人間はかんがえることで生きている動物だから、かんがえることをやめたり、できなくなってしまうと、「廃人」になる。
残念ながら、事故や病気で、かんがえることができないなら、本人とは関係なく、家族や関係者がどんなに悲しんでも、どうにもならない。
しかし、それでも家族や関係者がいろいろかんがえることをやめないのは、それが人間だからなのである。
この意味で、「神頼み」になるのも人間だからだ。
人間しか宗教をもたないのは、他の動植物には、宗教をもてないからで、その境界が、「思考」の有無(可能性)なのである。
もっとも、人間以外の動物であれ、植物であれ、「必要性がない」という理由までを範囲としたら、たしかにそれでもちゃんと環境適合して生存したのである。
BBCがまともだった時代、科学番組の看板プロデューサーだった、Sir・デイビッド・アッテンボローが制作した番組はどれも素晴らしかった。
なかでもわたしは、『旅をする種子』には感動を覚えた。
思考して突きつめようとすれば、おのずと「哲学」となる。
それで、「哲学の専門家」が出てくるようになるのだが、そこにはざっと二種類の哲学者がうまれる。
・過去の哲学がどんなかんがえであったかを整理してまとめるひと
・じぶんで哲学するひと
どちらも、「哲学者」と呼んでいる。
「万有引力の法則」を発見したことや、「微分法」をかんがえついたり、「光のスペクトル」をみつけた、アイザック・ニュートンは、現代では、「物理学者」としてあまりにも有名だけど、本人は生涯、「自分は哲学者」だと認識していた。
ニュートンの時代に、「物理学」という学問分野はなかった、のである。
それよりも、リベラルアーツの最上位、「哲学」と。下位にある「数学」とを比較すれば、彼が自身を「哲学者」だと認識したことのふつうの方がわかりやすい。
もちろん、ヨーロッパの伝統に従えば、哲学の上位には、絶対的なタブーとしての「神学」があった。
それで、あのガリレオ・ガリレイは、宗教裁判にかけられて、ローマ教会が彼の名誉を回復したのは、2009年2月15日のことで、死後367年経ってのことだった。
ちなみに、ローマ法王(ベネディクト16世)が、「地動説」を認めたのは、この前年、2008年のことである。
このブログでは、何度も書いているが、現代人に擦り込まれた、「神学=迷信」といった前提における、「神学論争=水掛け論=永久に結論が出ない」という認識が常識になっているのである。
わが国では、「禅問答」と結びついての感覚が含まれるので、やっぱり西洋とのニュアンスが微妙にちがう。
そんな単純で野蛮な西洋だけれども、ここから西洋的合理主義がうまれた。
その代表が、ルネ・デカルトで、『方法序説』(1637年:三代家光の時代)が決定的となったのである。
「われ思う,ゆえにわれあり」
意味は、すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない、ということだと解釈されている。
つまり、デカルトの発想は、個人主義を疑わなかったのだった。
しかし、あろうことかデカルトがいうとおり、「科学が進歩した」ら、とうとう量子力学が誕生して、意識そのものも量子によることがわかってきた。
しかも、その量子は、たえずゆらいでいて、その存在は「確率」でしかないのである。
すなわち、この世のすべては「バーチャル」だという、にわかに信じがたいことが、現代における最先端科学の結論になっている。
もちろん、このデカルトの言葉を論破したのが、カントだった。
カントは、「疑うこと」がリアルで、自分の存在がバーチャルではないか?と指摘したのだ。
しかし、事ここに至って、最先端の量子力学研究者たちは、2500年前の釈迦の哲学に行き着いた。
なかでも、日本で有名な、『般若心経』における、「空」の概念が、量子論的宇宙の構成と合致するという。
理論で予想されたブラックホールが、いまや観測されるまでになって、その内部に吸い込まれた物質の末路が量子にまで分解されるものの、「穴の内側」にある「壁」に、吸い込んだ物質の記録が書き込まれるという理論になっている。
これから、宇宙の壁、という一大記録(アカシックレコード)の存在がいわれ出したのだ。
これには、全宇宙の記録がある、という。
ならば、釈迦の頭脳にどんなことがあったのか?も、いつかはみつけることができるのだろう。
さいきんでは、得体のしれなかった「重力」の大本が、「万有引力の法則」ではなくて、全方向から降り注ぐ量子の打ち消しあった後の重みではないかともかんがえられるようになってきたし、時間も、量子でいえばデジタルのように、超微細に分断されているかもしれないという。
しかも、ふつうは、過去から現在、未来へと一方的に流れるのが「時間」だとしていた(光陰矢のごとし)ものが、未来から流れ出ているのだという話になってきている。
あたかも、われわれは、鮎釣りのごとく川に入って、上流からの水流に逆らっているように、時間をやり過ごしているのだ、と。
なるほど、最先端科学は哲学的なのである。