風呂で泳ぐ子どもたち

過去最長のゴールデンウィークである。
わが国の「祝日」が、世界でもっともたくさんあるのは、自慢できることなのかどうなのか?

「生産性をあげるため」のはずの「働きかた改革」が、単なる残業削減に陥って、「森」と「木」が逆転したのは、企業経営者がかんがえなければならないことを、政府が命令したからだったが、「休日」も政府が「祝日」を指定して休めと命令しないと休めないのが日本人になった。

有給休暇も「強制取得」の時代になった。
これは、政府もあきれたうえのでのことかもしれない。
もちろん、全員ではないが、日本の経営者に「有給をとるのは悪」という発想がある。

「担当者がいないからわかりません」
この一言が、どれほど人間をバカにしていることなのか、その本人だって気づいていない。
お決まりの「お役所ことば」だったはずが、しっかり民間に伝染して、いまではどちらさまでも聞くことができる。

とうとう、「責任者」不在の無責任が、「担当者」にまで拡大した。
そのうち、それは当社の業務ではありません、というようになるだろう。
どちらの会社も、みんなでそういえば、いわれた側は対処の方法をうしなって、あきらめるしかない。

まさに、「赤信号みんなでわたればこわくない」が現実となった怖い社会の到来を予想させる。

これに、いつだれがどのように「キレル」のか、予想がつかないことになったから、「触らぬ神に祟りなし」という古来の伝統が現代に生きる社会にもなっている。

サリン事件という化学テロが世界ではじめて発生してから、もうすぐ四半世紀にならんとしているけれども、公共の場から撤去されたゴミ箱が復活しない。
さいきんでは、一部コンビニからもゴミ箱がきえて、売りっぱなしの無責任がはじまった。

ほったらかしでいいのだ。
というのが「自由」でかつ「平等」だということを信じて、生まれたばかりのじぶんの子どもを真冬の外気にさらして死なせたのは、ジャン・ジャック・ルソーだった。

教科書裁判で有名になった家永三郎は、戦中の体制派だったころに「ルソーは重度の分裂病」だと記述している。
精神を病んで、偉大な哲学者といわれるひとはおおいから、なにもルソーだけを特別視してはいけないのだろうが、事実上の子殺しまで(しかも繰返し)しているのだから、わたしにはまったくの狂人にみえる。

そんな人物の「教育論」を、欧米でまともなひとに読まれることはないというが、なぜか戦後の日本では、教職課程なら必読とされつづけているのが『エミール』である。

ついでに、『人間不平等起源論』では、むこうから歩いてきた女性がじぶんの好みなら、その場で犯してもよいという「説」まであって、読むに堪えない。
これが、「啓蒙主義」のかくされた本性である。

  

じつは、「自由」と「平等」が「権利」になって、一歩まちがうととんでもないことになるのである。
そのとんでもいないことのひとつが、さいきんでは「あおり運転」や、その結末としての悲惨な事故だった。

そんなわけで、もはやドライブレコーダーは、自動車の「必要装備」になった。
これまでとちがうのは、カーステレオやカーエアコンのように、利用者の利便性向上のための「必要装備」なのではなく、いつ被害者になるかわからないことへの準備となっていることだ。

公共の場所として、もっとも無防備なのは温浴施設である。
「裸のつき合い」とは、マスコミ用語であって、べつに知らないひとと「裸のつき合い」なんてしていない。

こういうひとたちにかぎって、自宅の浴室にたっぷりおカネをかけて、それは優雅な入浴タイムをたのしんでいて、公共浴場など行ったこともないから、平気でそんなことをいえるのである。

それで、大浴槽で泳いだり潜水したりしている子どもをみたこともないから、「他人の子どもを注意してくれるおとな」がいて「教育にもいい」などというたわごとがいえるのだ。

「注意」すべきは、「親」自身であって、他人はかんけいない。
じぶんの子どもの行為について、いいかわるいかも、他人のおとなにいってもらわないといけないなら、まさにルソーのような状態になっている。

他人のおとなは、たんに迷惑をこうむっているだけで、浴槽でじっとガマンをしているのである。
そして、「早くでろ、このバカ親子」と念じている。

そのうち、浴場で「裸同士」の事件がおきて、それを「裸のつきあいのもつれ」などと報道するのだろうか?

そして、監視がだいすきなひとたちが、とうとう浴場内に監視カメラを設置して、その映像がネットにアップされる事件もおきるのだろう。

たとえルソーを読んでも、その気になってはいけない。
「いけないこと」が書いてあるのだ。
であるからこそ、すくなくても、教育者たちは、『エミール』を棄てるべきである。

そうしないと、いつかじぶんが被害者になる。

「こどもの日」のこどもがおとなになってしまった国である。

十連休の意味とは?

経済をささえるインフラのなかで、もっとも重要なのは金融で、企業家が資金を得るための手段で、借入や株式市場がなければはなしにならない。
わが国では、はじめて紙幣を発行しておカネを貸してくれる銀行をつくったのが渋沢栄一で、そのあとに株式市場をつくったのも渋沢栄一だった。

銀行 → 株式市場、という順番になっている。
それでかしらないが、資金調達の手段のもっとも「主」要な方法が、銀行からの借入で、株式発行による直接金融のほうが「従」の時代がながかった。

銀行をひとくくりにまとめて、護送船団方式で管理するやり方が、官僚にとってやりやすかったからである。

それで、ゴールデンウィークの「十連休」を、金融機関にも命じたのが「祝日」指定だから、一般人といっしょに金融機関のひとたちも休むことになったのは、金融が特別なものではなくて「ふつうの産業」だと、役人がみなしたからである。

じぶんの預金をおろすのに、手数料を取られる。
金利がちゃんとつく時代ならまだしも、当座預金同然になっている。

ホンモノの当座預金なら銀行から「小切手帳」をわたされて、現金でなく小切手を切れば、安全に決済ができるという発明があった。
ちいさな国がひしめくヨーロッパでは、国がちがえば通貨もちがうので、陸続きの大陸で、小切手は安全かつ確実な「通貨」同様の役目をはたし、これを支えたのがユダヤ人のネットワークだった。

日本では、もっとちいさな国である「藩」がひしめいていたが、幕府という中央政府があったから、通貨単位は基本的に全国で共通だった。
金貨の流通と銀貨の流通という地域でのちがいが、両替商という商売をつくって、かれらのなかで通用する「為替」を発明したのだった。

この「小切手文化」と「為替文化」のちがいは、クレジットカードの意味のちがいになっていると以前に書いた。

いわば、これは、金融の「基盤がちがう」ことを意味している。
外国の「BANK」を「銀行」と訳すのはただしいが、外国の「BANK」と日本の「銀行」は、じつは似て非なるものである。

これと同様なのが、証券会社で、外国の「stock company」や「securities」を「証券会社」と訳すのはただしいが、外国のこれらと日本の「証券会社」は、似て非なるものである。

なにがちがうのか?
「法律」がちがう。
しかし、「法」とは最低限の取り決め・ルールのことである、という原則にたちかえれば、「精神」がちがう、というところにまでたどりつく。

外国の金融機関は、顧客への「サービス(顧客利便性)」を優先させるが、日本の金融機関は、「政府(の命令)」が優先するのである。

その証拠が、十連休中に現金をどうやって引き出すのか?という問いでわかる。
現金を引き出したいとかんがえ行動するひととは、金融機関から観れば「顧客」のことを指す。

だから、外国の金融機関なら、顧客に不便が生じないような方法をかんがえだすものだが、その前に、かれらに「十連休」という「概念がない」ことが重要なのだ。

基本的に、政府指定の「祝日」が日本ほどない。
銀行も証券会社も、あるいは証券市場すら、数日の連休はあっても、五日を超えて二桁になる連休などない。

顧客の「決済」をとめる、「換金」をとめる、という発想がないからだ。
つまり、金融とは、社会に特別なものだというかんがえかたが根底に存在する。

ところが、日本ではそもそも「顧客」とはいわず「利用客」という。
おなじ「客」という字があるけれど、「利用させてやっている」感がある。
これは、政府の目線なのだが、それが「現場」に伝染してしまうのだ。

連休前の平日になるべく引き出しなさい、という意味の案内は、「顧客優先」の発想からはでてこない。
ならば、店を開ければいいのである。

しかし、事業者からすればこんなことではすまないだろう。
月のうちの三分の一の日数が、決済も換金もできないのだ。
「仕事にならない」ではないか。
10連休倒産は起きないのか?

「奉祝」気分と、金融実務は別である。
これでまわる日本経済とは、鎖国をしているのではないかとうたがう。

世界経済から取り残されてしまったら、たしかに何連休しようが影響はない。
ただし、金融とは相手がいることを忘れてはならない。

日本株や円といった、出島のような世界との接点において、外国からの投げ売りやアジア通貨危機のような円への攻撃があるばあい、どうやって防戦するのか?

まったくもって、手段をうしなっているのが10連休である。

何事もなかったら、それはそれで、サーカスの綱渡りに成功したとよろこぶのか?

金融マンのホンネがしりたい。

黄昏のEU

日本では忘れられた経済学者になっているハイエクであるが、ハイエクによる「予言」を昨年に書いている。

ようは、EEC → EC → EU とつづくヨーロッパの行方を疑問視し、はては亡くなる前にEUの終わりかたまで書き残したひとである。
そして、その終わりかたどおり、終わろうとしているようにみえてきた。

イギリスのブレグジットはなんなのか?も、前に書いた。
重複するが、友人の英国人が「国会が北京にあって、最高裁判所がソウルにあったら日本人としてどうか?」といっていた。

それに、「EU官僚」というひとたちがきめる「超国家指令」が、一般人にも国家とはなにか?を再考させるにあたいするほど腹立たしいと。

それは、移民の割り当て数を決められたりして、これを国家として拒否できないとか、外国人の犯罪者を強制送還できないとかにまでおよぶ。
日常生活における慣習も無視した指令もあって、「???」がつくことばかりだと。

すなわち、究極の超国家官僚主義体制がEUで実現しているのだ。

こまったことに、日本の報道は地に落ちて、ブレグジットでたいへんなことになる、ということばかりがいわれているが、主語が「英国」なのか「EU」なのかが不明なはなしもある。

たしかに、英国からホンダが撤退をきめたりといったニュースはあるが、英国経済をホンダ一社がささえているのではない。

「合意なきブレグジット」と「合意」のちがいがなんで、英国議会がどうして何回も否決するのかも、くわしい報道があるとはいえないのに、世界経済がたいへんなことになるということばかりがいわれるのはどういうことなのか?

もし、日本の国会でこんなにも否決されたら、内閣がその都度総辞職させられそうだが、メイ首相はよほどの強者なのか、与党保守党にかわりがいないのか?

そもそも、メイ首相がEU側ときめた「案」は、離脱するのかしないのか、それともEUという蜘蛛の巣にからめとられてしまったのかがわからない案なのだ。

英国は離脱をするが、数年間はこのままで、その間は、EUいがいの他国と独自協定は結べない。
それで、保守党の離脱強硬派である元外相は、われわれはEUの植民地になる、と発言している。

ようは、EUは英国の離脱をゆるさない、という態度で一貫しているのだ。
もし、英国が前例となれば、次々と離脱希望国がでてEUが崩壊するという危機感からだろう。

この魂胆がみえてきたから、離脱派が維持派をずいぶんうわまってしまった。

ただし、EUという枠組は、いったん加盟国の国境をなくしたから、英国には、北アイルランドとアイルランドの国境もきえた。
それが復活することになるから、どうするのか?がややこしい。
「特例」というものができるのか?

EUから離脱したら、英国はTPPに参加するといったけど、それは「合意なき」ばあいである。
すると、英国にとって「合意」が絶対条件で必須のものなのか?という疑問がある。

むしろ、「合意なき」という選択が、じつは合理的なのかもしれない。

ブレグジットよりも、EU問題の柱に、統一通貨「ユーロ」がある。
「経済共同体」としての「ユーロ」だ。
英国はとうとうユーロを採用しなかったのは、政治家がちゃんとハイエクを熟読していたからだろう。

早い時期からハイエクは統一通貨の不都合を論じていて、統一通貨としての帰結を「ヨーロッパ中央銀行の設立」だとした。
そして、あまりにも事情がちがう国々の経済を、おなじ通貨のために「統制」することが必要になるから、かならず域内で経済の強い国と弱い国の間で、通貨問題が発生して収拾がつかなくなると予想した。

ギリシャ危機やラテン各国の危機がこれだ。
そのために、ヨーロッパ中央銀行の権限が「強化」されたのは、歴史的事実である。
もちろん、「統制」が強化されたのだから、各国の経済政策の自主性はうばわれた。

そんなこんなで、EUをささえる大国は、もはやドイツ一国だ。
もし、ユーロがなくてマルクのままだったら、ギリシャに例えれば、マルク高ドラクマ安で調整できたものを、ドイツの信用でギリシャ人もユーロで決済できてしまったのである。
つまり、通貨間の為替調整機能がユーロによって妨げられたのだ。

そのドイツが、ドイツ銀行の経営危機で息も絶え絶えになってきた。
日本のメガバンクのような銀行だが、むかしの長期信用銀行のように、自行で債権も発行できる銀行だ。

それに、ドイツ銀行とはいっても最大時で10%の大株主は中国企業だった。
メルケルのドイツと中国の蜜月の遺産である。

もはやこれまでなのか、中国企業は全株を手放すとアナウンスしているけれど、この銀行がやっちまったのは、リーマン・ショックとおなじ債権の保険商品による巨額損失(260兆円)である。
英国にはわるいが、ブレグジットどころのはなしではない。

ドイツ政府も必死になって支えようとしているが、この銀行の破綻はそのままユーロの破たんになって、EUがすっ飛ぶこと必定だ。

英国人は、ドーバー海峡のむこうから、この風景をながめているにちがいない。

処方箋は、ハイエクの『貨幣発行自由化論』にある。
わが国も、いまどき「新紙幣」なんてものではなくて、ふつうの銀行に貨幣を自由に発行させればよいのである。

ただし、われわれはドイツをわらえない。
もっとひどいのが日銀だからである。
ほんとうに10連休もして大丈夫なのか?

「昭和」は遠くなりにけりとはいかない

とうとう「令和」がはじまった。
これでわたしも、昭和・平成・令和の三時代を生きたことになる。
記念なので、当ブログでも「時代」について書いておく。

タイトルはもちろん、「明治は遠くなりにけり」のいいかえである。
オリジナルは、昭和6年(1931年)に中村草田男が詠んだ句「降る雪や明治は遠くなりにけり」で、下の「明治は遠くなりにけり」が、ひとり歩きして有名になった。

中村草田男というひとの生まれは、明治34年(1901年)のアモイ(厦門:福建省)である。父は清国領事の外交官であった。
日清戦争が明治27年(1894年)、日露戦争が明治37年(1904年)だから、時代のスローガン「臥薪嘗胆」の最中のことである。

三歳になった日露戦争の年に、母方の祖父が松山藩重臣でもあった愛媛県に帰国しているから、厦門での記憶はあまりなかったことだろう。
しかし、30歳になったときに、母校での雪景色にて詠んだという句ができた。

時代は明治・大正・昭和とうつっているから、明治のころの学校生活の記憶とかさなると解説されているが、むしろ、記憶のうすい日露戦争前の厦門時代もふくまれているのではないかとわたしにはおもえる。

それにしても、30歳の作とおもうと、じつに「しぶい」。
いまの30歳とはいわない、じぶんが30歳のときに、こんな心境になりえたかとかんがえると、おそらくではなく確実にちがう。

「寿命」がムダに伸びているのかもしれない。

東京の谷中霊園にいくと、往時の価値感がわかる墓石が豊富にあるから興味深い。
「叙位叙勲」にくわえ「軍人」の誉れがよくわかる。

素直に「名誉」を「名誉」として遺族が石に彫り込んだのは、わるいことだと決めつけるわけにはいかない。
むしろ、誤解をおそれずにいえば、軍人の誉れがちゃんとしているのは、健全な社会である。

不思議とだれだかわからないひとの墓石の前に、背筋が伸びるのである。
そこに、凛とした「責任」を感じるからだ。

ましてや、たまにある事務的な看板に、管理費を滞納しないようにという注意書きをみるから、ここに残る立派な墓石は、「家」の子孫である関係者が、ちゃんとつづいていて管理費を納めている証拠でもある。

お墓参りのたびに、ご先祖のといってもたった数世代前の価値感にふれて、やはり背筋が伸びているはずである。

ただ、じぶんの家の苗字しか彫れない現代人の社会的名誉のなさが、あんがいうらまれる。
じぶんが生きた証拠を後世に残すというのが、墓石なら、谷中のひとたちのような彫りかたが、素直に目的合理性に合致している。

昭和時代はながかったから、戦後だけをもって「昭和」とはいえない。
むしろ、価値感がひっくり返ったのだから、すくなくても「前期」と「後期」にわけられるだろうが、戦争準備期間と戦争の時期もわければ、これを「中期」とすることもできるだろう。

「中期」は、国家総動員体制がととのう昭和15年あたりから終戦までをいうのがよいとおもう。
ただし、国家総動員体制じたいは、現在もつづいていいるから、令和になってもまだ「昭和中期のまま」でいるのだろう。

だから、「昭和」は遠くなりにけり、とはいかないのである。

むしろ、「昭和」がだいすきで、しがみついてでも放したくない。
けれども、その「昭和」とは、前期・中期・後期のどこなのかをわざわざいうひとはいない。

あえていえば、『三丁目の夕日』の時期か?
いやちがう。
テーマによって変化するから、あんがいご都合主義である。

むかしの「名誉」が大っぴらにいえなくなって、偉人が偉人としてあつかってもらえない。
そういう意味で、ヒーローがいない時代になった。
だから、ヒロインもいない。

これも「規範」の欠如のあらわれか?

ながい連休に時間をもてあそばせるなら、せっかくの時代の変わり目の記念に、名著『日本教の社会学』の復刻版でも読んでみてはいかがだろうか?
オリジナル版は、古書で一万円をかるく超えて、しかも市場に出ず入手困難だったから、図書館で借りた思い出がある。

ここに、令和となっても現代がかかえる根本問題が解説されている。
その「深さ」を味わってもらいたい。
しかして、その問題をとくのは、もう私たちから若い世代になっている。
せめて、問題の解きかたぐらいはアドバイスしておきたいものだ。

この本も、碩学二人の著者はどちらも平成にて物故している。
けれども、まったく「昭和」は遠くになりにけり、とはいかないのである。

わが国にとって最高の大統領だけど

「アベ一強」のほんとうの理由は、かつて、レーガン氏と中曽根氏が個人的関係を築けたように、トランプ氏ともプーチン氏とも個人的関係の構築に成功したからだろう。

わたしは安倍政権を防衛・外交いがいでそんなに評価しないが、このことは簡単に他人にできることではない。
逆にいえば、こうした首脳たちとの個人的関係があるからこそ、防衛・外交分野でそこそこの成果をだせるのである。

それで、東アジアにおける米国外交をささえる形ができたし、中国との「貿易戦争」によって、わが国に一目置くような変化が中国首脳にもみられることになった。

まさに、トランプ大統領は、アメリカ人にとってはしらないがわが国にとって過去最高の大統領、といえた。

発表されている「外交日程」をみれば、令和初の国賓は、5月にやってくるトランプ大統領だし、6月末には大阪でG20もあって、これにもトランプ大統領は参加する。

だから、この4月末に平成最後の日米首脳会談がワシントンであるのは、ずいぶんと回数の間隔がみじかいので、なにが話題なのだろうとおもったら、パンドラの箱をあけるようなはなしが飛び出した。

就任したばかりのトランプがオバマがやっていたしごとをちゃぶ台返しして、いっしょに「TTPはアメリカの陰謀だ」といっていたひとたちもすっ飛んでいった。
「TTP亡国論」は、もうすぐ文化遺産になるから、どこぞから特集して出版してほしいものだ。

しかたがないのでアメリカ抜きの11カ国ではじまったTTPに、わが国は戻ってきてくれるようにしたいのだろうが、トランプ氏の魂胆は二国間交渉にあった。

ここが、従来の延長でしかかんがえない官僚の限界で、ビジネスで鍛えられ成功したアメリカ大統領にはつうじない。

手順として、わが国の二倍になった経済規模の中国を先に締め上げて、白目をむいてギブアップをしそうな詰め段階にきたら、その次にでかいわが国に攻撃をしてきたのだから、まるでプロレスである。

わが国の基本姿勢は変化なしで、売りたい自動車の関税引き下げと、保護したい農業の関税維持、という「わざ」一本やり、なんとかの一つ覚えである。
これにたいして、大統領は、いきなり「農業」だけを貿易交渉のトップにあげたのだ。

わが国官僚は、農業における「維持」の基準は、TTPで決着済みとおもっていたから、この発言の破壊力ははかりしれない。
首相に随行する戦略なき奢りきった役人たちの頭脳が、まっ白になったのではないか?

「補助金」というものがいかがわしいものだというのは正しいが、農業保護を「関税」でおこなうというふるい手法に磨きがかかっているのが、ここでもガラパゴス化しているわが国である。

まるで、真空管で世界一だった東芝がトランジスタ時代になっても、真空管技術に固執して倒産危機をむかえたのににている。
世界はとっくに関税「ではなく」、補助金による農家の個別保障という制度に移行しているからだ。

「関税」方式では、国民全体が高い品物を買わなければならないからである。
すなわち、高いから買わないとか、買えない、という消費者の判断が、その品物の需要をへらして、そもそも輸入しなくなるところまでいく。

けれども、消費者からすれば、その品物本来の価格であれば、買っているのに、というのであれば、関税方式とは消費者の選択の自由をうばうやり方になるのである。

それよりも、消費者を守るためにも、輸入品から打撃をうける生産者に個別に補助する方式なら、消費者の選択の自由はまもられるのである。

どうして、わが国でこれができないのか?
関税方式にあるメリットとは、どんなものなのか?
それは、国の特殊法人や農業団体などが儲かる仕組みがきっちりとできているからだ。

つまり、利権、である。

だから、農業を保護するため、ということを隠れ蓑にして、じつはこうした利権を死守したいのである。

ネット販売なども独自にはじめて、高品質でがんばっている農家がたいへんなことになる、というはなしも、ウソではないが誇大妄想である。
ほんとうにたいへんなことになる農家は、そういう農家ではなく、農協に依存した専業ではない農家のほうなのだ。

わが国では、がんばっている農家がなかなかむくわれず、なんとなくやっている側に有利な状況がうまれている。

しかし、こんなことはアメリカ人だってしっている。
トランプというビジネスマンが、補助金をたっぷりもらっている農家の輸出をふやすために、どんな方法をいいだすのか?

もしかすると、わが国の農家保護の方策が、世界標準にならざるを得ないとしたら、じつは日本国民として、やっぱり最高の大統領になるのかもしれない。
わが国は、民主主義のはずなのに、政府と国民の利害が一致しない国になっている。

これを、外国から強制されないとできない国が、日本なのではあるけれど。

今日は平成最期の日、明日になっても、やっぱり外国から強制されないとできない国はつづく。

マグネシウムをたべる

ずいぶん前に「現代の栄養失調」というタイトルでかいたし、このブログではけっこうミネラルについてふれている。

国立がん研究センターの発表で、マグネシウムが注目されるようになっているから、くわしくはそちらで検索されることをおすすめする。

「ミネラル」というと「ミネラル・ウォーター」が連想されるほどに、日本人の生活に普及したのがボトル入りの「水」である。
「おいしい水道水」の普及があったから、わざわざお店で清涼飲料水ではなく、飲料水そのものを買うという発想があまりなかった。

「外国じゃ水道の水がまずくて飲めないらしいよ」
といって、日本にいることの幸せをかんじたものだ。

じっさい、エジプトのカイロでくらしていた35年前もいまも、彼の地の水道水をそのまま飲むのは、免疫力に自信がないと勇気がいる。
生活しているのだからと、着任後半年ほどしてから、多少の下痢はかくごして慣らしたけれど、観光旅行ならやめたほうがいい。

概して、地層の形成から、日本は石灰質の岩盤があまりないので、湧き水や井戸水にミネラルがはいっていない。
こうした水を「軟水」という。

反対に、欧州などの地層には大理石の産出があることでわかる、石灰質の岩盤があるから、カルシウムたっぷりのミネラル・ウォーターが湧いてくる。
こうした水を「硬水」とよんでいる。

それで、WHOは以下の基準をもうけている。
軟 水:硬度0~60未満
中軟水:硬度60~120未満
硬 水:硬度120~180未満
超硬水:硬度180以上

富士山の名前がついている日本の伝統的な「ミネラル・ウォーター」は、なんと硬度28という「軟水」であって、ミネラル・ウォーターといっているのに、ミネラルがあんまりはいっていない。

フランスの有名なミネラル・ウォーターは、硬度300をこえるものもあれば、軟水に分類されるものもあるから、表示で確認しないとわからない。

日本の水道水は、ほとんどが軟水だが、サンゴがある沖縄や鍾乳洞で有名な山口県では硬水なのが特徴だ。
ミネラルの多少が、酵母の活動に影響するから、酒や醤油づくりには、製品品質をきめる大事な要素になってくる。

さて、人間をふくめて、生命の起源をたどれば、海だったから、わたしたちの体内にも、海での生活のなごりがあることはしられている。
成分として、「塩(塩化ナトリウム)」がもっとも有名で、かつ、欠乏すると生命にかかわるから、宿敵どうしであっても「敵に塩をおくる」ことがある。

それに、カルシウムというミネラルも、骨や歯の主成分だから、不足するとこまったことになる。
そうやってかんがえると、マグネシウムは地味なミネラルである。

しかし、海水にふくまれるマグネシウムの量は莫大で、ほぼ無尽蔵という資源でもある。
だから、海からやってきたわれわれのからだには、マグネシウムは必須なのである。

人間もふくめた生命体の体内活動は、ほとんど無意識な化学反応である。
この化学反応を、スムーズに促進させるために「触媒」という役割の物質がさまざまに存在しているが、なかでもマグネシウムが、触媒として重要な役割をはたしているという。

その役割は、300とも700種類ともいわれる化学反応に関与しているというから、おどろきである。
だから、マグネシウムが不足すると、おもわぬ病気をひきおこすことがわかってきた。

がん、高血圧、糖尿病などがあげられているから、いいかたをかえれば「生活習慣病」そのものである。
それで、もしや「マグネシウム不足」が原因か?というはなしになってきているという。

マグネシウムを取り入れる方法はふたつ。
ひとつは、「食べる」ことである。
サプリではなく、食品からとりましょう、と推奨されている。
その食品とは、伝統的日本食におおいのも特徴だ。

蕎麦、海苔、ヒジキ、豆、雑穀、抹茶、ゴマ、ワカメ・昆布、青野菜、魚、椎茸、牡蠣、芋、トウモロコシ、果物。

なにげない食品にふくまれている。
それなのに、マグネシウム不足なのは、これらの「なにげない食品」を、そういえばあんまり口にしていない。

もうひとつの摂取方法は、入浴。
マグネシウムがはいっている入浴剤で、皮膚からとりいれる。
なるほど、むかしの海水浴の意味がわかる気がするではないか。

すると、これは、いがいと宿泊施設で応用できそうだ。

「マグネシウム摂取プラン」というアイデアになる。

なお、豆腐をつくるときの「にがり(塩化マグネシウム)」をそのまま飲む、というのは危険だという見解がある。
タンパク質を凝固させる作用があるから、そのまま大量に飲むと、内臓のタンパク質が硬化するからだというし、腎臓病患者には御法度だ。

伝統食の見直しは、地域観光の要であるから、やはり食品を料理してさしあげるのがよろしかろう。

「喧嘩」ができない

官僚主義という役割分担を重んじる価値感が、ほんらいの「効率性」を達成したかにみえた誤解、あるいは勘違いから、じぶんのことである、というリアリティをうばって、とうとう巨大な無責任をつくりだす。

じぶんの担当以外のものやことに、無関心でいられる鈍感さをそだてるからである。
これが、国家をつねに真似る民間企業にまん延して、とうとう家庭にまではいりこんだ。

わたしは、いまようのジェンダー主義者ではないし、むかしの「家」制度をなつかしむものでもない。ここでいう家庭内での官僚主義とは、家父長制をさすのではなく、家族のなかでの個人間としての無関心をいう。

家族内ですら、なのだから、ご近所もおなじで、それがどんどんひろがって、国という枠にまで無関心がひろがるのである。
身近な例でいえば、ほんらいは日本独特の「善意」からスタートしたはずの「民生委員」が、地域住人の重い負担になっていることもあげられる。

行政からの業務範囲のおしつけと、お世話する家庭の事情の変化、それに知りえた情報の厳しい守秘義務の遵守要請は、「善意」だけでは受けきれないし、専業主婦が壊滅して、業務をおこなう時間すら制約になってきたのは、主婦や高齢者をパート労働にかりたてる政府の政策と完全に矛盾している。

「縦割り」という役割分担の無責任がうんだ、制度疲労のひとつである。

ところが、こんな問題すら「選挙」の公約にあげるものがいないのが、地元議会の議員選挙というありさまで、まるで国政レベルのはなしか、単なる名前の連呼になっている。

そのおかげで、放送法一本の「ワン・イシュー」の政党が、ずいぶんと勝利した。
だれでもいい、どーでもいい、という有権者の無責任は、選択肢を提供されないという不満からと、世間への無関心が掛けあわさってうまれる。

本来の目的は、放送法の改正と巨大な公共放送をどうするのか?ということだから、地方議員になる意味が不明ではあるが、存在の「売名」ができないと国政選挙ではたたかえないという理屈だ。

このひとたちは、現行法の放送法でさだめる視聴料を支払っていないと公言しているから、違法状態をみとめている。
すなわち、わが国は、違法行為をしているひとたちが公然と政党をたちあげて、地方と言えども議席を得るという「モラル崩壊」がはじまっている。

これは、一種の「非合法政党」ではないか?
それに、国民受けするテーマをたくさん並べて「できっこない」を連想させるよりわかりやすい。
こうして政権を奪取した事例は、ナチスである。

このひとたちが、ただしい「喧嘩」のやりかたをしっているとしたら、あんがい巨大勢力になる可能性がある。
それでか、選挙後、地上波に出演した党首は、自分たちのイシューが達成できたら解党すると発言していた。

おそらく、別のイシューをかかげて、そっくりそのままあたらしい政党に看板をかけかえるのだろう。

すると、じつは有権者の側が、こうした手法についての予備知識をもっていなければならないのだが、この国の「民主主義」には、これをひろくおしえるという発想がない。

つまり、もっといえば、「喧嘩の仕方」をおしえない。

以前書いた「韓国発の英語教育革命」をひとりでやっているひとの言語と国民性の解説に、言語学習の前にその国の国民性をしるべきだというもっともな主張がある。

日本の学校で、英語をおしえない学校はないが、アメリカやイギリスの国民性をおしえているとは、寡聞にして聴かない。
彼女曰く、日本人はへりくだり。
韓国人は、せっかち。
英語を母国語にしているひとたちは、じぶん中心。

じぶんのことを「I(アイ)」としか表現できない言語であって、しかも、かならず主語が最初にないといけないルールだから、名前だってじぶんの名前が先で、所属する家の苗字があとになる徹底ぶりなのだ。

ついでにいえば、日本の学校で「アメリカ」という国のなりたちをおしえない。
最重要同盟国の相手がどんなふうにできているのかをしらないで、わが国の価値感だけでいろいろいうのは変だと気づかないのは、やっぱり変だ。

そんな彼らは、学校でさらに、議論の仕方をおそわる。
それが、ディベートだ。
あるテーマについて、賛成派と反対派にわかれて、あいてをねじこめる議論の方法をたたき込まれる。

じぶんの意志が賛成か反対かに関係なく、役割としてあたえられる。
日本では「論理力」が注視されているが、そんな「へりくだり」は無用で、たんに「喧嘩の仕方」をおしえているのである。

子ども時分からこれをおそわる国民の言語が、自分中心なのだから、どんなお国柄になるかは自明であろう。

日本では外交は外務省という役所がおこなうことになっている。
しかし、国民の参加意識がけっきょくは「外交力」となる。
外交の延長線上に軍事があって、その先に戦争があるとかんがえるのは世界の常識だ。

そんなわけで、国民意識が希薄な国の外交が「弱腰」になるのは当然で、国家間の「喧嘩」であるまともな外交ができるわけがない。
外務省の官僚がダメなのはあたりまえだが、それを叱りつける国民意識がなければ、官僚たちは国を売ろうがほおかぶりするばかりとなる。

そうやって、喧嘩の強い国に収奪されて、国民が貧乏になるのも因果応報なのである。

書店がきえる

またひとつ、近所の書店が閉店になった。

たしかに、近年、書店にいく機会がめっきりへったとはいうものの、なくなるのはこまるから、消費者とはわがままなものである。

アマゾンでの本の購入は、新刊だけでなく古書もある。
しかし、時間があるとき、散歩がてらに古本屋に寄るのが、あんがいたのしいのは、ほう、という発見のよろこびがあるからだ。

検索には、パッシブな検索とアクティブな検索の二種類がある。
潜水艦でいう、パッシブソナーとアクティブソナーとおなじだ。
パッシブは、むこうからやってくる情報をとらえることで、アクティブとは、じぶんからとりにいくことである。

だから、ネットでの検索は、基本的にアクティブで、書店での検索はパッシブになる。
ぶらぶらと書店を歩きまわるだけで、めずらしい本をみつけることができるのは、まさに「ならでは」だ。

ネット書店を猟歩しても、リアル書店のような「発見」はむずかしい。
それで、わるい消費者は、リアル書店で見つけた本をネット書店に注文したりして、リアル書店の売上に貢献しない。

そんなわけで、リアル書店の営業がたちいかなくなって、けっきょく不便を被ることになったのは、消費者の自業自得だろう。

いっぽうで、書店側はどうなのか?
世界をみわたすと、「美しい書店」というかんがえかたがある。
これらの画像や映像をみると、行ってみたい、という衝動がうまれる。
もちろん、そこで売っている本を読むためのじぶんの語学力は無視してだ。

そして、おそらく、なにが書いてあるかはわからないけど、「美しい『本』」をみつければ、購入するだろうじぶんが容易に想像できる。
つまり、書店が「観光地」になる、ということであって、そこで売られている「本」が、観光みやげになる、ということを意味する。

ただ本を並べれば「書店」なのか?
それは、ただ魚を並べれば「魚屋」なのか?
ただ野菜を並べれば「八百屋」なのか?という問いとおなじだ。

日本が貧しかったころ、ということなのだが、じつは、ついさいきんまで「貧しかった」のだ。
戦後の混乱期は圧倒的な「物不足」を経験していたし、そもそも、その前からふつうに「物不足」だった。

石油ショックのときは、まだ新規の珍しさがのこっていたスーパーマーケットに、トイレットペーパーをもとめる混乱があったのも、「物不足」経験からの反動だし、東日本大震災のときのコンビニから商品が消えた状態もおなじ心理からだった。

なんのことはない、あいかわらず、貧しいのであって、わざわざむかしを思いださなくても、こころのかたすみにDNAのように、しみわたっているのが日本人なのだ。

公共放送が「買いだめをするな」とよそ行きのことばで連呼しても、だれも聴かないのは、上の発想がきえないからだし、ことばだけの公共放送の無責任をしっているからである。

だから、「もの」にこだわる。
「ものづくり」の「もの」もおなじだ。
作り手もそうだが、売り手の商店だって、「もの」を売っていると信じている。

それで、品揃えが豊富でないといけない、という発想になる。
神田の古本屋が「専門化」しているのに、新刊書は百花繚乱の店づくりになっていて、各コーナーの専門ですら深くない。
売れ筋の取捨選択がそうさせるのだろう。

「本屋大賞」も、本屋がじぶんで読んで掘り出し物の作品を紹介したかったのだろうが、ジャンルがせまくて魅力に欠けるから、売れている本とおなじになって、なんだか全体がうすまった。

古書店には、所轄警察から「古物商」の許可をもらわないといけないから、新刊書の本屋とちがう。
新刊書には、再販制度という特権があって、売れ残りは取次に返品ができるようになっている。

一見、書店のリスクがないし、そのぶん、あんまり売れそうにない本もとりあえず出版できる。
しかし、流通取引での競争がないから、業界が硬直化してしまうのは、必然的なことである。

そこに、アメリカから「アマゾン」がやってきたわけだ。
書籍という商品が、「通販」で市場をかくも荒らされるとは、だれもおもわなかったのではないか?

これに、「グーグル」もくわわって、アマゾン対グーグルという奇妙な戦いになっている。
アマゾンは「ネット通販」が本業で、グーグルは「ネット広告」が本業だからである。

つまり、書店という「もの」をあつかう商売が、べつの商売に翻弄されてしまったのは、制度のぬるま湯に浸かったまま、じぶんたちは何者かをわすれた結果だともいえる。

「美しい書店」しか、生きのこれないのか?
しかし、そこには「美しい本」がなければならない。
けだし、ただそこに「本」がある、だけではもう成りたたない。

消費者が欲する本はどんなものか?
時代は、「あなたへのおすすめ」の精度を、アマゾンとグーグルが競争しているのである。

すなわち、アクティブからパッシブへの転換がとっくにはじまっているということだ。
「本」を売っているというかんがえと、消費者が「買っている」ものがちがうのである。

消費者は、じぶんの知見がふえることを買っているのだ。
「本屋」は「本」を売っているとかんがえてはいけないのである。

「時代」をつくる世代とは

いつでも、現役のバリバリと指導者が組んで時代をつくる。
キーになるのは、指導・管理する世代がじっさいに時代をつくっていることだ。
それは、かつて若さとバイタリティーで、上司をものともせずバリバリはたらいていた世代が、指導・管理しているからである。

そういう意味で,「時代」は「生命」に似ている。
わたしたちの細胞は、じつは毎日のようにあたらしい細胞がふるい細胞と入れ替わって、数ヶ月で完全に入れ替わる活動をしている。
髪の毛も、歯も、内臓も、すべてあたらしい細胞にコピーされているのである。

白髪は白髪のままに、虫歯も虫歯のままに、コピーされるから、入れ替わっているという実感はない。
しかし、これは間違いのない事実なのである。

さらに、食物として体内に取りこんだ物質を、「消化」というエネルギー変換をおこなって、分子レベルで吸収し、体内での化学反応によって分子レベルでの不要物質だけを排泄している。

したがって、福岡伸一博士によれば、生命とは「エネルギーの流れである」という定義になる。
だから、このエネルギーの流れが停止し、細胞の活動が停止した状態を「死」というのである。

個体としての人間があつまって、集団をつくると、社会がうまれる。
社会の細胞は、個々の人間であるが、さだめられた寿命によって、ふるい人間とあたらしい人間が入れ替わっている。

これを、「学校」というくくりでみれば、小学校6年、中・高3年とは、厳しい「定年制」が実施されているともいえる。
ことしの新入生も、いつしか卒業するから、たえず学校は人間という細胞が入れ替わっていながらも、あたかもおなじ姿をしているように見える。

企業組織もまったくおなじだ。
組織を構成する人間は、人生の大半をこの組織のなかにうずめて、生計をたてるが、やがては組織から引退することになる。

だから、引退手前の「頂点」のときに、指導者の地位をあたえられたひとたちが、そのひとたちの人生経験にもとづく「時代特性」があらわれて、それをおおくのひとがたんに「時代」とよぶのである。
天才・中島みゆきの「時代」における歌詞は、まさに以上のことをあらわしているから「すごい」のである。

「高度成長期の」昭和をつくったのは、明治の気骨だった。
財界をけん引していた、文字通りの財界総理は、石坂泰三氏そのひとだ。
明治19年(1886年)生まれにして、経団連会長だったのは昭和31年(1956年)から昭和43年(1968年)だ。
なお、昭和50年(1975年)に鬼籍にはいっている。

わたしがおもう最後の財界人、土光敏夫氏は、10年おくれて明治29年生まれ、昭和49年(1974年)から昭和55年(1980年)まで経団連会長をつとめ、第二次臨時行政調査会会長になったのが翌年の1981年だった。

石坂が30歳になるのが大正5年(1916年)、土光が1926年(大正15年・昭和元年)である。
敗戦の昭和20年(1945年)は、石坂59歳、土光49歳だ。

厚労省が発表している平均寿命で、もっともふるい昭和22年では、男50.06歳、女53.96歳だ。
「平均」のこわさをしったうえで、石坂と土光はすでに「長命」の部類に入る。

石坂は昭和13年に第一生命の社長になっているから、52歳のことだし、土光は昭和21年に石川島芝浦タービンの社長になったが、それは50歳のときだった。

いまでも、50歳のはじめで大企業の社長になるひとがいるから、寿命を無視しても、このひとたちが「時代をつくっている」のである。
いま本人たちに、その意識があるかどうか、はわからないから残念な時代ではある。

すると、30年でおわる「平成」の時代をつくったひとたちとは、ざっくり50年を引き算すると生まれ年がわかる。
つまり、まちがいなく「昭和」になるのだ。

すると、平成元年は昭和64年だったから、昭和10年代(よくいう昭和フタけた)生まれのひとたちによって、平成がつくられたことになる。
すなわち、戦争孤児や「ギブミーチョコレート」世代であって、教科書が墨で塗られた心神に傷を負わされた世代でもあるのだ。

そしてなによりも、あのバブル期を組織の指導者として仕切ったひとたちである。
わたしは、平成の停滞とは、このひとたちの人生や経験といったレベルまでさかのぼってかんがえないといけないとおもっている。

つまり、社会に出たときは高度成長に「なっていた」ので、それに便乗した世代でもある。
そういう意味で、ラッキーでもあり、経済は拡大するものと信じたひとたちだ。

これが、国家依存という弱い精神を呼びこんだのではないか?

「令和」とて、昭和からのがれることがしばらくはできない。
しかし、「令和」の途中で、「平成」世代がでてくることになる。

さて、バブル崩壊以降にうまれた平成世代は、浮かれた景気をいちども経験したことがないという特徴がある。
このひとたちは、アンチ昭和をただしく導くことができるのか?

「哲学」が問われる時代をむかえている。
ところが、1980年代からはじまる30年にわたる「ゆとり教育」世代でもあるのだ。

この世代をつくったおとなたちは、どの世代なのか?

もはや祈るしかない。

経済同友会はだいじょうぶか?

昨日、経済同友会代表幹事の小林喜光三菱ケミカルホールディングス取締役社長兼三菱化学取締役会長兼地球快適化インスティテュート取締役社長が、消費税率は14~17%まで引き上げないと国の(財政再建)目標は達成できないと述べたという報道があった。

このひとはもともと、化学人である。
三菱化成に入社した翌年に、東京大学から理学博士号をうけている。
それで、放射性物質の反応がすすむ福島原発をかかえた東京電力や、どうにもならないジャパンディスプレイの社外取締役も引き受けたのだろう。

冒頭の報道は、政府というフラスコのなかで、財政をおさめる反応には増税でのおカネを投下しないと、ちゃんといかないと発想しているのだろうとかんたんに予測がつく。

だが、この「実験」には、化学実験とことなる条件があって、それは、政府のコストをコントロールする政治の可能性をいう。
つまり、完全成り行きベースなら、財政再建にはおカネがいるといいたかったはずだ。

そんな政府よりのトンデモ発言をしていいのか?
と、経済評論家の百家争鳴議論はつづくだろう。

ジャパンディスプレイは、「中・台」の会社にバルクで売却されるのがきまったから、損は確定した。
しかし、問題は東京電力である。
福島の処理にいくらかかるのか?

そこで、おもいきり穿った視線で書いてみる。

2016年に経産省は、11兆円が22兆円になるとの試算結果を発表している。
この内訳として、廃炉費用が2兆円から8兆円になるといったのだ。

ところが、トリチウムの汚染水がたっぷりでてきていて、原発周辺がタンクだらけの状況で、間に合わない分は海に棄てるはなしまであったのはこの間のことだ。
もちろん、地元自治体と漁協関係者が、納得するはずがない。

外国も納得していないと、この間のブログで書いたし、じっさい韓国はふたたび「輸入拒否」を表明している。

それで、この処理をどうするのかというときに、画期的技術がないから、「ふげん」で開発された技術をつかえば、1トンあたり2000万円なので、すぐに兆単位の増加が計算できる。

わたしは、とある講演で国立大学の原子力技術の専門家である教授が、「わからない」けど「ざっと70兆円」というはなしを聴いたことがある。

じつは、この「わからない」には、金額の見積もりだけでなく、時間もふくまれていて、おなじ教授が「おおむね最低1000年」と発言した。
だいたい百年単位であたらしい技術が確立されるはずだから、1000年でも10回しかあたらしい技術に期待できない。

となると、1000年で70兆円なら、一年でいくらなのか?
とはいかないから、現在をもって、はっきりわからない、というのがほんとうなのだ。

むしろ、科学を志望する学生を、原子力事故の後始末というしごとに、1000年間ものあいだ人材をたやさずに供給できるのか?
それは、どんな仕組みで可能なのか?さえも、見当がつかない。
「源氏物語」は、1000年間読み継がれてきたが、ことはリアルな事故処理なのだ。

だから、きっと小林喜光氏は、化学人としての矜持をかけて、まずはおカネがかかるから、消費税の増税はすくなくても年金や医療費につかうのではなくて、事故処理に必要なのだと主張したにちがいないとかんがえる。

つらいのは、ここで述べた事実を、こわくてだれも言わないから、ただ「増税容認発言をした」という、部分を切り取っただけのはなしになってしまい、きっと労働界や消費者からも反発をうけることになるのが歴然だからだ。

「今日の事故現場」という報道などだれもしないし、「風評被害」になるといってむしろ遠ざけるのだろう。
中途半端な知識しか国民にあたえず、溶け出した「デブリ」を取りだす作業がうんぬんという報道も、わかったようなわからないような。

そもそも、放射能たっぷりの「デブリ」を取りだしてなにがしたいのか?
ひとが近づくことも触ることもできっこない。
それで、「廃炉」が進んでいる、とでもいいたいのなら、国民は「1000年」をどうやって耐えるのか?

わたしたちは、そういう国に住んでいるのである。

ダチョウは敵から逃れて、もうだめだと判断したら、すさまじいはやさであのちいさな「頭」だけがかくれる穴を掘って、そこに頭をいれて敵がどこかに行くことを待つという。
もちろん、敵がそれでダチョウを見失う可能性などありはしない。

見えなくなれば、こわくない。
一瞬の平穏ののち、このダチョウはエサになる。

わたしたちは、ダチョウになってしまったのか?

経済同友会は、この深遠なる代表幹事の発言を、ダチョウとしてではなく、人間として受けとめられるのだろうか?
おそらく、ダチョウの会員もいるだろうが、ぜひとも「だいじょうぶ」なすがたで、つぎは国民をダチョウから人間にもどしてもらいたいものだ。

経団連と政治という化学反応がとまってしまった国の、せめてもの希望が経済同友会である。