看板や店舗の前は通ったことはあるけれど、一度も利用したことのない、「BIGMOTOR」がえらいことになっている.
それがまた、損害保険会社の不正疑惑にまで発展して、傷口が拡大しているようである.
また、経営コンサルタントとして当事者に影響力があった企業の浅はかさも話題になっている。
例えば、「環境整備」の有無を言わさぬ強制は、その心を理解させる前に身体で覚えさせることに重点を置きすぎたことで、店舗前の公共の街路樹に除草薬を撒くことを合理化させてしまった。
こうすれば、落ち葉もなくなる、から清掃が楽になるというわけだ。
自動車関連だと、神奈川県に店舗周辺の徹底した清掃で有名になったディーラーがある事例を、ここの経営者も社員も知らなかったのか?
アメリカでは、バイデン一家の息子・娘だけでなくそれぞれ(兄弟・甥・姪)が、個別にいろんな(ほとんどが刑事)事件を起こしているけど、こちらはどういうわけか全員が、「お咎めなし」の特権を享受してきたのが明らかになってきた.
これらを報道しなかったマスコミの責任も問われるけれど、アメリカ人の6割がとっくに、「マスコミ報道を信じない」と回答していて、大口スポンサーの都合でしか記事を書けない状態は、マスコミ各社の自力経営回復を不可能なものにしている自業自得がある.
たとえば、フレデリック・フォーサイスは、2作目の『オデッサ・ファイル』冒頭に、「すべての報道記者諸氏に捧げる」と掲げて、当時の戦後ドイツ人たちを震えさせた。
もう、こうした記者魂は消滅した。
ヨーロッパでは、EU委員長のフォン・デア・ライエンの起訴がいつかと騒がれている。
容疑は二つ、一つはワクチンの大量買付契約が、委員長の独断だったことの越権行為の疑いで、もう一つは、夫の事業への便宜供与が不正契約だとの疑いだ。
こうした一連の、一見関係のない出来事が、世界で同時に次々と発覚してスキャンダル化していることには、正義を欺瞞で誤魔化すという共通が見てとれる。
「流行病(はやりやまい)」といわないと、SNSでバンされることに、日本政府も目をつぶってきた欺瞞を指摘したい。
わが国には、アメリカ連邦法の「通信品位法」にあたるものがないから、なにを根拠にしているのか?となる。
もちろん、直接的には、SNS企業側が利用者に同意させる「利用規約」がそれにあたる。
しかし、この利用規約に法的不備があったならどうするのか?
ここでいう、法的不備とは、言論の自由と誹謗中傷との判断にまつわる法的措置に関する規定である。
アメリカでは、これに「不正確な情報」も含まれるとして、検閲を可能にしている。
詰まるところ、日本版「通信品位法」がないといけないのだ。
しかしこれを政権党も、野党も、作る気がない。
このことを忘れさせられて、なんだかみんなで「慣れて」きている滑稽がある。
だが、ぜんぜん笑えないのは、これが社会的な訓練になるからである。
常識が壊されているのだ。
社会の誰もが、同意することや、拒否すること、あるいは忌み嫌うことの共通が、常識というものだった。
あたらしい発想をするときには、こうした常識が思考の邪魔をすることは多々ある。
なので、「常識を疑え」というのは、あたらしい発想を促すときの常識でもあった。
いま世界で行われているのは、社会を覆う常識全部を壊す努力をしている、という意味で、革命に匹敵する。
つまり、見えない革命が進行中なのである。
しかしながら、革命にはかならず「反動」がつきものだ。
それで、社会の皆が眉をひそめる「非常識」が炙り出されて、糾弾することで、あたかも社会が元通りの安定化しているように見せかける。
けれども、革命はこんな程度では止まらないから、ちょっと進むたびに反動が起きて、を繰り返す。
こうして、いつか気がついて振りかえってみたら、以前とはぜんぜんちがう社会になってしまっているものだ。
たとえば、マスクの着用が、一部のひとにすっかり定着したのも、ほんの数年前からしたらかなり異常なのである。
異常気象かなにかはしらないが、体温を超えるような猛暑の中でも、マスクを外せないひとたちが街を歩いている。
呼吸困難にならないのか心配するが、本人たちの心配は、きっと別のところにあるのだろう。
少なくとも、ウィルス感染症にマスクはなんの効果もないが、もはやそんな科学を気にしない。
ましてや、「マナー」だといわれたら、もうそれは、社会通念としての常識になったとかんがえることになったので、あとは多数派になれば革命は完成する。
子供なら脳の発達が懸念されると、日本小児医会はとっくに警告を発信していて、高齢者予備軍の50代なら、20年後程度後の認知症の発症増加が懸念されてもいる。
それでも、外せないのは、社会からの外圧としかかんがえられない。
そんな将来に認知症の原因が20年前のマスク着用習慣だと、医者はシラッというのである。
どうしてくれる?といっても、覆水盆に返らず、なのだ。
そんなわけで、「正しいこと」と「欺瞞」の区別がつかない時代に突入して、革命の準備が整ったのである。
もしやこのことを、「環境整備」というのか?
そして、革命のための見せしめとして、いくつか犠牲になる家族とか企業が、「憎悪」の対象になって、さらなる革命が進行するばかりとなったのである。
その証左が、経団連会長も胸から外せない、「SDGsバッジ」が示す、誰かが決めた「正しいこと」の推進なのである。