郷愁の「肉野菜炒め定食」

日本における「中華料理」のおおくが、「町中華」という進化をとげて、いかにも和食化したのは、外来文化を消化・吸収してしまう、おそるべき日本文化のなせる技でもある。

これは当然に、「洋食」というジャンルでもおなじで、「本場」にない料理があたかも外国発祥として扱われながら、じっさいは和食化しているのである。

たとえば、スパゲッティ・ナポリタンは、来日したイタリア人には「初見」となる料理で、ケチャップでパスタを炒めることの無謀に、最初は愕然としながらも、一口ほおばれば、その味の虜になりながらも脳内では混乱がしばし続くようである。

ぜったいにイタリア料理ではない、と。

これは、海外の日本料理店でも、あるある話になっているけど、たいがいの日本人は、それをけっして「うまい」とは感じないことに特徴がある。
「やっぱりちがう」ということに、妙に安心感をえるのだ。

しかも、海外で成功している日本料理店は、どういうわけか中国人とか朝鮮人の創業オーナーで、ほとんど日本人オーナーがいないのも、「テキトー」な料理を提供することに躊躇する、日本人の律儀さだと分析されている。

その原因の最たるものが、食材になる。

流通の発達が、昭和50年代程度でとまっているのがあたりまえの外国では、ということもあるけど、まず不可欠な新鮮な魚介類の入手が困難だし、鰹節や昆布といった日本料理の命となるダシの材料もない。
厳密には、「硬水」がふつうの外国でダシもうまくとれない。

ようは、食文化の素地がぜんぜんちがうので、ダシにいたっては、カツオ風味とかいう化学調味料を用いるしかないという妥協すら、日本人の料理人には許しがたいことなのである。

ところが、日本食の料理人の需要が高まって、賃金水準が格段にちがうようになったので、和食料理人の海外流出(出稼ぎ)が話題になっている。
年収にして5倍はちがうとなれば、たしかに、となる。

あたかも「出稼ぎ」といえば、短期のイメージだけど、あまりの賃金格差から、いったん出たら、めったに帰国できないことになる。
おなじ仕事をしても、日本では「喰えない」からだ。

ために、職人ほど英語やらの外国語習得が必要になっていて、文学や論文を読むのとはちがう、現場会話力の語学力なのである。
この需要に、わが国の学校教育は応じるはずがない、というへんな義務教育になっているし、「TOEIC」にはまるサービス企業も気づかないのは間抜けなだけか?

ときに、外国人富裕層が、健康によろしい日本食マニアの傾向があるから、お抱え料理人としての需要もある。
すると、あんがいと栄養学の知識が、料理人に求められるのは、外国人の合理主義が前提にあるからだ。

もちろん栄養学の基礎には、化学がある。

原子の組成から、電子の振る舞いを理解して、化学反応こそが料理の根本をなす。
どうやってダシをとるか?とか、包丁の技、はこれらの応用となるのだ。
すなわち、21世紀の職人とは、じつは化学や物理を基礎とする、「理系人」でないと務まらない。

そこにまた、食材という材料を供給する、第一次産業(農林水産業)の存在が必須なのである。

しかし、困ったことが二つある。

日本における第一次産業の衰退に、歯止めがかからないばかりか、促進させているのが政府だからだし、栄養学への疑問が存在する。
既存の栄養学のいう、食事療法がほとんど効かないのに、既存の栄養学を後生大事にした資格制度を維持しているのである。

これに、政治がからむのは当然で、学者のなかでの政治もふくまれる。

既存の栄養学が、既得権になれば、なにを好んで変える必要があろうか?
このとき、栄養学をべつの分野に置換すれば、たとえば、医学とか、がすぐ浮かぶのは、「公的健康保険点数制度」という共通にたどり着くからである。

ようは、料金体系が決まっているだけでなく、治療方法も決められているから、ここから逸脱することは、たとえ名医でも不可能なのだ。

それでもって、農林水産業も、先進国最低の自給率にするという政治だけでなく、肥料や農薬の原材料も外国から調達するしかないなかで、最大の供給国のロシアから敵国認定されて、行き詰まってしまった。

すると、「肉野菜炒め定食」が、食べられない、という状況になる可能性が高まっている。
定食の基本構成要素である、ご飯とみそ汁も同様だ。

価格が高騰するならまだしも、メニューから消えるどころか、町から食堂が消えるかもしれない。
原材料の入手困難と、ガスなどの不足がそうさせる。

人手を吸収している産業としてみたら、こうした政策は、底辺の劇的拡大という事態になって、世の中を不穏にするけど、それがまた、狙い、なのだ。

人間は、寝だめも食いだめもできないけれど、いまのうちに肉野菜炒め定食を気軽に食べられる幸せをかみしめておいた方がよいから、できれば小学生に教えておきたい。

しかも、栄養学的にバランスがとれた、いわば完全食なのだ。

いまの小学生に肉野菜炒め定食の記憶を焼き込めば、あと60年とか70年ぐらいは、「郷愁」として、語り継がれることだろう。
ただし、聴く側のひとたちが、それはどんな料理で、どんな味だったかを想像することもできなくなっているやもしれぬから「古代食」になるかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください