怪しい「偉人伝」

小学校の図書室とか、地区の「青少年センター」にあった図書室に、高学年になったら入り浸っていた。

くわしいきっかけをもう思い出せないけれど、かすかに、4年生ぐらいで「図書委員」になったからではなかったかとおもっている。
ちょうど、図書室の移動があって、古い本にマジックで「廃棄」と書きまくらされて、漢字の書き取り練習をしている気分になったのは覚えている。

ボロボロな本ばかりだったけど、ちゃんとページがつながっているものは、先生に断って何冊かクラスに持ち帰ったのだった。
それが、同級生たちに受けて、わがクラスではいっとき読書ブームになったのである。

最大の人気は、「シャーロック・ホームズ」と「ルパン」で、わたしはルパン派だった。
次が「冒険もの」で、なんだかタイトルが変な、『コンチキ号漂流記』は、いまだに記憶がある。

それから「少年少女世界文学」というシリーズがあって、また、世界と日本の「偉人伝」があった。

発達がはやい女子たちは、世界文学とかが好みという傾向があって、子供のままでいる男子の好みとはちがっていた。

前にも書いたが、同時期よりやや前に放送されていた、『魔法使いサリー』(原作:横山光輝、放送:1966年12月~68年12月、キー放送局:NET)では、主人公の女の子たちが本を片手にして、樋口一葉の『たけくらべ』の世界に憧れている話があった。

半世紀以上たったいまでも、こうした番組を記憶しているから、「子供向け番組」を侮ってはならないし、その「上質さ」が問われるのである。
もっといえば、その国の民度は、「子供向け番組」を観ればわかるというものだ。

やっぱり、「子供はおとなの鏡」なのである。

それゆえに、当時は、「文部省推薦」の子供向け映画は、春休みや夏休みの定番だったし、学校でも体育館で鑑賞会があった。
夏休みには、町内会(名目は「子供会」)が主宰して、近所の公園で盆踊り以外に「青空映画会」もやっていて、夏の夜の楽しみとして、おとなも一緒に観ていたものだ。

もちろん、椅子なぞ用意されているはずもなく、各自、新聞紙を持参して地面に座りこんで観ていたし、終了時間が9時を回ることにだれも危険だとおもっていなかった。
それに、盆踊りと同様に、子供には「粉ジュース」を溶かした冷たい飲み物が無料で振る舞われたから、それもまた楽しみのひとつだったのである。

よくよくかんがえたら、町内の商店街からの差し入れだったのだろう。
婦人会のおばさんたちが、どこそこの子だよといいながら配ってくれたのも、しらない顔のチェックをしていたのだろう。
なんだかんだといって、町内に一体感がまだあった時代であった。

それで、「偉人伝」という分野は、先生が推奨していたけれど、あんがいと先生の好みがあったように思えた。

三重苦のヘレン・ケラーの話は、女子に人気だったけど、発達の遅いわたしには、「白衣の天使」ナイチンゲールと一緒くたになっていた。

そのナイチンゲールが、じつは英国政界のフィクサーでもあったことに、おとなになってしったときは、とにかく驚いたけど、従軍したクリミア戦争(1853年~1856年)で、英国軍将軍の「兵は消耗品」という発想に反発して、なんとロンドンの父君からの圧力で解任させている。

なお、クリミア戦争の原因は、聖地エルサレムの管理をめぐる問題であった。
戦争に敗北したロシアの主張は、英仏の強引さに対する反応としては、理解できるものだった。
ナポレオン3世が、トルコから管理権を奪ったことに原因があって、戦場がクリミアになったのだった。

とはいえ、クリミアはロシア領のままで、革命時には「白軍」がここに陣を築いて「赤軍」と戦ったのであった。
いまウクライナが主張する、「クリミア奪還」を欧米が支援することのウソは、なかなかに戦争継続だけが理由(=武器消費)の悪質なのである。

さて、彼女の本来の「顔」は、統計学者だったことだ。
1859年には、王立統計協会(the Royal Statistical Society)の初めての女性会員に選ばれていて、米国統計学会の名誉会員にもなっている。

つまり、医療に統計を応用したひとで、「ただの看護婦」ではなかったのだった。

こうした伝記で、子供向けではない専門作家は、シュテファン・ツヴァイクにちがいない。
ただし、観てきたようなウソを書いていることもあるから、ツヴァイクの作品「だけ」で、人物評価をするとあぶないのは、子供向けと似ている。

その子供向けでも、戦後日本人が書いた、特に欧米人を扱った「偉人伝」は、おおかたGHQの意向を受けた、ねじ曲げがあって、プロパガンダに相応するから、注意がいる。

たとえば、その典型は、チャーチルだ。

もしもチャーチルが「偉人」なら、敗戦ギリギリまで追いつめられた戦争を勝利に導いたはずの、大宰相なのに、どうしてドイツ降伏後すぐに、英国民はこの人物をすてたのか?の説明がつかない。
その原因は、この人物こそ、アメリカのルーズベルトと組んで、戦争を欲した、「戦争屋」だったからである。

日本人には、「日英同盟」が善だったという刷りこみもあるし、エリザベス女王への好意もあるけど、いちど疑って調べたら、どんどんプロパガンダ(ウソとボロ)がみえてくるのである。

大英帝国が日英同盟を結んだのは、大英帝国のアジア支配に有利とみたからで、この同盟を廃棄したのは、日本が「人種差別撤廃条約」を国連(当時の国際連盟で、日本は常任理事国だった)に提案したことが原因だ。

いまさらだけど、反日の権化たるチャーチルを、日本人が「偉人」だとする理由はどこにもないのである。

偉人伝を子供に読ませるには、おとなの注意がいるのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください