公表されて特に報道されている情報のことを、「一般情報」という。
なので、毎日の新聞やニュース番組で扱われた、すべての情報は、「一般情報」である。
いまでは、公的文書もそれぞれの役所が、HPにPDFファイルを貼りつけて公表しているので、当然ながら一般情報になっている。
しかし、各役所の一存で、これらの閲覧期間が切れてしまうと、どこにいったかを調べるのが大変で、むかしのものほど隠れてしまうのである。
なので、国会図書館とか国立公文書館の機能強化は重要で、地方なら県立やらの自治体図書館の重要性は、この意味で増大しているけれど、あまり議論されているとはいえない。
なにしろ、一般人が一般情報を全部記憶することは不可能だからだ。
それで、自分でダウンロードするなりの、「デジタル・タトゥー」(「魚拓」ともいう)を録っておくのひと手間が必要になってきている。
もちろん、新聞ならそのまま保存する方法もあるが、「検索できない」ために、ただの「古新聞」になって、廃品回収の対象になる。
それゆえに、情報の専門家たちは、自身の専門分野に該当する記事を、後からも検索できるような工夫をして保存する。
こうして作り上げれば、ただの情報の山だったものを、「データベース化」することができる。
この手法を、知の巨人、梅棹忠夫が、『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)に書いてくれている。
パソコンが存在していなかった時代なので、「情報カード」を活用した手法だけれども、この「情報カード」だって、商品名には、「京大式」とあった。
つまり、「梅棹式」のことである。
梅棹先生が、自分用に大量に印刷注文したものを、許可を受けて商品化した、というのが順番である。
それで、このカードを整理するための「箱」も、商品化されたのである。
パソコンが個人でも購入できるようになったのは、NECが1981年に発売した、「PCー8800シリーズ」が始まりで、その後の84年に出た、「PC-9800シリーズ」は、わが国を代表する名機になったことに異論はないだろう。
当初、「BASIC」で動かす必要のために、ふつうのサラリーマンが業務上の要請から、このプログラミング言語を学ばないといけなかった。
それで、パソコンを諦めたひとたちが続出したのである。
そんな、おとなを横目に、悪ガキたちはサッサとマスターしていたのである。
これを救ったのが、「MS-DOS」を世界標準にした、マイクロソフトの「Windows」だったけど、その前に世に出たりんごのマークの、「Macintosh」の使いやすさに、世界が驚愕したのである。
初期のMacから搭載可能だったアプリの、「カード型データベース」は、これを使いたくてMacを購入するほどの「検索機能」がすごかったのである。
しかし、あの可愛い墓石型のMacでさえ、当時は100万円越えの高嶺の花だった。
とはいえ、データベースを構築するには、とにかくデータを入力しないといけない当たり前がどういうわけか軽視されて、そもそも何が知りたくてデータベースを構築するのか?という根本が曖昧だったから、パソコンなんて使い物にならない、という評価まであったのである。
まったく日本的になって、「ワープロ専用機」なる単機能パソコンがよく売れたし、パソコンへの恨み節として、「ソフト(ウエア)がなければ。唯の箱」と揶揄したフレーズが、ときのおじ様たちの溜飲を下げたのだった。
いまでは、検索エンジンに出てくる最初のページが検索結果だということになっている。
ために、お金を払ってページのはじめに自社HPが掲載されるようにして、販売機会を買っているので、ことによるとユーザー画面の最初のページは、「広告」だらけになって、結局、次ページ以降を見ないといけなくなった。
つまり、何を知りたいのか?が曖昧なままで検索すれば、むかしならエラーになったものでも、何かが引っ掛かるので、それを鵜呑みにすると、ゴミ情報が脳に書き込まれる時代になったのである。
その新機軸がときたま嘘をつく、チャットGPTのなのである。
そんなわけで、あふれかえる一般情報に、われわれは溺れそうな状態(とっくに溺死しているかも)で生きているのである。
しかも、検索エンジンを提供している企業が、その企業の都合ばかりか、その企業経営者の思想選考によって、一般情報もオープンではなくなっている。
英語で検索すると出てくる情報が、日本語だとヒットしない、というのは、英語でも全部がオープンではないのだから、日本語しか使えない多くの日本人は、知らないうちに恐ろしく狭い情報空間に押し込められているのである。
もちろん日本政府だって、こんな不利な状況を知っているだろうに、何も無かったことにして実質放置して、その情報統制を容認しているのである。
政府や政権与党ばかりか野党にも、都合がいいからだ。
誰でも知っているはずの一般情報がこの有様なので、専門家がしたり顔で流す情報も、あたかもその専門家の独自見解かと思いきや、やっぱり一般情報なのである。
しかも、そのネタ情報の選定と解説が、特定の思想や方面の要請に基づいているとしたら、もはや一般情報ともいえず、ただのプロパガンダになる。
この意味で、残念ながら一般情報でさえも、個々人が自分で選定しないといけなくなったし、データベース化もしないといけない面倒なことになっている。
そして、この面倒をかけないで安穏としていれば、たちまちのうちに、情報弱者として、「迷える子羊」にされてしまうのである。
それだけでなく、屠殺場にきちんと並んで待つことが美徳にもされるのを、さも自分たちは他国人より「民度が高い」と自慢してしまう究極の自虐が流行っているのである。