東京都を損害賠償で訴えてから、もうすぐ2ヶ月になる。
果たして、原告は勝てるのか?
ところで、この裁判、ロックオンされたのはなにも「東京都(知事)」だけとは限らない。
周到な「仕掛け」がこめられているのである。
このことをしるには、本件で2月1日衆議院内閣委員会で足立康史議員の質問に立った近藤正春内閣法制局長官の「カミソリ」のような、キレのある答弁である。
これを、倉山満氏と弁護士の横山賢司氏が指摘、解説している。
要は、「新型コロナ特措法案」にある、「過料などの強硬措置」に対して、「国家賠償」を問われ、「敗訴」することはないのか?という、たいへん「よい質問」への、これまた「よくできた答弁」なのである。
その全文は以下のとおり。
「過料を科するということで、特に今回、わたしの方からお願いしましたのは、これまでの措置の、都道府県知事が行われる前に、特に専門家の方の意見を再度聞くようにということを法律で義務づけていただきまして、より科学的知見で、不用意に広がらないように、本当に疫学的な見地からここはどうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただくというところで、より過料との見合いで、厳重、慎重な発令というものをお願いするように今回の条文ではなっております」
本題にはいる前に指摘しておきたいのは、これが、「わが国法治だ」というおそろしい「現実」のことである。
つまり、「内閣法制局」という、法律製造所がある、ということの「問題」である。
それが、「わたしの方からお願いしました」、つまり「加筆した」ことなのだ。
国会が「唯一」の「立法府」なのだから、国会が法律製造所でなければならないのに、本当は、内閣法制局にその機能を奪われているというのが現実なのである。
しかも、ここは、各役所から出向した「官僚の巣窟」なのである。
現・長官職の近藤正春氏も、元は「通産官僚」(昭和53年入省)であった。
だから、この「質疑」がおかしいのは、質問者の足立議員も、元通産官僚(平成2年入省)だから、後輩が先輩に質問して、先輩が後輩を諭すような答弁をした、という、まことに「内輪話」ともとれるところが滑稽でもあることだ。
さらに、コロナ担当大臣の西村康稔氏も、元通産官僚(昭和60年入省)だということを覚えておきたい。
じつは、「防疫」担当の厚労省の影がうすく、なんだかコロナ対策が経済政策になることの原因がここにあるのだ。
本題に戻る。
近藤長官がかんがえて構築した本法の、「コンセプト」は、倉山・横山両人が指摘しているように、「4つの基準」をもって「過料」の正統性を確保する建て付けになっている。
1.専門家の意見を再度聞く
2.科学的知見、疫学的な見地
3.必要最小限(どうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただく)
4.量刑比例の原則(より、過料との見合いで、厳重、慎重な発令)
そして、重要なのは、この4つをすべて充たさないといけない、ということだ。
もし、ひとつでも欠けると、「違憲」もしくは「違法」となる、と「説明した」のである。
さて、国会が立法府である、ということに戻ると、「国会答弁」自体が「法解釈」となることにも注目したい。
つまり、議員からの質問に、国会で答えた内閣法制局長官の言質とは、べつに内閣法制局長官でなくとも「法解釈」として「正式」なものとなるのだ。
これが、「2月1日」であった。
グローバルダイニング社が訴えたのが、「措置命令書」が発出(3月18日)されたあとの「3月22日」なのである。
ここに、原告弁護団の「用意周到」を感じるのはわたしだけではあるまい。
権力の行使にだけ邁進する、東京都の「脇の甘さ」もあるけれど、原告がロックオンしているのは、東京都の担当部署の役人ではなく、「都知事」そのひとにある。
また、内閣法制局が「可」とした法律である、とした「形式上」の正統性「しか」いわない、西村大臣もロックオンしている。
彼の脳内は、官僚のままであって、国会議員・政治家脳に進化していない。
もし、このひとに議員・政治家としての「読解力」があれば、法制局長官というよりも、通産省の大先輩が諭してくれたことの意味を重く受けとめるはずだからだ。
都知事とおなじく、権力行使に陶酔しているから気づかないのだろう。
そんなわけで、内閣法制局がからむ「行政訴訟」における、裁判所の「忌避行動」(原告が負ける)は、今回、いつもとはちがうことになる可能性がある。
いつもなら、地裁勝訴 ⇒ 高裁逆転敗訴(被告勝訴) ⇒ 最高裁棄却(高裁確定)なんだけど。
つまり、かなわないと裁判官が内心おもう、内閣法制局の論理が、その長によって「解説され」て、大ヒントになっているのである。
しかも、原告弁護団は、かならず「4つの基準」を突いてくるはずだ。
なにしろ、専門家の代表が「エビデンスはない」と、公共放送で公言してしまったのだから。
業界人は、よくよくこの「論理」を研究すべきである。
目が離せない裁判なのである。