい。
やさしいけれど楽しい本から読書の習慣をつけさせたり、読み聞かせから、俳優による文学作品の「朗読」、オーディブルだって活用していい。

中学卒業までに、子供の脳を鍛えることだ。
そのための「運動」も、無駄ではない。

もちろん政治活動をする教師に対して、「革命」のシナリオを旧来の共産勢力が抱いていることは、支配側ではとっくに織り込み済みである。
そこで、「新しい共産勢力:人民の奴隷化を図る富豪たち」は、なにかに取り憑かれたように、人口削減を企図しているのだ。

オートメーションが、いまよりずっと、AIによって進行すれば、AIと同程度の理解度しかない生身の人間による労働力は、かつてのボリュームも技能も必要としない。

けれども何よりも、人口が少なければ、暴動によるリスクと鎮圧の可能性が高まって、永遠なる安定の奴隷支配が達成できると妄想しているにちがいない。

すると、これはどんな社会になるのか?
「整然とした」社会に相違ない。
そこに「あそび=余裕=例外」は許されない。
すべてが「きっちり」している社会である。

しかし、支配層に「だけ」は、これらの「あそび=余裕=例外」が許される。

そんな日常が、「窮屈」で「住みにくい」と考える人間はいない、と前提される。
個々人の人生目標も、発想させない。
何のために生きているのか?という自問自体が、犯罪的な「行為」と評価され、罰せられることになるだろう。

人間の心を読むと宣伝されたAIが、警察の役割をするのである。
検挙される本人が、ほんとうにそんな自問をしたかは問題にならない。
AIが反応して警報を発したら、それが「真実」なのだ。

あたかも、「PCR」なる得体のしれない「検査」で、ひとたび「陽性」とされたら、症状があろうがなかろうが、「隔離」されることが正義となった社会の如くである。

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