昨日の、『村田良平回想録』の続きである。
事務次官の最大の業務は、人事だとあったけど、これを内閣がやるとしてできたのが「内閣人事局」(2014年:平成26年発足)だ。
村田氏は2010年に亡くなっているので、ご本人には知る由もないことだけど、「ええっー!」という声が聞こえてきそうな感がある。
それで、文科省にあって、事務次官が天下り斡旋をやったとして解雇されたのが、前川喜平氏であった。
違法であろうがなんであろうが、「人事」を一生懸命やっていたのだろう。
前川氏は何代もの前任者の人事によって、事務次官になったのだから、前川氏を非難する前に、歴代前任者のことを非難するか、文科省内のルールがあれば、それが問題の源泉として非難と反省の対象になっていい。
これをやらないのが、役所でもあるし、マスコミでもある。
政治家は、えらそうにはしているけれど、マスコミによく書かれることが商売になった、たんなる「役者」に成り果てたから、とにかく世間に日和ることを旨とする。
そんなわけで、前川氏がなにをやって解雇されたのか?はすっ飛んで、政府に批判的な言動を楽しむためのピエロにされて、テレビやらが採用している。
教育の荒廃を嘆いた村田氏は、とうぜんに文部省を叩いていたけど、幸か不幸か、前川氏の辞任問題も2017年のことで、村田氏のしるところではない。
ただし、その言動の軽薄さは、村田氏のレベルに到底及ばないばかりか、村田氏が嘆いた文部省の酷いところを体現した人物が、まさに前川氏だった。
この意味で、前川氏を事務次官にさせた「歴代の事務次官」も、どんな人物たちだったかが想像できる。
まさに、The 文科省=Mr.文科省としての前川氏だったのである。
役所を民間企業に置き換えるのは、あんがいと困難だ。
なにせ、売上がない。
役人は特定業務を「事業」と呼ぶけど、民間の「事業」とは意味がちがう日本語である。
民間でいう「プロジェクト」が、役所でいう「事業」なのだ。
けれども、われわれ民間人とは「育ち」がちがうから、「事業」という言葉をなんの疑問もなくつかっている。
これを、「お役所文化」という。
民間でいう「プロジェクト」には、じつは期限がある。
だから、さまざまな部署から集めた「精鋭」をもって、予算をつけ期限を切って所期の目的を達成させて、できたらその時点で解散するのが、プロジェクトなのである。
もっとも、民間でも部署長の発想が乏しいと、「精鋭」といいつつ、「無駄飯食い」を自部署から排出させるチャンスとみることもあるから、念のため。
これを、そのまた上の上司が見て見ぬ振りをしてやらせるぼんくらだと、プロジェクトの足を引っぱってしまうのだけど、それをプロジェクト・リーダーのせいにさせることもある。
さて、役所のばあいは、事業に「期限がない」という特殊があって、これを「恒久化」させるから、民間からしたら異様に映るのである。
一度付いた予算と人員は、かならず次年度も要求の対象になって、みごとに恒久化する。
このチェックをやるのが、議会のはずだけど、それをチェックする能力もやる気も議員と議会にはなくなった。
選挙のときだけ「やる気」とか大書したポスターを貼るが、よくも恥ずかしくないものだと一般人は呆れて、とうとう彼らの思惑通り、選挙に行かなくなったのでいつも当選できるようにもなったのである。
そんなわけで、どんなにぼんくらな社長でも、人事だけはやりたがるのは、自分の権威を高めるための権力志向による。
それが役所だと、「事務方トップ」の事務次官の最大業務だということは、国民としてどうなのか?という疑問にもなるのだ。
ここで、国民もしっておかないといけないのは、役人にはざっと3区分があるということだ。
第一が、公務員試験に受かって、公務員になったひとで、これを、「一般職」という。
第二が、天皇の任命を要する、「特別職」が別にあることだ。
第三は、「みなし公務員」という身分があることで、昨今の事業の民間委託者がこれになるけど、みなされるのは一般職としてになる。
役人の最高峰が、一般職の国家公務員のなかの事務次官だ。
特別職は、なにが特別かといえば、国家公務員法と地方公務員法の適用を受けない公務員を指して、選挙で選ばれる議員や、裁判官とか、自衛隊員、それに国会やらの承認を要する特命全権大使とかのことをいう。
村田氏はその回想録で、外務省のキャリア職員でも、日本の神話から伝統文化についてぜんぜん無知なひとが増えていると嘆いているが、それでは「採用試験」をどうするかがある。
わが国の外交方針は、ずっと、「全方位外交」であったから、「経済外交」という名の国際的バラマキをもって外交としてきた。
それで、「無償援助」は、経済局に、「円借款」は、経済協力局に縦割り担当させている。
しかし、無償援助は大蔵省・財務省、円借款は、各経済部局(経産省、国交省とか)からの、出向者でなるので、じつは外務省のキャリア職員すら、部外者の感がある。
それで、体面的に首席事務官や課長、局長は外務省のキャリア職員という慣例になっている。
なので、各省庁の出向経験者は、外交官試験無用論(=廃止論)をいうのである。
しかるに、国家公務員試験が、神話とか日本文化を重視したものにならない限り、国家観のない、あるいは、ゆがんだ国家観の人物が採用され続けて、主流派を成すことになっている。
つまるところ、大学受験にもつながる、すさまじい構造があるのだ。
これも、文科省が仕切っているから、公務員制度改革が空しいものとなるのである。
村田氏のような骨のある公務員を採用するなら、村田氏の勉学キャリアをトレースしないといけない。
氏は、「修身」がもっとも大切だったから、戦後GHQにやめさせられたと明言している。
このことは、なにも公務員だけでなく、民間企業だっておなじことなのだ。
「修身」を身につけさせないとは、野獣が横行する社会にさせる、という意味だからである。