株式の所有権改革で資本主義を矯正する

タイトルでは、あたかも「資本主義」が存在しているかのような誤解を読者に与えてしまうかもしれない。

こと「資本主義」に関していえば、わたしは何度か書いたように、アイン・ランドの論に与している。
彼女は、「資本主義は未来のシステムだ」と呼んだ。
つまり、人類社会はいまだに資本主義を経験していない、と。

自由主義の碩学、ハイエクは、「マルクスが『資本主義』なる用語を考案した」と書いた通り、マルクスが多用する弁証法ではなくて、ゴールである「ありき」の共産主義からの演繹として、ありもしない空想の資本主義が通過点だと勝手にきめて、あたかも現実に存在しているとした。

人類の長い生活から、原始社会でも経済活動があって、物々交換からはじまったとされている。
それから、「貨幣」が発明された。
しかし、貨幣経済はなかなか発展せずに、金銀財宝の所有量が富の蓄積の象徴だったのである。

そんななかで、金細工職人が顧客から加工依頼で預かった現物の金を仲間内で使い回しして、とうとうその証拠書類が取引の対象になると、「銀行業」になったのである。

けれども、顧客から預かった現物の金を、じっさいに細工するにはいま預かっている別の金細工を完成させないと着手できないことのタイムラグをもって、仲間の細工師に自分が預かった現物をとりあえず横流しするという「不道徳」が、バレなければいいということでの「証券化」となったから、銀行業にははじめからインチキが埋めこまれている。

ところが、この不道徳が、金という貴重品の眠った状態からの解放となって、その証拠書類が「証券」となると、存在しない金でも、あたかもあったことにすれば、その間の時間に富が増えた。
これが図らずも、信用取引となって、貨幣にあてはめれば「信用創造」の大発明となったのだった。

よくみれば、「偶然」のできごとで、最初から「信用創造を意図した」者はだれもいない。
それだから、ひとびとの発想のどこにも「資本主義」にあたるものもない。
あるのは、ただ儲けたい、という欲望だけなのである。

だから、いま「強欲資本主義」と呼ぶことも、恣意的で正しくなく、ただ「強欲」だといえば済む。
なのに、資本主義をつけて、あたかも資本主義が悪いもののように扱うのは、マルクスの意図通りなのである。

さてそれで、事業をはじめるときの「元手」のことを、「資本」と呼んだことから、なんだか「資本主義」になったという勘違いがある。
だったら、貨幣経済ができた時代にいた商売人は、資本主義社会にいたのか?となるからである。

中世のヨーロッパや、アラビアン・ナイトのような中東世界の大富豪、あるいは中国の歴史や日本にも存在した大豪商だって、資本主義になる。

これといまの資本主義の区別をちゃんといわないで、なんだかよくわからない「産業革命」をもって、資本主義の勃興といっている。
順番は、資本主義が発生したから産業革命が起きた、とならないといけないはずが、そうなっていない。

つまり、蒸気機関ができたことと、資本主義の発生が一緒くたになっているのである。

すると、人間の主義としての資本主義はどこにもない幻で、あるのは、蒸気機関の工場と株式会社と銀行だった、というだけになる。
「主義」というなら、人間の思想としてなにか中世時代から、あたらしいかんがえ方が生まれたのか?を問えば、それは「堕落の一途」ではないのか?

工場労働者の誕生によって、労働者階級が生まれたのは確かである。
彼らを管理するための、ホワイトカラーもできた。
そして、どちらも「給料取り」になったのである。

しかし、工作機械がまだ細かいことを自動化できない初期には、工場労働者にも「熟練工」と「(不)非熟練工」とに分かれて、熟練工が工場や会社を選んでいた。
気に入らない職場環境があれば、サッサと別の会社や工場に転職を繰り返した。

会社や工場には痛手となるために、ホワイトカラーによる管理手法が開発された。
それでもって、工作機械がだんだんと自動化できるようになると、我が儘な熟練工を必要としなくなったのである。

その一大変化の変わり目を、吉永小百合が主演した『キューポラのある街』(日活、1962年)だった。

しかしながら、ずっと前に生まれた「労働者」が、ホワイトカラーの「サラリーマン」と一緒になって、「大衆」となったのである。

それゆえに、この「大衆」をいかにして支配するのか?の方便としても、民主主義が採用された。
かならず、ポピュリズム(大衆迎合政治)に変換するからである。

ポピュリズムをよしとするのは、大衆ではないのは、ポピュリズムで大衆が幸福にはならないからだ。

では誰が幸福になるのか?

それは、大衆の「群集心理」を利用することができる、少数の者共である。
しかし、愚民化された大衆は、ポピュリズムが「群集心理」としてあがなえないものとなって、とうとう自分たちを支配することに気づかない。

 

このように、大衆の大衆による大衆支配の構図の外に、大衆の習性を熟知して利用する少数がいる。

これこそが、グローバル全体主義者たちなのである。

そして、彼らが支配しているのは、巨万の富であって、「通貨(おカネ)」を仕組み上で支配しているために、あたかも何びとも抵抗できないかのようにみえるのである。

何をするのにも、ここまで「選挙」が重要な時代になったのは初めてだ。

欺瞞の民主主義を一新させないといけないし、この半世紀以上にわたる彼らが仕込んだ「仕組み」を変えないと、窒息させられる時代になったのである。

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