古典「ホーソン実験」をしらない罪

「ホーソン実験」について、少し触れたので、改めて書いてみようとおもう。

もう100年前の1924年から32年にかけて、アメリカのウエスタンエレクトリック社の「ホーソン工場」で、行われた、「生産性向上」に関する実験のことをいう。
1929年の「大恐慌」発生時期をまたいでいることに注目したい。

なお、念のため、「生産性」とは、「産出(output)÷ 投入(input)」の式で表せるもので、何となく文学的なものではない。
また、一口に、「生産性」といったら、ふつうそれは、「付加価値生産性」あるいは、「労働生産性」の略語である。

一般に、「経済活動」とは、付加価値を増やすことができなくては成立しない。
付加価値には、利益も、人件費も含まれるからだ。
それで、「付加価値÷労働者数」が労働生産性になって、「付加価値÷総労働時間」を、人時生産性というのである。

だから、自社の付加価値を増やすことの意味がわかっている経営者は、人件費を減らして利益を増やしたようにみせても、付加価値「自体」はなにも変わらないことをしっている。

むしろ、従業員の生活を含めて、いかに人件費を増額できるか?をかんがえるものだ。

それがまた、少子化時代の企業経営にとって、採用確保や中途退社防止に有利となるひとつの条件だと心得ていることの証となって、学生や従業員から選ばれる企業になる、という意味に直結する。

人件費をとにかく減らしたいとかんがえる企業経営のもとに、自らすすんで就業したいとかんがえる者がいかほどいるかを思えば、話は簡単なのである。

ところが、こんな簡単な話に、偏差値エリートの経営者達が気がつかない。

どこか、あるいは、権威あるひとが書いた本でも読んで、それを丸暗記しただけにちがいない。
または、学生時代に成績でかなわなかった同輩が、高級官僚にでもなっていて、同窓会かなんかのおりに、人件費が高いとぼやいたら「下げる努力がたりない」とでもいわれたのを鵜呑みにしたのか?

役人という生き物には、はなから「付加価値生産性」という概念がない。

だから、民間の指定管理者に公共施設の管理をまかせても、役人側に「コストパフォーマンス」の概念がないので、なにがなんだかわからなくなるのだと書いた。

その結果、指定管理者がくる前の業務をやっていた役人が、クビにはできないから配置転換するだけで、役所内の「人余り」をつくり、民間の「人手不足」になるのであった。

ホーソン実験をやった歴史背景に、当時のアメリカは慢性的な「人手不足」であったことがある。

それに、民主主義が広がって、ひとびとの「権利意識」も拡大し、さまざまな「権利の法制化」があったし、もうこの時期から、「資本と経営の分離」が盛んで、株主と労働者の保護が求められていたのである。

この実験で、「経済人」という概念が否定されて、「人間は感情ある動物だ」という当たり前が確認され、それが「新しい労務管理の手法」となったのである。

逆に、まだ100年前のわが国は、農村からの労働力供給に余裕があったので、慢性的「人余り」であったから、労務管理については、「温情主義」を前提とした、「封建的家長が仕切る家族主義」が企業には根深かった。

欧米の価値観をそのまま鵜呑みにすれば、「新しい労務管理の手法」へと移行したアメリカの「先進性」にため息がでるけれど、「温情主義」を真っ向否定できるのか?という問題がある。

それよりも、かんがえるべきは、この上に乗っていた、「封建的家長が仕切る家族主義」が、それなりに厄介であることだ。
家長たる経営者が優秀だと、とくだん問題ないが、そのひとの後継者が凡庸だと問題になるのは、「絶対王政」や「独裁(たいていが「一代限り)」のように不安定だということである。

あたかも、『銭の花』における、大阪商人の権化、「糸商の旦さん」のごとく。
そして、作家は、「大阪商人の唯一の武器である信用という暖簾への尊重が、死してもなお、残っている」と書いた。

「死してもなお」を残すために、加代は、後継者たる義娘、志津江に子供時分から女将教育し、中高生となったら社会常識へと切り替えて幅をもたせ、とうとう、ハワイのリゾートホテルへ研修に出すのである。

ちなみに、作家は、リゾートの温泉旅館・観光ホテルと、街中の旅館・ビジネスホテルをちゃんと「需要:利用目的」で区別した記述をして、しっかり読者を教育している。

これが、大阪商人をよくしる作家が表現した、個人経営としての理想といえるのである。
とはいえ、「暖簾」に象徴されるのは、「ブランド」であると解すれば、規模の大小を問わない。

しかして、ホーソン実験は?となれば、そんなものは、わが国の伝統社会では当たり前のことだった。
人間を使うことが競争だった、戦国大名で、天下取りを争うような人物たちは、経験値から人間の本性とは感情なのだということをしっていたし、そうでなければ「下剋上」されてしまうのである。

しかも、戦が絶えない時代に、次の戦で命を落とす可能性は、戦国武士にとっては常識の日常だった。

ゆえに、あのひとのためなら死んでもいい、という感情の高ぶりなくして、戦国大名はやってられない。
もしも、ホーソン実験をしらない日本人経営者がいたら、それは、歴史をしらない人物という評価になるのである。

組織のトップたる経営者が歴史をしらない人物だというなら、それは「罪」である。
いま、日本企業の悲惨は、株主(過半が外国資本)も歴史をしらない人物たちになっているからだ。

残念ながら、一般人の個人株主ではなくて、機関投資家やらの大株主のことである。
多数を占める株式による企業の意思決定に関与して、なにを経営者にさせたいのか?

将来価値の増大ではなくて、支配を楽しむのは、根深く深刻な「罪」なのである。

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