院内感染

純粋無垢なものやことを求めるのを「純化」という.
こうした発想は,儒教の影響をつよく受けているのではないか,という気がしてならない.
ほんらい儒教は,大陸発祥だが,モンゴルからの元,満州からの清といった外国人政権があいついで,共産革命がとどめを刺した.いま大陸にのこるのは,チョンシーで有名になった民間土俗信仰の「道教」ぐらいではないか?

もっとも,この間に,朝鮮や日本では,「小中華思想」によって,本国にかわって自分たちこそ「儒教」の本家と思い込んだ.
日韓問題の根幹に,両国共通の小中華思想による「本家争い」があるのではないか?
とくに韓国では,いまだに儒教は「宗教」としていきている.

ところが,日本は,聖徳太子のむかしから,宗教を「為にする方法」としてとらえる伝統がある.
つまり,怨霊や怨霊による病気などに「効く」か「効かないか」におもきがあって,外国からの「知識」とする傾向がつよい.

裏返せば、神話にさかのぼる「怨霊」は、神道の本筋になるから、日本人はとてつもない宗教民族である。これを日常生活でほとんど「無宗教」と思っている。それが、強さの証拠でもある。
世界の宗教は、毎日「神」を唱えるが、日本人はその必要すらない、という意味だ。

天台・真言の護摩壇供養はその典型だし,禅がもたらした「茶」は,まさに「薬」だった.

「儒教」のなかの「朱子学」を,江戸幕府が推奨したのは,「統治」のための処方があったからだという.「儒教」は,皇帝をささえる文武百官のための教えで,これに「皇帝」はふくまれない.
つまり,将軍を皇帝にみたてれば,家臣のための教えなのである.だから,日本で儒教を「宗教」として扱いはしない.

平面的には,小中華思想における「本家争い」なのだが,一方は「宗教」として,一方は「官僚統治の人心把握術」として,という途方もないギャップがあることを知らない振りをして,「与える側はどちらなのか?」を争うのだ.

いまさら,この現代において「儒教」なんてとおもうだろうが,あんがいわれわれのDNAにすり込まれている.
冒頭の「純化」が一例だ.

「用途純化」ということばがある.土地の用途を,かつてのニュータウンのように,住宅だけに純化させたら,かえって不便で住みにくくなった.
これは,立派な学者があつまっても,失敗してしまう事例になった.
表面的には「規制」の失敗にみえる.しかし,思考の視野狭窄という「純化」が真の原因である.

思考の視野狭窄という「純化」は,ふつうのひとでもおこる.
なかでも,ある特定の組織のなかにいると,その組織の意志にしたがうようになる.
これは,ウィルスのように増殖する.
韓ドラに,「ベートーヴェン・ウィルス」という作品があった.日本だと,「のだめカンタービレ」がそうだろう.
「のだめ」のばあい,「Sオケ」という圧倒的な成功体験が,ウィルスである.

  

成功体験が「ほとんどない」ほどすくないと,「疑心暗鬼」が空気中を舞っているので,良い意味での「感染」は,なかなかない.

「おもてなし」にも,視野狭窄という「純化」がつきものだ.

たとえば,有名百貨店や大手ホームセンターでよくあるのが,「店内改装」という気分転換である.
このときの主役は,ほとんどが「従業員」である.
つまり,何年もおなじ売り場であることに,従業員が飽きてくるのだ.
それで,誰が買っていたのか?という超重要な情報をなかったことにして,つまり,おざなりなABC分析をやって,とにかく「C」ランク商品を棚からなくすか,わかりにくいコーナーに配置換えをする.
こうして,新鮮な気分で開店をむかえるのは,じつは従業員だけだった,ということはしばしばある.

だから、めったに売れなくても,その商品があるからと指名入店するお客は,商品探しに辟易し,ついには,その店から姿を消すのだ.
ここで,店側には,店員に質問して欲しい,といういい分もあろう.
これぞ「純化」である.
悪いのは店ではなく,自分でみつけることにこだわるお客の方だと.

ショッピングの楽しさをしらないひとが,視野狭窄という「純化」をすると,たいがいこうなる.
そして,これが社内感染して,従業員の脳がおかされ,「脳症」的なまでにだれも気がつかなくなる.
では,その感染源はだれだったかといえば,「数字の表」だけをみている経営者である.

だから,消毒すべきは従業員ではなく経営者の方である.経営者の病気が治癒すれば,従業員側は自然治癒する.

政府の「働きかた改革」がいよいよ混乱してきた.
その原因は,消毒すべきが経営者であることに気づかないばかりか,それを命令する政府自身も,消毒の対象であると,つゆほどもおもわない傲慢さである.

与党内でも,ましてや野党も,以上のような反論ができない.
19世紀型の,低劣な環境で酷使される「あわれでかわいそうな労働者たち」を助けてあげなければならない,と信じているからだ.これは,政府のいう土俵である.
衆議院も参議院もしかり.これを「院内感染」と呼びたい.
議員たちには強力な消毒が必要だ.

21世紀の日本における労働問題は,19世紀的視野狭窄という「純化」の感染がとまらない.
ああ,国民はなんて不幸なのでしょう.

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