目先の損得勘定はさいごに損をする

むかしからいわれてきた言葉が、本当の意味を発揮するのが現代の「情報化社会」なのである。
それは、ひとつの情報が「拡散」される、スピードと広さや深さが、「口コミ時代」とは、格段にちがう「別世界」だからだ。

しかも、「近代人=経済人」だという定義が、あやしくなってきたのも最新の分析で、ちょっと前までの、「合理的」な人間なんて存在しないことは、もう、マーケティングの常識にもなっている。

そもそもが、「経済人(経済的人間)」とは、『ロビンソン・クルーソー』を典型としたものだ。
この作家がつくった架空の人物は、絶海の孤島での暮らしに、「貸借対照表」を用いて、合理的でムダのない行動をもって生きのびようとする。

わたしは、このエピソードで彼の行動に感心するのは、「貸借対照表」を書くことではなくて、忘れないように、あるいは、後から確かめることができるように、「書くこと」をちゃんとやったことにあるとおもっている。

企業再生の現場にいて、企業再生(倒産)に至ってしまった経営者たちを観察すると、おおくが、書かないで記憶に頼っていることを発見したし、書いたとしても、それは自分のためではなくて、だれかに指示をあたえるためという、目的のちがいをみつけたからである。

しかして、ロビンソン・クルーソーは、島から救出された後、さまざまな事業を成功させる。
そのなかに、当時の英国人たちが「常識」としていた、「阿片貿易」もあって、やっぱり作家はこの人物を大成功させる物語を書いた。

ゆえに、わたしは、経済学者がいう、経済人としての、『ロビンソン・クルーソー』を「必読書」ということに、おおいなる疑問を抱いている。
詰まるところ、どうしてもこの架空の人物を、「経済人=近代人」としたいとする、経済学者がほんとうに経済をしっているのか?とおもうからだ。

もちろん、経済学者がいる「業界」では、学部1年生の必読書としている優秀校はいまでもあるかとおもうのは、その「業界内」での常識とされているからで、この意味で、あんがいと「惰性=慣性の法則」がはたらいているとかんがえる。

「まとも」に、阿片貿易とそれがもたらす厄災をかんがえたら、これを正統な経済行為と呼んでいいのか?という、「倫理」の問題を無視することの「必読書」であると位置付けるならば、相当にトンチンカンだと思わざるをえないからである。

あえて、英国をほんの少し擁護すれば、アヘン戦争を議会で議決するにあたって、過半数のわずか数票差だったことと、反対派が敗北した後に出した、「後世の赤っ恥になる」という声明の健全性だけはあったとつけ加えるべきものだとはおもう。

まぁ、英国にも「良心」はあったのだけれど、アヘン戦争を敢行した歴史的事実が変わるものではない。

また、重大な決議をする場合は、アメリカ連邦上院議会にある、単純過半数という方法ではなく、60%にあたる「賛成60票」がないといけないことがあるという工夫も、英国議会は採用しなかった。

もちろん、わが国も、「憲法発議と参議院否決の再可決以外」はぜんぶ単純過半数だ。
いまの自民党は、「絶対安定多数」(全常任委員会で委員を過半数確保したから委員長を独占する)になっているけど、2/3ではない。

そんなわけで、予言通り、「後世の赤っ恥になった」のであるけれど、それで奪った「香港」の返還にあたって、これを中共政権に返した、という、これまた「後世の赤っ恥になる」ことを、サッチャーをしてやらかしたのを「律儀」と呼んでいいものか?

話を整理すると、ロビンソン・クルーソーが典型的な経済人だというのは、狭い意味ではそうだけど、広い意味ではぜんぜん「資本主義的経済人ではない」ということだ。

ならばなにかといえば、「前資本的経済人」なのであって、これは人類史における、中世までの大金持ちとなんらかわらない価値観なのである。
するとまた、強い倫理や道徳社会にしか登場できない、「資本主義」は、英国で成立したのか?という大問題にたどり着くのである。

もしも、英国において資本主義は成立なんてぜんぜんしていないのに、ただ現象としての「産業革命」をもって、これを、かっこつけて「資本主義」と呼んでいるだけになるし、「共産主義から勝手に演繹した」つまり、共産主義を説明するだけのために、つくりだした架空の概念が、「資本主義」ではないのか?

これを、わが国の歴史にふってみれば、だれも江戸時代が資本主義社会だと認識していないだろうに、なぜかいまでも、江戸時代の「経済感覚の格言」に意味があってしかも「深い」ことをどうするのか?になる。

たとえば、「安物買いの銭失い」とか。

それでもむかしの方が、「損が限定的」だったのは、安物を好んで買う人「だけ」が損をしたからだった。
いまは、QRコードとかで電子決済をすると、数パーセントの割引になる、という方法での「安物買い」になっている。

しかし、この方法が普及すると、決済方法のシステム提供者に支配される、という「超恐怖社会」に近づくことを、まったく警戒していないから、警戒している「他人」も、最後には「社会制度」として巻きこまれてしまうのである。

たかが数パーセントの割引になる、とはいえ、どうして安くなるのか?をかんがえないで、まるで「写真を撮られると魂が盗られる」とした、原始人を嗤うがごとくのひとたちが多数になっているけれど、こと電子決済の恐ろしさは、この真逆なのである。

たかが自分の個人データなんて、大したことはない、のは、個別にみたらその通りかもしれないが、スマホにあるぜんぶの個人データが抜き取られていて、それが「ビッグデータ」になった途端に、威力を発揮する。

システム管理者に「気に入らない」と指定されたら最後、決済不能にされたら、それはほんとうに「死」を意味することになる。
自分の口座に入金しないばかりか、「現金が廃止」されたら引き出すこともできないし、なにもかも消費することができないのだ。

目先の損得勘定はさいごに損をするのだが、だれもこんな重大なことをいわないのが、もう「はじまっている」証拠なのかもしれない。

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