DXはセキュリティなしに構築できない

昨今、江戸幕府より強圧に国民に君臨するようになった日本政府が、何かに取り憑かれたように、カタカナあるいは英語らしき用語をもって、政策プランを表現している。
その典型が、「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」とか、「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」なのである。

冒頭、江戸幕府より強圧と書いたのは、江戸幕府や各藩のひとたちの身分が、武士であったことでの矜持があって、これをヨーロッパの騎士に例えたら、「ノーブレスオブリージュ」があったことを前提にしているためだ。

日本語でなら、「武士道」だけれども、中身はぜんぜん別物である。

本物の武士が新政府の官吏となったものの、その後の世代の官吏養成を、昌平坂学問所の跡地につくった、総合大学としての「東京大学」のエリート育成が、全国規模での需要から、「帝国大学」に変更したことが、悪い意味の平準化となったのでる。

さらに戦後の、「新制大学(制度)」は、これを「大学」と称してよいものか?
「university:ユニバーシティ」を、単に「大学」と翻訳して違和感があるのは、その根本的ちがいを本能的に感じるからだ。

ネット情報の玉石混交には、誰もが頼りにしている、『ウィッキペディア』にもあって、あんがと信用おけない。
なので、面倒でも他の情報源も探ることが望ましい。

それで、「東京大学」を検索すれば、東京大学のHPとウィッキペディアの二つが現れるけれど、残念ながらどちらも正確な解説表記をしていない。
その共通に、あたかも歴史的な継続性があるという「誤解」を読者に与えるからである。

じつは、東京大学の歴史は、断絶と分断の歴史なのである。
たまたま、場所がおなじ、ということだけだったものだから、あたかも「名称変更」という軽い解釈が一般になされてしまっている。

東大ファンの皆様にはお気の毒だが、組織について見識があるひとならすぐさま理解できる。
明治政府がやった、この場所にあった学校の「廃止」と「新設」こそ、「別物」としての事実を隠せない。

そんなわけで、官吏養成という、あたかもフランスの「国立行政学院(ENA:エナ)」の機能が中心にあるようで、そうでもない、中途半端な「学術」の殿堂が東大なのだ。
なお、「エナ」は、日本でいう大学院大学だから、東大の学部ともちがう。

ちなみに、「エナ」は、この卒業生マクロン氏への批判がこうじて、彼が廃止(=廃校)を決定し、2022年に、「国立公務学院」が新設される茶番があった。

どちらさまも所詮は、この程度、なのである。

我が国に話を戻せば、国家公務員として国家を仕切るためには、キャリア資格を得ないといけないけれど、20代前半の一回だけの試験に合格すれば、その後の一生を国家組織が面倒を見てくれる構造になっている。
子供時分から、受験戦争にさらされて、いい学校=いい会社、という安定収入を目指すことの原点に、国家公務員のキャリア職が君臨している。

現実の競争にさらされる、民間企業では、とっくに偏差値エリートに関しては、疑いの目で見ることができているから、旧態依然というのは、もう公務員の世界だけになっている。

しかし、我が国の「国のかたち」が、どんどんと共産主義に向かって、公務員天国を当然とする社会になった。
これを推進する力学とは、自民党や公明党をはじめとする、既存政党に投票する国民の意向がそうさせている。
補助金が欲しい、とか、保護が欲しい、あれもこれもおカネをもらえることをよしとする、乞食根性の刷り込みが、国家公務員と為政者の都合にいいのだ。

アベノミクスとは、国家が「分配」する、まさに共産主義・計画経済の集大成で、岸田氏はより強力な共産化(これを「新しい資本主義」とダブスタ表現する)を目指す急先鋒なのだ。

そんなふうに、公僕たる公務員をまちがった方向へ育てて、深刻な勘違いをさせたのは、飼い主たる国民の失敗なのである。
まったくもって、ペットの犬に生活の主導権を握られた飼い主の多さと一致しているのではないか?

残念ながら、殺処分がゼロにならないのは、そんな情けない飼い主がとる、最後の手段だからである。
しかして、人間界では、公僕たちに国民が殺処分されている。

ロボットが人間を支配する、伝統的SFの世界とは、公僕に支配されることで、すでに片足は達成しているのである。
それで、これを両足にして完成させよう、というのが、DX狙いなのである。

ところが、デジタルの世界には、二つの脆弱性がある。

一つは、SFならたいがいのヒーローが見つけ出して滅ぼすのが、ロボットを作った邪悪な存在にある。
DXなら、プログラミングをした人間がこれにあたる。
もう一つは、ネット上でのセキュリティに脆弱性があることだ。

前者は、構造物にあたるし、後者は、土地にあたる。

だれだって、軟弱な土地に家を建てたくないように、ネット・セキュリティの脆弱性とは、致命的なのである。
つまり、DXは、この脆弱性を無視して、超高層ビルを杭もなしで建てようという無謀なのだ。

見えない杭を多数打ち込むことは、基礎工事として最重要だけれども、もちろん建築コストになって跳ね返る。
ネット・セキュリティの脆弱性を阻止するためのセキュリティ投資は、一体全体いくら必要なのか?

この費用も、全額が国民(企業負担分は結果的に価格転嫁される)負担になることは、国民としてしっていていい。

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