わざと?間違いに気づかないふり

10日、「シリコンバレー銀行」(資産規模で全米16位)の破綻から、すぐさまの12日、「シグネチャー銀行」(同全米26位)の破綻が続いて、浮き足立っているひとたちがいる。
それで、ヨーロッパに飛んで、「クレディスイス」が危ないといいだした。

もちろん、クレディスイスは、ずいぶん前から「危ない銀行」で、わが国の支店でも、数々の不祥事を起こしているから、その悪辣さは本社仕込みなのだ。
とにかくいろんな不祥事がある銀行で、今年になって株価が31%も下落した(いまやたったの2スイスフラン)けど、預金も急速に失っていて、スポンサーのサウジ政府系ファンドも追い銭はしないと言い出した。

そのサウジは、アメリカと冷たい関係にあるし、アメリカ・バイデン政権が即決めした、シリコンバレー銀行の預金者救済は、民主党支持者たちだからという、おぞましい理由がある。

こんな状況をもって、国際金融危機というならそれはそれで、「自由」だけれども、それぞれの残念がたまたま時期を同じくしているとかんがえた方がいい。

ただし、そもそも「銀行とはなにか?」をかんがえたら、その「インチキさ」は、誕生の歴史にさかのぼって、あんがいとこれを学校で教えない。
科目にしたら、小学校なら「社会」になるけど、中学なら「歴史」なのか?「公民」なのか?が悩ましい。

大学だったら、「経済史」になるのだろうけど、理系・文系の境なく全員の必修とはならないだろうから、やっぱり教わらないといえるし、銀行の歴史だけを「経済史」ではやらないから、教授次第になるのである。

それに、「経済学史」ともなれば、また別物だ。

そんなわけで、社会生活をするときに、誰でもぜったいにお世話になる銀行が、どんなものかをしらないで、新社会人になったら、会社のメインバンクの「口座開設」をさせられて、それが一生のおつき合いになるのだ。

個人の給与振り込み口座は、ほとんどそのまま、公共料金の引き落とし口座になって、多くの勤め人にとっての巨大な取り引きとなれば、たいがいが「住宅ローン」ということになっている。
だから、銀行取引といっても、個人のレベルだと、「お財布代わり」になるのは、入金元が給与とボーナスしかなくて、あとは支払いばかりとなるからだ。

あくまで「勤め人として生きる」なら、銀行のそもそもなんかどうでもいいとなってしまう。

しかし、近代の経済構造は、銀行なくして存在も発展もできないようになっている。
なぜならば、企業社会では、資金調達に銀行は不可欠だし、銀行だけが貸し出し行為で創出する、「信用創造」の大本だからである。

ここで、ちょっと待った!企業の資本調達なら、「株式発行」という手があるではないか、というひとがいるのは当然で、おそらくそれが、「資本主義」と結びついた発想なのは理解できる。
ただ、資本主義とはなにか?とか、資本主義の成立経緯とかになると、じつはよくわかっていないという、驚くべき現実がある。

いま、信じられている、「資本主義の定義」とは、マルクスが書いたものなのだ。

つまり、われわれは、結局、孫悟空が釈迦如来の手のひらの上にだけいたように、マルクス理論の上にある資本主義を信じているという孫悟空のような状態なのである。

それはさておき、銀行とは、ヨーロッパ発祥のものだった。

そもそもは、「金細工職人」がはじめた、「顧客が持ち込んだ細工の材料としての金などの金属の預かり証の発行」だったのである。
それで、顧客は「装飾品の作成を依頼」した。

職人は、預かった金の重さを顧客に確認させて、加工手間賃をとったのである。

けれども、このやり方が普及すると、職人同士で預かり証のやり取りをして仕事を融通するようになり、さらにそれが普及すると、預かり証そのものに金と同様の価値ができた。
いつでも、そこに記載されている金の現物と交換できたからである。

すると、資産をもつ依頼者の王侯貴族たちは、重い金属を持ち運ぶことの面倒と、保管の危険に気づく。

なので、預かり証そのものを保有することになった。
そこで、金細工職人たちは、細工をする仕事よりも、預かり証を発行することでの「利益」が莫大になることに気づいた。

簡単にいえば、預かっていないけど、預かったことにした。
つまり、インチキである。

しかし、どうしたことか、王侯貴族たちは、このインチキに気づかないで、自分がもっている預かり証に書いてある分量の金が、発行者の金細工職人のもとにある現物とが、つねに一致していると信じたのだ。

それでこれを、「信用創造」というのである。

だから、現代の銀行も、預金者から預かっただけの「額」のおカネを、そのまま横に流して他人に融資しているのではなくて、ざっと預金の50倍~200倍を貸し出している。
これを逆から表現して、だいたい2%~0.05%の間をもって、「預金準備率」というのである。

つまり、銀行にはあるはずのおカネはない。

それで、中央銀行が「あるはず」として、システム全体の信用を保持しているのだ。
これがゆえに、いったん「取付け騒ぎ」となれば、どんな銀行も経営破綻するから、危なくなったら中央銀行が資金介入するようになっている。

それでも銀行が破綻するのは、貸したおカネの使い途がメチャクチャで、ぜんぜん社会に利益をもたらさないときに、借り手が利息も払えなくなるからである。
この視点から、シリコンバレー銀行とかを眺めれば、おそろしく限定された、経営の失敗だけの「危機」なのである。

そんなわけで、誰にどんな目的でおカネを貸し出すのか?という「審査」が、銀行のなかでもっとも重要な業務になるし、社会も経済発展する。

すると今度は、わが国経済の衰退とは?をかんがえれば、誰にどんな目的でおカネを貸し出すのか?が機能していないことにこそ原因があって、異次元の金融緩和とか、政府予算のバラマキが効果あるというのは、「欺し」でしかない。

しかして、銀行システムとは、そもそもがインチキからはじまっているのであるけれど、そのインチキから出た、あたかもひょうたんから駒のごとき仕組みが、経済を発展させるもっとも重要な役割なのである。

この役割を機能させない努力を、日本政府と日銀がつるんでやっているから始末が悪いのだ。

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