儲けてはいけない

「民業圧迫」というキーワードで,アマゾン書籍検索すると,クリーン・ヒットしない.

そこで,150万冊という蔵書を誇る,横浜市立図書館で検索したら,4冊がヒットしたものの,「民業圧迫」というタイトルの本はみつからなかった.
このタイトルは,タブーなのだろうか?

では、「官業」とはなにか?

むかし学校で習ったのは,「三公社五現業」だった.
三公社は,専売公社(たばこ,塩),国鉄,電電公社である.
五現業は,郵政(郵便,郵便貯金,郵便為替,簡易保険など),印刷(紙幣,国債,印紙,切手など),造幣(硬貨),国有林,アルコール専売である.

これらのなかで国有林以外は,とりあえず「民営化」された.

しかし,「郵政関連」あるいは「付帯」として,NHKがあったり、道路公団とか国民生活金融公庫などがあるから,構造は複雑である.

こうした、「構造」は、複雑になった、のではなくて、複雑にしたからなった、のである。

それが、萩藩の撫育資金を真似て伊藤博文が明治政府に移植した、「特別会計」であった。

これらは、『パーキンソンの法則』によって、かならず肥大化する。

よって、会計検査院をして、とっくに全体像は把握困難だとサジを投げている。

それなりの正義感で、「道路公団」に立ち向かった、当時作家の猪瀬直樹氏も、株式会社への出資という名目をつかって「ファミリー」を形成する手法に、サジを投げた。
以来、猪瀬氏はサジを投げることを得意にして、政治家(元都知事、現参議院議員 日本維新の会 参議院幹事長)になった。

えらく中途半端な、道路公団の改革は、なんだか国鉄分割民営化の憂き目を見るようでもある。

日本経済がイケイケ・どんどんだった、高度成長期、「民業圧迫」といえば、銀行と郵政(郵便貯金)の大喧嘩があったことを思い出す。

郵便貯金は、集めたカネが、「財政投融資」となって、「特別会計」の事業に回る。

民間銀行は、預金で集めたカネを「融資」として民間に貸し出して、その金利をもって商売としているから、民間企業と似たような事業を国や地方がやると、「民業圧迫」になるのである。
だから、銀行業を直接邪魔するという意味と、貸出先が民業を圧迫するという意味の二重苦があった。

当時の財界は、商売のあり方を理解している明治人が仕切っていたから、ちゃんと政府に釘をさしていたけれど、何度もいうがいまは乞食組合になっている。

しかし、ここで最も重要なことは、銀行の貸し出し機能について回る、「信用創造」を忘れてはならないことである。

この「信用創造」こそが、経済規模拡大の源泉なのである。

それは、企業に貸し出す資金の額(量)を、民間銀行だけが、「相手先の信用」を元に決めて、相手先が事業に成功すれば、その企業の預金口座だけでなく、従業員の口座にも「預金が増える」ことで、さらなる貸し出しを通じて、これがグルグル回ることをいう。

平成バブル崩壊以来30余年、わが国経済の衰退がとまらない原因のひとつは、日銀がどんなに「金融緩和」しても、この「信用創造」の機能が生まれないことにある。

金融庁が、「不動産担保」をとらない融資を認めないからだ。

つまり、不動産(土地)こそが全ての価値の源泉だという、バブルの原因とも成った「信仰」を、政府が捨てないばかりか、より強化しているのである。

ベンチャーを起業する若者が、どうして土地を担保に差し出せるのか?

これが、各種補助金に群がる状況(国民総乞食化)をつくっていて、どんな補助金事業があるかの情報を、中小企業庁が、中小企業診断士に「だけ」コッソリ教えて、中小企業診断士の「士業」が成り立つようにしている。

こうした、構造は、完全に「計画的」だと思わざるをえない。

それでもって、役所がやる「事業」は、民業圧迫してはならないのが、いつの間にか、「儲からないこと」を条件に、なんでもできるようになってきた。

つまり、わが国は、信用創造ではなくて、「信用収縮」を一生懸命やっている。
なんだかみんなでたくさん「頑張っている」のに、ぜんぜん豊かにならないことの原因なのである。

けれども、貧乏こそが共産革命への近道だから、共産革命をやりたい、自公政権はこれをやめる気配もないし、国民には補助金さえ配れば選挙に勝てるようになっている。

投票率とは、棄権率の裏返しだ。
いまや、全有権者の2割もない得票で、国会の絶対安定多数がとれるのは、国民の政治不信こそが政権維持の原動力になっているからである。

だから、政治不信を助長するトンチンカンな政治家(たとえば、神奈川県の恥シリーズ:河野、小泉、菅、甘利など)を大臣とかにして、その強圧的でトンチンカンな発言をさせればさせるほど、なんと選挙で自民党は圧倒的な議席が確保できるようになった。

「デマ太郎」が、次期総理候補の筆頭になるのは、国民目線からでなく、既得権にしがみつく議員たちがしっている上記構造を、さらに強化してくれる人物だからである。

河野太郎とは、国民を政治不信にさせて、バカバカしいと選挙に棄権させるために存在する、稀有な存在なのだ。

それだから、まともな政治家の見分け方が、アメリカでもトランプ氏がそうであるように、「自分に投票しなくていいから、選挙にだけは行きましょう」という、ほとんど選挙管理委員会の代弁をいうひとになったけど、そんな候補者すらめったに観ないのは、安定的な棄権率の高さこそが既存政党の議席確保につながるからである。

こんな構造に乗っているのが、既存野党のほぼぜんぶもおなじだから、経済政策で自公に対抗する気は毛頭なく、別件での文句たらたらでお茶を濁すしかなくなった。

まったくもって、中国化しているのである。

中国には、中国共産党以外の政党はない、というのはウソである。
けっこうな数の政党が、ちゃんと当局も認可して存在しているし、一応全人代とかに議員も出している。
しかし、ぜんぶが、与党を形成する政党なのだ。

これは、わが国の実態とおなじだ。

そんなわけで、流行語になった、「公金チューチュー」は、なるべくして出てきたともいえる。

どうやって、公金をおいしく吸い取れるか?という命題は、明治新政府から内包している「構造」そのものなのである。

江戸時代には、「お目こぼし」があったけど、明治以降はヨーロッパ人の堕落を「文明」と勘違いさせて、高級官僚が国家財産と私有財産の区別をなくした。
伊藤博文やら、軍人だった山縣有朋が、なぜに大邸宅を何カ所も構えたのか?の疑問も、あんがいと簡単に理解できる。

それが、時代を下って、いま、一般人がはじめてこれを恥としないのは、GHQの骨抜き政策が、じんわりと、しかし確実に効いているからである。

これを、「亡国」というのである。

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