論理より情緒を優先させるエリートたち

これは、日本語という言語のせいなのか?とさいきんとみにかんがえるようになった。

日本語の美しさとは、情緒にある。
そのおそろしくも繊細な表現は、他の外国語にはみられない。
まさに、「もののあわれ」という感覚こそ、日本人の日本人たるゆえんだろう、と。

平安王朝文学が発祥とはいうものの、いまにいたるまでの日本人の行動様式までも規定している基盤の感情・情緒となると、はるか以前からこの島国に住んでいたひとたちの、独特な感情・情緒が、たまたま平安王朝で花開いたというべきなのだろう。

こうした感情・情緒の基盤に、外国からやってきた儒教という「学問」が、強化剤になって、盤石の精神安定をつくりだす。
それが、「武士道」なのだろう。

儒教の発祥地では、とうぜんいまでも「宗教」という位置づけだから、信じるという感情・情緒そのままにストレートである。
しかし、これが日本的変容となるのは、もとの「もののあわれ」と結合した化学反応となるからで、儒教を宗教ではなく「学問」にしてしまう。

だから、論語は聖典ではなく、情緒や人生訓をまなぶ教科書になった。
学問をおさめたものが身分にかかわらず登用される、という裏に、幕府の人材枯渇という問題があった。
それで、「湯島聖堂」がたてられるが、「聖堂」という建前には、宗教っぽくしてじつは「学問」がホンネのネーミングだったとかんがえれば辻褄が合う。

ここに集められたエリートたちは、けっして「宗教家」をめざしたのではない。
むしろ、将来の幕閣としての教養をまなびにきていた。
だから、発展的に東京大学となって、さらに東京帝国大学になる。

さいしょにできた「東京大学」は、その後の「東京帝国大学」とも、とうぜんいまの「東京大学」ともちがう。
ぜんぶ略せば「東大」になるから、勘違いの原因となっている。

明治10年(1877年)から明治19年(1886年)までの東京大学こそ、わが国の選良=エリートがつのった大学であった。
なぜなら、わが国に唯一の大学であって、教授のおおくが外国人だったから、授業のほとんどが外国語で、つまり「洋学」=「論理」教育がおこなわれていたのだ。

このときの卒業生たちが、その後の「帝国大学」で教授職となるから、たった9年間ではあるが、マザーマシンのような存在だったのだ。

帝国大学ができても、「東京大学」をそのままにすればよかったが、政府はそれをせずに「東京帝国大学」にしてしまい、東京大学でまなんだ学生を、「自前」の教授にした。
こうして、お雇い外国人教授の需要がへっていく。

政府が帝国大学をつくったのは、明治政府の高級官僚を武士階級からだけの採用では足らなくなったからである。
西南戦争は、明治10年だったという時代背景をかんがえればいいだろう。

つまり、帝国大学設置のころの明治政府は、政府行政機構が膨張する時期でもあるのだ。

江戸から明治になったから、突然個人の生活が激変なぞしない。
ましてや、郵便制度も電信もない時代だ。
突然世の中が変わるのだと信じた、山奥の情弱だが生真面目な人物が発狂にいたる物語が、島崎藤村が実父を描いた『夜明け前』であった。

   

しかし、「情弱」のいみがいまとはちがう。
木曽の山奥だから「情弱」なのは、通信手段がなければしかたがない。
それよりも、発狂するほど平田篤胤の国学という学問知識に傾倒していたのが主人公である。

すなわち、情緒に傾倒したから、現実とのギャップに押しつぶされた。
では、現実に論理はあったのか?
それもない。

江戸時代の教育の基本は、儒学(朱子学)と国学を柱とし、幕末になって儒学(陽明学)が一大ブームになる。
だから、それなりの上流階級(庄屋や大商家をふくむ)では、子弟教育の基本「漢籍素読」や「国学」が急激に変化したのではない。

それゆえ、明治42年(1909年)生まれの中島敦にも、漢籍の素養が残ったのだろう。

しかして、戦後、新制学制による民主教育では、「漢籍素読」の復活どころか、よりやさしい現代文による「情緒」の教育がじっしされて、「論理」がないがしろにされたのは、占領政策の目的から当然のことである。

こうして、学問として「論理しかない」理系はまだしも、文系における論理は「法理」だけになったから、西洋人の言語の論理に対抗できない低レベルの「論理」をもって支配できるのがこの国の特徴になった。

官民あげての文系人間が原因の不祥事は、論理の欠如ではなくて「ゆがみ」とか「勘違い」という、子どもじみた幼稚さにこそあるのは、情緒優先がそうさせているのである。

そんな文系人間が、官庁や企業の理系人間を「予算配分」という支配下におさめている。
こうして、論理こそが近代自然科学の骨格なのに、それを情緒で支配するから、現実においつかない。

30年前、アメリカを一瞬でも抜き去ることができたのは、「論理」のかけらがあった世代のおかげであった。
中国に抜き去られたのは、彼らの論理にわれらの情緒が対抗できなかったからである。

それでも懲りずに、情緒の支配はつづく。

トランプのアメリカをみならえ

25日から令和初の国賓でやってくるのが、アメリカ合衆国大統領でよかった。
しかし、ちゃっかり中国のえらいひとにも声かけしていて、これを「バランス」というなら、かなりおめでたい頭脳だろう。

ふるいタイプの自民党のえらいひとたちが、いまさらむかしの成功体験をおもいだしているらしい。
もちろん、共産党が支配する中国がだいすきな野党のひとたちも文句をいうはなしではない。

米中の「経済戦争」は、とっくに「新・冷戦」になっているし、アメリカ側の意気込みは民主党の有力上院議員までがトランプ政権にエールを送るまでになっている。
そんな条件がととのったなかでの来日だから、「おまえどっちむいてんだ?」のひとことで、ゴルフどころではなくなるだろう。

ロシアとの関係がうんぬんされたトランプだったが、中国との関係がしっかりできていた「クリントン家」にとって、もはや民主党からも切り捨てられたのか?

そのアメリカ経済は、絶好調といっていいほどの歴史的な好調だから、民主党も文句をいえない。
ここが、いさぎよいところでもある。

トランプが就任以来やってきた政策は、オバマ政権がしたことのちゃぶ台がえしばかりであった。
しかし、それはあんがい単純で、以前書いたとおり大規模減税と規制緩和だけなのだ。

ただし、この「規制」には、オバマケアという社会福祉政策もある。
国家が社会福祉を充実させようとすることも、「規制」とかんがえる自主独立の精神こそ、ほんとうは健全なのだ。
「国民皆保険」は、国家が個人生活に介入する、いやらしい制度だから、健康増進法なるいかがわしい法律ができるのである。

だから、この真逆をいくのがわが国で、消費税増税と規制維持である。
アメリカで大規模減税ができるのは、議会に予算策定権限があって、財務省という役所には、執行権限しかないからである。
執行権限とは、つまり「支払」という事務のことである。

大統領がいいだした減税策を議会が了承すればとおるのだ。
それに、財務省には徴税権限もない。
連邦歳入庁という役所がべつにある。

日本でもこのしくみをいれるべきだという議論はあるものの、徴税権限も手放していない日本の財務省がこわくて、えらいひと=収入がたくさんあるひとたちが、政界・財界・学会をとおして声をあげないということがおきている。

アメリカのいうとおりにしたら、へんな憲法ができた。
どうせ日本の弱体化が目的だったからどうでもいいと、じつは本国からGHQに派遣されたひとたちのおおくがコミンテルンの関係者だったからだということがわかってきた。

ところが、戦後しばらくしてどうして連合国の味方にソ連がいるのだ?とやっと気がついて、やっぱり日本を育ててソ連の防波堤にさせようとしたが、いまさらできたばかりの憲法まで変えられなかった。
だから、このさいPL(製造物責任法)の精神で、トランプに「修正せよ」と命じられたほうがわかりやすい。

こんどは、本国の憲法によりちかくなれば、政府の大改造が可能になる。
けれど、それは「前例がない」から、勉強エリートの官僚たちにはできないので、やっぱりアメリカから指導員がやってきて、手取り足取りなおしてもらうのがいちばんいい。
ついでに英国からも呼んでくれば、ちゃんとした立憲君主国になれる。

それは、独立国のやることじゃない、といういっぱしの批判もあるだろうが、どこが「独立国」なのか?ちゃんと説明してもらいたいものだ。
立憲民主党のひとたちが立憲君主国をめざしているとはおもえないから、「立憲」のメッキもはげて国民にはわかりやすい。

さて、民主党までとりこんでアメリカを本気で怒らせた北京のえらいひとたちは、えらい間違いをしでかしたらしい。
それは、今月15日の日本経済新聞がすっぱ抜いた記事にある。
この中国の荒っぽいやりかたは、国内でなら通用するのだろうが、国家間で、しかも相手がアメリカなら、通用すると期待した方がおかしい。

ただし、相手が日本政府なら、ヘナヘナと通用するだろうという期待に、実績がついているから、じつにたちが悪いのは歴代の日本政府の方である。北京から逆恨みされそうだから、親中のひとたちは注意されたい。
そんな政府に誰がしたかといえば、われわれであるからイラつくのだ。

さて、なんであれこの「新・冷戦」は長丁場が予想される。
かつてのソ連を引きずりおろした成功体験がアメリカにはあるから、これをもっと高度に応用した戦法がつかわれるにちがいない。

前の冷戦は40年ほどかけて終結した。
こんどはいかほどか?
それには「終結」の定義があらかじめ必要になる。

・習政権が終了する
・共産党独裁が終了する
・国家の分割がはじまる

どれも一大事件だが、すくなくても「前例」からすれば、後の二つであろう。

こうなると、中国に対抗するベトナムをふくめた東南アジアで、いま親中の国にも影響するのは必至だから、「発展するアジアの時代」の中心がもっと西か東にうつる可能性がある。

日本がアジアの盟主でいられる条件が、中国の台頭ですっかりうしなわれたが、なんとふたたびの大チャンスの到来ともとれる。
すなわち、中国を蹴り落とすチャンスなのだが、おぞましいことに経団連は中国のいう一帯一路に協力したいというから、狂ってる。

だからこそ、はやめにトランプ大統領から「命令」されて、国家の大改造をしないと間に合わない。
「経団連は解散したらどうだ」とトランプが発言したら、爺さんたちはどんなかおをするのだろう?是非とも期待したい一言だ。

なるほど「命和」の「命」とは、そっちからのことだったか。

マグネシウムで洗濯する

洗剤を使わないのに洗濯できる、という製品は「洗剤」ではないのか?という野暮はやめて、じっさいにつかってみたら、すこぶるよい。

ちいさな洗濯ネットのなかみは、純度の高いマグネシウムの金属チップがゴロゴロはいっているだけだ。
つまり、ふつうの洗剤とおなじで、化学的によごれを落とす、という機能を買うことになる。

しかし、いわゆるふつうの洗剤とちがうのは、界面活性剤やその活性力をたかめるための酵素とかがはいっているのではなく、ほんとうに「マグネシウム」と水道「水」を化学反応させて、アルカリ性の「石けん水」にすることで、衣類のよごれを分解して落とすことにある。

その化学反応は以下の計算式となる。

Mg(マグネシウム)+2H2O(水)=
Mg(OH)2(水酸化マグネシウム)+H2(水素)

なにかと話題の水素が発生するから、水から水素が抜けるということで、アルカリ性になるわけだ。
水素イオンがたくさんあれば「酸性」、水素イオンと水酸化物イオン濃度がおなじなら「中性」、水酸化物イオンがたくさんあれば「アルカリ性」になることをおもいだそう。

ところが、マグネシウム自体も反応によって水酸化マグネシウムになるので、永遠にこの化学反応がつづくこともない。
使いつづけているうちに、マグネシウムが黒く変色するのは、表面が水酸化マグネシウムになったからで、さいごはチップ全体がそうなってボロボロになる。
ただし、水酸化マグネシウムにも毒性はなく、むしろ畑の肥料になるから、そのへんに棄てても問題はないだろう。

つかっている途中、それをもとにもどすには、酢酸などのよわい酸につけるとよいのは、酸化還元させるという意味だ。

だから、洗濯をくりかえすうちに効果がよわくなるのは、マグネシウムが水酸化マグネシウムになるからで、それを放置すれば、当然だが水道水がアルカリ化しなくなるので汚れの落ちもわるくなる。

どのくらいのアルカリ度ならいいのか?
おそらく「ph9」以上はほしい。
しかし、家庭にphを測定する器械なんて常備していないから、なかなかわからない。
それが、このての商品を「あやしい」と感じる根拠になるのだろう。

便利な世の中になって、デジタルph測定器もネット通販なら2,000円しないで手にはいる。
毎日の洗濯に洗剤をつかいたくないというひとには、こうした機器で洗濯機の水のph濃度を測ることができれば、より納得度があがるだろう。

ただし、じぶんの家の洗濯機の水がどのくらいの量のマグネシウムで、どのくらい撹拌すればもとめるph濃度になるかは、やっぱりためしてみないとわからない。

そういう意味で,ph表示がある洗濯機はできないものか?
もとめるph濃度に達してから規定時間の洗濯時間を運転してくれれば、これは便利、となるのだが、いそがしいひとにはがまんできないかもしれない。

さらに、「マグネシウムの酸化還元もできて、交換もかんたんな洗濯機」が開発されれば、消費者としてはうれしいものだが、洗剤メーカーに気をつかって製品化されないかもしれない。

もちろん、各家庭に直結されている水道水のphだって、地域によってちがうはずだから、ちゃんと測定すると必要なマグネシウムの量もちがってくるはずだ。

こうやってかんがえると、利用する消費者側にも、作り手のメーカ側にも、それぞれの事情があって、簡単ではないのが「マグネシウム洗濯機」ということになる。

もちろん、これに上水を提供する自治体の事情と、下水処理をする自治体の事情もからむから、かんがえだすとキリがない。
水道局の内部も、上水と下水ではたちばがことなる。

ほんとうは便利なはずなのが、なんだか面倒なことになるから、ふつうの洗剤をつかうほうが楽である。

これに、柔軟剤や芳香剤という需要もあるから、「洗濯」の自由を「選択」の自由として確保することは、あんがい困難なことだ。
だから、自由がいちばん合理的なのだともいえる。

上述した「マグネシウム洗濯機」が製品化されたとして、これをつかうひとたちは、専業主婦の奥様たちだという認識ができると、共働きで洗濯の時間を短縮したい家庭には、一種の「格差」すら感じさせることになるだろう。

すると、そんな「格差」を自慢したい国柄のひとたちにには売れるだろうから、輸出専用か、海外生産専用になるかもしれない。
それで、日本に逆輸入されるなら、もっと「格差」の象徴になるだろうから、ややこしい。

海外子会社につくらせるのが、現実的なのだろう。

いや、日本企業にそんな度胸すらもはやないとおもう。

消費税反対マンガ

さいきん「消費税反対マンガ」をネット上でみつけた。

『私立Z学園の憂鬱』というシリーズで、アテレコつきのバージョンとマンガバージョンがあって、一方はユーチューブ、もう一方はウェブサイトにある。

へたな評論家の解説よりわかりやすいのが特徴だが、わかりやすいからといって読者に媚びてはいない。
むしろ、各種資料の正確さと、もちろん論理の構造は、これまでにないクオリティではなかろうか?

作者は、拡散希望、としとしているから、本ブログの読者にもぜひ拡散されたい。

むかし、「マドンナ旋風」なる国政選挙に「風」がふいて、土井たか子社会党がさいごの輝きをみせたとき、たしかに「消費税反対」のワンイシューで、大量の議席を得たものだった。
「わるいものはわるい」という絶叫も、なんだか頼もしかったものだ。

しかし、国民は「どうして消費税がいけないの?」という問題を解いたわけではなく、むしろ、気分に乗っかったというのがただしく、この選挙のつぎの選挙では、「マドンナ」たちの姿はみごとに国会から消えてしまった。

『私立Z学園の憂鬱』では、主人公の女子高生が、「どうして消費税がいけないの?」に、さまざまな角度から回答している。
だからといって、ホンモノの女子高生がこの主人公のような回答ができるとはかぎらないが、ホンモノの国会議員だった「マドンナ」たちよりも、知識と度胸にすぐれていることはたしかだろう。

主人公と議論して、そして、みごとに論破されることが、ゲスト出演者たちのパターンになってはいるが、論破される側の自信に溢れた態度も、そのほとんどが「財務省」による洗脳と、つくられた社会的地位にあるのだわかると、痛快かつマンネリである。

とくに「ケイ団連会長」が出演する回では、消費税を大企業は払っていない、という微妙な表現がある。

消費税を負担しているのは消費者だから、大企業の商品やサービスを購入した消費者がしはらった消費税は、「預かり金」として「負債計上」されることになっている。
だから、消費税の納税期日まで、企業は「資金」として運用利用はできても、基本は耳をそろえて払わなければならない。

しかし、公共の施設での消費のばあい、消費者がしはらった消費税が、公共の事業者からいったん納税されるものの、「還付」として公共の事業者にもどってくる仕組みがある。

この公共の事業者がやっている事業が、民間の事業と変わりがないばあい、これをほんらいは「民業圧迫」という。
地方自治体のどちらさまも、一般消費者からおかねを受けとる収益「事業」もはじめているから、さいきんでは「民業圧迫」は死語になりつつあるのに、実態はあからさまにやっている。

また、作品中、輸出産業のばあいの消費税還付を指摘しているのは、事実であるが、だからといって還付をうける企業の直接的批判にはならない。
むしろ、消費税分の取引価格の値引き要請が問題なのだ。

この値引き要請ができる理由に、消費税を自社がはらっている「経費」の一部だという現場責任者の勘違いがある。
それで、「会社のために」消費税分を取引先企業に値引き要請するのだ。
消費税は消費者が負担する、ということを忘れた結果だが、根本に社内教育の不備が原因だといえる。

消費税の税収が法人税減税とバーターになっている。
これは、作品中の高校生にバカにされるほど単純な操作がおこなわれている。
作品の高校は超エリート校という設定だから、じつは先輩たちはなにをやっているのか?という不審につながる疑問だ。

本作よりはるかに「軽い」設定であったが、2008年に放映されたドラマ『パズル』も、超エリート校を舞台にしていた。
自分たちより頭のいい人間はいない、という高校生たちの「思い込み」が、トンチンカンをうむ物語だったが、本質はおなじである。

財務省という、この国に「自分たちより頭のいい人間はいない」というかんがえをする集団が、社会のすべての面でトンチンカンをうんでいる。
とにかく、トンチンカンたちが国家予算を査定してつけるのだから、各省各庁にもれなくトンチンカンがコピーされるのは、マンガよりわかりやすい。

さてそこで、問題である。
この『私立Z学園の憂鬱』における「消費税反対」の論に、あなたならどんな「反論」をするのだろうか?
あるいは、どんな「反論」ができるのだろうか?

じぶんはあの「マドンナたち」とはちがう、なら、主人公を「論破」できるものかに挑戦するとよいだろう。

あんがい、主人公の主張を「強化」する論法の方がおもいつくかもしれない。
それが、また、トランプの経済政策に似ているなら、さあ、どうかんがえることにしましょうか?

地上波をみても時間のムダだが、ネットにはいがいなネタがころがっている。

「出エジプト記」のニッポン

旧約聖書をどのくらいの日本人が読んだことがあるのかといえば、あんまり読んだことがあるひとはいないだろう。
日本でも、高級ホテルのナイトテーブルやベッドボードに、聖書と仏典が置いてあったものだが、それらホテルの経営者が、これらの「本」を読破したはなしを聞いたことがない。

経営者にとっては「インテリア」のひとつなのかもしれないが、これで「思いとどまる」ひとがいるのは事実のようだから、客室管理者からすると重要な「本」なのだ。

もちろん、「本」を寄贈してくれる団体は、それが布教活動の一環でもあるし、すでに信者になっているひとへのアフターケアでもある。
厳しいビジネスの世界にいきるひとたちが、高級ホテルの顧客だから、つまずいたとき、自室で「本」を手にしてこころを落ち着かせるひともいることだろう。

そんな信仰をもったひとが、ある意味うらやましいとおもうこともあるが、まず、日本人のおおくは外国人のいう「信仰」を意識的にもってはいない。

娯楽と教育がむすびついて、映画全盛期にはいろいろな「名作」がうまれたが、なかでもこの手の作品のトップは『十戒』(1956年、アメリカ)であろう。

63年前の大スペクタクルは、いまでも一見の価値は十分すぎるほどある。
この作品を鑑賞してから、「本」を読めば、よりいっそう理解がふかまること、まちがいない。

わたしは、この作品にでてくる「モーゼ山」に四回ほど登ったことがあるけど、映画で描かれている山のかたちがおなじだったことに感動した。
ふしぎと、「モナ・リザ」の背景も、モーゼ山にみえるのはなぜだろう?

聖書では、この山頂で「十戒」を授かる。
ところが、下山してみるとエジプトからいっしょに逃げてきた人びとが、浮かれて好き勝手なことをやっていた。
それで怒ったモーゼは、神が十戒を書いた石板を投げると、そこから大地が裂けて、わるいかんがえの人びとを滅ぼすというシーンになる。

まったくおそろしい神様で、創世記の「ノアの箱舟」もそうだったが、全滅させられるのである。
日本映画だと『大魔神』が1966年からの三部作であるが、こちらは、わるいひとだけをやっつけるから、人間に奉仕する神様だ。

これが後世「予定説」となって、カルヴァンが提唱することになる。
つまり、決めるのは「神」であって、ひとではないから、生前に善行をつもうが、最後の審判に影響しない。
そのひとが生まれたときに、神は天国か地獄行きを「予定」したからだ。

ここから、マックス・ヴェーバーの世界的に有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が構成されていく。
ところが、大権威のマックス・ウェーバーのこの説をひっくり返したのが、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊-』だった。

 

そんなわけで、資本主義はどうやってうまれたのか?
ということが、いまだにわからないことになっている。
人類史の不思議のひとつに、「資本主義の成立」があるのだ。

この「よくわからないもの」を批判したのがマルクスたちだったけれど、こんどは未曾有の厄災を人災としてまねいてしまった。
けれども、伝統的に日本のエリートはマルクス親派だから、よくわからないままの資本主義が大嫌いなのである。

エリートとはどんなひとたちなのかをかんがえると、ちゃんとしたひとたちのはずなのだが、その思想基盤にマルクスへの親近感があるから、じつはちゃんとしていない。
このなんちゃって状態につけこんでいるのが、お笑い芸人たちで、マルクス親派の発言をするとそれっぽくきこえるようになっている。

これを、マルクス親派のマスコミが電波をつかってたれ流して、国民のおおくをマルクス親派に仕立て上げている。
これは、国家をあやつる官僚たちにも都合がいいから、放送法で放送局をイジメたりしない。

これは布教活動なのだろう。
けれども、その対象となる「神」は、聖書の神ではなくて滅ぼされる人びとが信じた「神」だろうから、あぶないのである。

どんな饗宴や狂宴をしていたのか?
映画『十戒』のシーンがおしえてくれる。

あたらしい経済学?MMT

あまりにもわが国の経済に、むかしからのアメリカ主流派経済学のセオリーが効かないものだからかしらないが、かってに向こうで「すでに日本はMMTの実験をはじめている」と信じているようだ。
そうではなくて、わが国経済モデルがすっかり社会主義経済になったから、資本主義の主流派経済学が通用しないだけだろう。

インフレがおこらなければ、政府債務はいくらでもふやせる、とういうのがMMTの基本的なかんがえかただ。
アメリカの左翼経済学者が主張しいるのは、ケインズを前面に出せなくなっても公共投資の強化に便利だからだろう。

日本では、アベノミクスによる日銀の金融緩和で、おそるべき資金を市場に提供してきたが、ぜんぜんインフレにならない。
日銀による資金の提供方法とは、日本国債の買い入れ、とか、日本株の買い入れ=購入分のおカネを市場へ提供するものである。

これでどんな「効果」がうまれたのか?
日本国債の市場が、日銀の買い入れを前提とした「市場」になった。つまり、自由な取引がほとんどない、という状態になった。
また、同様に、日本株の市場も、事実上日銀が買い支えているから、株価が経済状況をモニターするものではなくなっている。

だから、あいかわらず「日経平均が」どうのこうのといっても、そのどうのこうのは、「日銀さま~、おねが~い」としかきこえない。
これに、黒田総裁が目の下にクマをつくって、まだまだ緩和しま~す、というのだから、もう病気だ。

こんなになんかいろいろやっているつもりでも、新築の住宅にしか資金供給しないから、とっくに住宅バブルが発生している。

金融危機を始末したけど、フラフラになったアメリカ経済を立て直したのは、日本のマスコミはいいたくないがトランプだ。
かれの経済政策は、あんがい的を射ていて、就任してすぐさまやったのが「大規模減税」と「規制緩和」だった。

アベノミクスの学問的指導者だった浜田宏一先生も、とっくに「金融緩和」より、「減税」がきくと転向してしまった。
これには前例があって、大幅減税と規制緩和も、次元をこえたレベルで=過去のしがらみにとらわれず、実行したのは、トランプとおなじく共和党のレーガン政権だった。

けっきょくのところ、民間の力を信じるかそうでないかで決まるのだ。
民間の力を信じるアメリカと、ぜったいに民間はバカばかりだと信じる日本のちがいが、ここにきてはっきり勝負がついてきた。

ほんとうに日本経済をよくしたい、というなら、財務省を解体するしか方法がない。
ところが、税務署がこわくて野党もこれが言い出せない。

政府は民間がうごきやすいようにする計画をしろ、といったのがハイエクで、政府は経済運営計画をたてて民間に命令しろという社会主義とは真っ向180度のちがいがある。

これが、バブル崩壊から30年もの停滞をつくった原因の本筋だ。
なのに、まだこれをつづけようという安倍政権のかわりがないという無様で、それは野党の無様でもある。

国民はあたらしいか、ふるいかにかかわらず、もうかる仕組みがほしいのだが、それは、単純に、政府=役人がもっている数々の権限・規制を撤廃してほしいにつきるのである。

消費税率をあげるか現状の維持なのか?がいろいろいわれているが、このさいMMTでいけば、消費税をゼロにしたっていいのである。
同時に、政治家は、社会保障費の構造にたいして、従来の制度が適用されるひとたちと、そうでないひとたちとにわけて、そうでないひとたちには民間の保険やじぶんで積み立てることを利用するように仕向ければよい。

デジタル決済を利用するなら、消費税の減税分を自動的に積み立てるような金融商品ができたっていい。
こうしたサービスの導入しか、わが国でキャッシュレス決済が普及しないのではないか?

ぜんぶを国家が面倒をみるというイリュージョンを、はやく「できない」と表明することが、この国を救うのだ。

けれども、それができない。
国民を「国家依存」させることこそが、国家権力のエネルギー源だったからだ。

すると、国民側は、いつ何時でも、国家をたよらないで生きていけるように自己防衛していないと、平気で「棄民」されてしまうリスクがあることに気づかなければならない。

妙な損得勘定しかしないやからが、イギリスのブレグジットを「大損だ」というが、誰にとっての大損なのかという主語が抜けている。

すくなくても、英国人が損をする、といいたいのだろうが、それなら「ブレグジット党」の支持が既存政党をはるかに抜き去っている現象をどうやって説明するのか?

この政党は、「合意なき離脱」をうったえて、それが国民にひろく支持されているのだ。
保守党の「玉虫色の離脱案」や労働党の「離脱反対」が、まったくの支持をうしなってしまった。

来週22日のEU議会選挙にイギリスは参加を表明せざるをえなくなったが、7月に下院が議決をめざすというから、「リーマン級」のショックがおきる可能性がある。
それは、「合意なき離脱」を意味する。

こうして、わが国の秋の消費増税が見送られるとしたら、根性ある英国人のおかげである。

とうとう、課税問題までも「他人まかせ」になってしまう国になった。

20Wで一本5000円の蛍光灯

年末の大掃除からずいぶんと季節はずれの話題だが、リビングの蛍光灯を1年で交換する家はおおいだろう。
電気屋さんにはふるい管の回収箱があるから、棄てるのと購入が同時にできて便利だ。

たいてい「白昼色」だろうが、「電球色」をえらんでいるひともいるだろう。
じつは、こだわると、蛍光灯はけっしてあなどれないほど種類が豊富なのである。

さいきんはLED照明がノーマルになってきて、ちょっと肩身の狭い蛍光灯である。
日本政府は例によっての上から目線で、白熱電球の生産をやめさせた。
こんなことは、作り手のメーカーがじぶんで決めればよいことだから、お節介ではなくて、たんなる余計なお世話である。
どうしても、民間に「命令したがる」習性がかわらない。

白熱電灯を伝統の吹きガラスでつくっていた会社は、倒産の危機をのりこえて、いまでは「うすはりガラス」としてグラス類で有名になったけど、このグラスの愛用者なら吹きガラスの白熱電灯をほしいとおもうが、なにせ「つくってはいけない」と役人がきめた。
まったく自由がない、変な国にわれわれは住んでいる。

あるとき、むかしからつかっていた電気スタンドの電球がきれてしまった。
白熱電球なら百均にあるけれど、たしかに「熱」を発して熱いから、なにげなくLEDに交換してみた。

すると、本の余白が「まぶしい」のである。
しばらくすると、目が痛くなる。
どういうわけかと調べたら、「波長」の問題がみえてきた。

「白」にみえるLEDの光源は、あんがい「青色LED」がつかわれていて、それを黄色蛍光体にあてて白くしているものがある。
つまり、眼精疲労で話題の「ブルーライト」が光源だということなのだ。
どうりで、目に突き刺さるような光である。

さいきんの自動車のヘッドライトも、LEDが採用されているので、夜間の運転にはそれ用のサングラスを着用している。
JIS規格に、夜間の運転に適合したサングラスがあるから、それなら違反にならない。

それでもこのところ運転免許の更新講習で、ハイビームの活用が指導され、ひとの話を早合点したり、応用がきかなくなったひとたちが、都市部でもハイビームのままにして対向車の運転手を幻惑させている。
夜間運転用サングラスをしていても目がくらむから、警察はこの指導をやめてほしい。

それにくわえ、LED照明はほとんど熱を発しないから、冬場の降雪がヘッドライトに付着しても熱で溶けない。
そのまま付着すれば、とうとうライトの役にたたなくなるから、寒冷地では敬遠されているという。

「適材適所」は、こんなところでもただしいのだ。

人間の目には、「虹彩(こうさい)」があって、人種によって目の色がちがう原因だし、その模様のかたちが一生変化しないから、セキュリティ・ドアなどにも応用されている。

この機能は、目にはいってくる光の量を調節することだ。
白人の目が黒くないのは、虹彩がそうなっているからで、かれらは強い光に弱い。

暗くて長い冬がある緯度の高い地域で何世代も暮らしていたり、土地は平坦なのにおそろしく深い森のなかにいれば、うっそうと茂った緑で薄暗い環境にずっといることになるからだろう。

だから、照明にどんな灯りをえらぶのかは、われわれ日本人にはかんがえられないくらい敏感かつ慎重なのだ。
このあたりまで気配りできている宿泊施設は、白人客からかなりの好印象をえるはずだ。

一個の裸電球の下で、一家が夕食をとる光景は、電気から灯りができるという世界史的状況下では、あんがい全世界共通だった。

電気のまえは「ガス」で、横浜の馬車道には、わが国最初のガス灯、として記念碑と復刻したガス灯二本に灯がともっている。
周辺のあかりがあるから、夜になってこのガス灯をみても、いまでは感動の一かけもないだろうが、当時は「昼のようだ」として、見物客があふれ露店がたったという。

若いころ電気工事をしていた父のはなしでは、東北のいなかにはじめて電気がとおって、各家に配線工事をしていたら、ある家の当主から、娘をやるから村で一番最初に電灯をともしてほしいといわれたことがあったといっていた。

35年以上まえになるが、エジプト最大のオアシス「シワ」を冒険したことがある。
カイロから自動車で二日がかりの場所で、クレオパトラがはいったという温泉跡があったけど、ちょうど、この地に電気がきた時期だった。

住人たちは、夜になると煌々と灯りをつけて、まぶしいほどの明るさをたのしんでいた。
毎夜22時に当局が街の電源をおとしたので、暗闇になれてくるにしたがって見えた天の川がわすれられない。

一個の白熱電灯のあかるさが、いかほどのものだったかを感じていたひとたちは、しあわせであったろう。

蛍光灯が発明されると、日本人は消費電力のわりにあかるい蛍光灯をこのんで、どの家も蛍光灯が白熱電灯にとってかわった。
しかし、蛍光灯のあかりを「まぶしい」と感じる目をもった白人は、これを嫌って室内に設置しなかった。

夏になると、太陽をもとめてやってくる北欧のひとたちは、とにかく「太陽光」がだいすきなのだ。
どうやら白人のDNAに、太陽光への欲求がうめこまれているようだ。
それで、太陽光とおなじ波長の蛍光灯をつくりだす。

これが、20Wで一本5,000円の蛍光灯だ。

読書用電気スタンドでもつかえる、同種のグルグル巻きの蛍光管を買ってつけてみたら、すこぶるよい。
まぶしくないから、本が読みやすいのである。
それで、わが家はリビングの器具にこれをつけた。

命令したがる「習性」の経産省が、白熱電球の製造をやめさせて、つぎは一本数百円の蛍光灯をターゲットにしたようだ。
未来の世の中は「LED」を大量生産させれば、付加価値もつくだろうという、あいかわらずの産業優先である。

この発想が、集積回路やパネルで大失敗したことをまだわからないらしいから、おつむのいかれ具合は深刻である。

個人優先で、とっても「高い」蛍光灯をアメリカの会社が東ヨーロッパの国でつくらせていた。
これを輸入して買うから、うそみたいに高価になるが、欲しいものはほしいのだ。

日本メーカーにも、「博物館・美術館用」とか、「色評価用」、「高演色」という種類の蛍光灯があって、ふつうのものより高価である。
目に悪くてものすごく高価なLEDなどつかうのをやめて、こうした理にかなったそこそこの値段の「蛍光灯」を情報強者層はえらんで自宅でつかっている。

つくるときの材料や工程を無視して、LEDの「省エネ」をおしつける経産省の法学部出は、どうしても科学となじめないようだ。
ハイブリッド自動車も、燃費はよいがその前にあるリチウム電池の製造と廃車後の回収を考慮して「エコ」だと定義しているとはおもえない。

「上質な」蛍光灯も輸入品をつかわないといけないのか?
それとも、国産のメーカー在庫があるうちに買いだめしておくか?

どうやら製品をつくることはできても、マーケティングができない無様が日本のようだ。
企業がマーケティングに疎いのではなく、役所がそもそもマーケティングをしらないからだ。

個人優先の思想体系がマーケティングだからである。

このようにしてソ連は滅んだ、を地でやっている。

市議会の改革者か?ただのピエロか?

北方領土のはなしから、こんどは札幌市議会での「事件」だから、なんだか北海道があつくなっている。

統一地方選挙後の初となる臨時市議会が13日に開会し、無所属の最年長議員である松浦忠氏(79歳、9期)が地方自治法のさだめによって、議長を選出するための臨時議長になったのが「事件」のはじまりだ。

じっさいに、札幌市議会では「慣例」で、事前に主要会派による「交渉会」で決めたひとに「無記名投票する」ことが慣習になっている。
それを、いきなり「立候補」による投票にするとしたから、右往左往の「大空転」となり、さいごは臨時議長の解任決議でこれまでどおりの議長がきまったという顛末である。

この「事件」をおもくみた主要会派は、松浦氏を懲罰委員会にかける方針であるという。
報道各紙の報道は、市民の声とあわせて、完全に松浦氏は「おかしい」という主張ばかりがめにつくので、ちがうことを書いておこうとおもう。

地方というものは、かならず中央をみているから、中央集権国家であるわが日本国では、議会、といえば国会を手本にする。
しかし、国会の二院制とちがって地方議会は一院制であるから、衆議院・参議院のどちらでもいいから、どっちかをモデルにした「議場」をつくる。

議長を中心に、国なら閣僚がすわる席に市長・助役と序列順に左右対称に幹部職員がすわって、その向かい側に「議員」がすわることになっていて、さらにそのうしろに「傍聴席」ができる。

国では法律を決めるから「立法府」だが、地方では「条例」になる。
この条例は、法の下に位置づけられるから、法と矛盾する条例はつくれない。
ここに、中央集権国家の中央集権があって、地方の息苦しさの原因にもなっている。

さらに、地方自治法では地方自治体の位置づけがはっきりしない、というへんなことになっていて、これを国会でいつまでも修正しないから、いつまでもへんなままがつづいている。

その典型が、都道府県と「政令指定都市」の関係だ。
今回は札幌市が舞台だから、北海「道」と札幌「市」の役割分担のことを意味する。
つまり、あいまいなので、おなじ範囲の業務を「道」と「市」の二重でやってしまうことがままあるのだ。

この二重行政を正そうとしているのが、大阪都構想、というはなしである。
だから、大阪での問題は、全国どこにでもあてはまる問題なのだが、いかんせん国会がうごかない。
それで、しびれをきらした地方選挙での争点になってしまった。

政令指定都市だと、まだ区別しやすいが、これがふつうの市町村になると、都道府県庁と各役所の仕事の範囲がきっちりきまっていないから、ほんとうはもっと深刻なのだ。
それは、都道府県庁のいいなりになるという点でだ。

具体的には、都道府県庁の議会がきめたことのいいなりではなくて、役人がきめたことのいいなりだから、選挙でえらばれた市町村長も、おなじく市町村議会の議員も、都道府県庁の役人のいいなりにするしかない。
それをなんとなく、各議会で議決されたことにして、万事がうごいているのだ。

さいきんの「ふるさと納税」のドタバタで、中央の役人によるむき出しの支配が、市長や当該自治体の議会に命令しているすがたになっているからわかりやすい。

選挙でえらばれた政治家である「大臣」が、住民をみずに役人の原稿を読むから、存在意義から問われるのである。
ただし、「ふるさと納税」という、国民を乞食あつかいにする制度自体がいかがなものか?とはおもう。

しかし、こうした「構造」に疑問がなくなって、むしろ「合理的」だから「効率」がいい、とすれば、それは全体主義に親和性をもっていることになると気がつくべきだ。

このたびの札幌の「乱」は、たったひとりで強固な岩盤に「蟻の一穴」の挑戦をしようとしたのではないかともとれる。

安定していた時代にできた、およそ民主主義の本分とはぜんぜんなじまない、議会での「談合」にたいして、ふだんうるさく報道するひとたちが、批判する相手をまちがえていないか?

事前の談合(交渉会という)で、もう決まっていたなら、その人物が立候補すればよいのである。
それを、あくまで無記名投票にこだわる理由はなにか?
せめて、その理由ぐらいは報道してしかるべきである。

ここに、日本人とくゆうの「へりくだり」があって、「みなさんから推されたのでしかたなくわたしが議長をやります」というすがたに、とにかくしたいのだ、とすれば、なにかで紛糾しても、議長裁定をのみ込めるではないか、ということになるかもしれない。

つまり、「茶番劇」の準備をしているのだ。
これに、有権者が賛同する不思議。

わが国で一番部数がおおい新聞は、「そして誰もいなくなった…臨時議長『迷走』」という見出しをつけて、だれもいない議場にひとり議長席にすわる老人の写真を掲載した。
まさに、ピエロあつかいだ。

しかし、こんな集団イジメもないではないか。
市議会の慣例のほうがおかしいといったい誰がいいだすのか?

この議員がピエロなのではなく、さもしった顔でこのちいさな「挑戦」を嘲り笑う新聞こそがピエロである。
それがこの報道の読み方ではないのか?

この国は、おそろしいことになっている。

きれいごとしか言ってはいけない

国会議員とは、究極の言論人である。
したがって、じぶんの言動にはくれぐれも注意がひつようだし、その言葉にたいする責任がある。

日本維新の会の丸山穂高衆院議員が、北方領土へのビザなし交流訪問に同行して「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と元島民に発言したことが問題になった。

それで、本人は離党届を提出したが、松井一郎代表は「離党などで許される話ではない。党として、除名を含めて厳粛な処分をする」と述べたという。
そして、ほんとうに除名された。

例によって、現地での文脈は不明のままだが、記事から「問題」を整理すると、
・戦争で奪われた領土は戦争で取り戻すべきか?
・上記の論を、当事者に質問したのはなぜか?
・本人が「不適切だった」とした理由はなにか?
・松井代表が激怒している理由はなにか?
・その他大勢も「とんでもない」と非難しているのはなぜか?
であろうか。

なかでも、さいしょにある「戦争で奪われた領土は戦争で取り戻すべきか?」が、もっとも本質的な「問題」だろう。

かんたんにいえば、「そのとおりである」が世界の常識としてのこたえだから、ふつうは言葉にしない。
ひとは「常識」を言葉にしないのが「常識」だからだ。

たとえば、人類の排便方法の歴史が、なかなかたどれない理由である。
毎日のこととはいえ、その方法は、その時代の典型的な常識であるから、だれも記録などしないからだ。

しかし、かれは国会議員という言論人だから、言葉にしないと議論にならない。
むしろ、この「常識」が、あたかも「非常識」になってしまうことが、大問題なのである。

その根拠が、わが憲法であることは、このブログでなんども言及している。
日本人は、世界のなかで非常識なかんがえを常識とする、非常識な国民なのだ。

北方領土とは、千島列島につらなる島々のうち、北海道にちかい四島をいうことになっている。

ソ連やその継承国であるロシアとの「返還交渉」において、わが国が一貫して「四島」といっているのは、ほんとうは根拠がうすい。
それは、第二次世界大戦の終結がいつか?ということと密接に関係している。

わが国でいう「終戦の日」は、昭和20年(1945年)8月15日になっている。
これは、「終戦の詔勅」が発っせられた日で、この詔勅を天皇自ら録音し放送した「玉音放送」のことである。
それで、大本営は16日全軍にたいし「停戦命令」を発している。

しかし、国際法では、わが国と連合国とのあいだで取り交わされた「降伏文書」に署名した日の「9月2日」が戦争終結の日なのである。

それで、こまったことになるのは、そもそも締結していた「日ソ中立条約」(昭和16年、1941年)をソ連が一方的に廃棄して、わが国に宣戦布告して「ソ連参戦」となったことである。

もともとソ連は「連合国」だったから、どうして「中立条約」がなったのかはさらにややこしい。
どちらにせよ、ソ連が攻めてきたのは真実で、満州での悲劇的な日本人婦女に対する虐殺蛮行とシベリア抑留は、わすれてはならないことだ。

「北方領土」に目をやると、昭和20年2月ヤルタ会談での「ヤルタ協定」で、南樺太と千島列島をソ連の取り分とすることが当事者抜きで決まった。

それで、ポツダム宣言を受け入れるとした8月15日をすぎても、ソ連軍の侵攻はつづいて、翌16日には南樺太、28日から9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領してしまった。
残りの歯舞群島は、9月3日から5日で占領されたのだ。

だから、国際法的には歯舞諸島しか「不当」といえない状態にある。
ようは、9月2日までの「調印時間」が決定的な意味をもっている。

けだし、日本軍の軍規はかたく、停戦命令がわが方には発令されているから、一方的にやられるだけであった。
ふつうの国の軍隊なら、たとえ停戦命令があることをしっていても、敵が一方的に攻めてきたら、「正当防衛」の権利を発動して、これと対戦するのにだ。
もちろん、ヤルタの密約などとんでもないことにかわりはない。

「火事場泥棒」といわれるゆえんで、ソ連の欲望丸出しのやりかたは、歴史的不名誉な逸話だとして、世界に発信しなければならない。
が、ここで世界の常識、「戦争でとられた領土は、残念だが「次回まで」帰ってくることはない」がでてくるのだ。

そのわかりやすい例は、ドーテの短編小説『最後の授業』でしられる、「アルザス・ロレーヌ」=「エルザス・ロートリンゲン」をめぐるフランスとドイツの行ったり来たりである。

閑話休題。
卒業式や年末の日付が変わるとき、あるいは、商店の閉店時間をしらせる音楽といえば「蛍の光」である。
この曲は、文部省がさだめる「小学唱歌」だった。

いまでは一番しか歌われないが、四番まであって、とくに四番は、わが国の領土変遷とともに歌詞が変更されている。
オリジナルは「やしまの『そと』の」だったが、千島樺太交換条約と沖縄処分後に、「うち」になって、

ちしまのおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさをしく、つとめよわがせ、つゝがなく。

これが、日露戦争後、
たいわんのはても からふとも やしまのうちの まもりなり。
になっている。
戦前・戦中の小学生は敗戦まで、この歌詞で歌っていた。

子どものころ、紅白歌合戦を一緒にみていた明治36年生まれの祖母が、藤山一郎の指揮で「蛍の光」を出場した歌手全員で唱和するのに、「なんで一番しかうたわないんだろう?」といっていたのが思いだされる。
彼女も、昭和一桁のわたしの両親も、日露戦争後の歌詞で覚えていたはずだ。

そんなわけだから、千島樺太交換条約を基準にすれば、四島「だけ?」ということにもなるのは、国内事情としてのいきさつがある。
条約をかってに破棄して「宣戦布告」はないだろう、といってもそれが戦争だ。

プーチン氏は、一期目の大統領就任直後、「核保有国と非保有国に外交交渉はない」と演説し、「外交交渉が成立するのは核保有国どうしのばあいだけだ」と説明している。
それで、ドイツはアメリカから中距離核ミサイルをレンタルしたままかえさないでいる。

丸山議員の発言で、さっそくロシア側が不快感をあらわにしたのは、外交上当然のことで放置すればよいことだが、そのロシアを擁護する発言をしているタレントその他のひとたちは、いったいどっちを向いているのだろうか?

ましてや、わざわざロシア大使館にまでおもむいて、わびを入れる国会議員たちは、それがどれほどのトンチンカンな行動なのかさえもわからないのだから、まったく絶望的な気分にさせる。
外交オンチもここまでくると犯罪的である。

もっとも外交も喧嘩もまともにできない外務省のHPにおける「北方領土問題」をみれば、

「南樺太(=北緯50度以南)及び千島列島(=ウルップ島以北の島々)については、その領域主権を有していた日本は、1951年のサンフランシスコ平和条約により、すべての権利、権原及び請求権を放棄しました。サンフランシスコ平和条約上、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっており、それまでは、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定であるというのが従来からの日本の一貫した立場です。」

そして、ちいさく「注」に「ソ連・ロシアは(講和条約)締約国ではない」と書くあたり、みごとな官庁文学に仕上がっている。

いまだに国際法上は「戦争状態です」と書かないから、わからない国民がいるのだ。

「将来の国際的解決手段に委ねられることになっており」という他人まかせの決意がここにもあって、拉致問題とおなじ構造になっている。
憲法前文の威力ここにありだ。

丸山穂高衆院議員は、いったいじぶんの発言のなにを「不適切」としたのかを、じっくりききたいものだ。
わたしには、旧島民に質問したことぐらいではないかとおもえる。

他のひとたちはなにがいけないというのか?
明解な説明をききたい。
きっと「言霊」をいうしかないだろう。

そんなひとたちが、議員辞職をもとめている。
まるで、斎藤隆夫が昭和15年(1940年)に「反軍演説」をして議会を除名されたのに似ている。
どちらも「とんでもない」ことではないか?

丸山議員には、イギリスで圧倒的支持になっている「ブレグジット党」のように、あたらしい党を立ち上げてほしいものだ。

終身雇用が崩壊するほんとうの意味

昨日の13日、日本自動車工業会の豊田章男会長が、「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」、「今の日本(の労働環境)を見ていると雇用をずっと続けている企業へのインセンティブがあまりない」という発言があったと日本経済新聞で報道された。

そして、「労働流動性の面ではまだまだ不利だが、派遣や中途入社など以前よりは会社を選ぶ選択の幅が広がった。多様化は進んでいるのですべての人がやりがいのある仕事に就けるチャンスは広がっている」とも発言したと同記事にはある。

例によって、前後のはなしが途切れているから、「文脈」がわからない。

あたかも、「インセンティブがない」ことにとらわれると、誰かからおカネが欲しいとかをいっているようにもとれるが、そんな「乞食」のようなことを、わが国をささえる自動車業界のトップがいうのだろうか?

むしろ、(地に落ちて存在意義をうしなった)「経団連の中西宏明会長も「企業からみると(従業員を)一生雇い続ける保証書を持っているわけではない」と語る」ということと、上記の発言をつなげることにこそ違和感がある。

豊田章男氏はいわずとしれたトヨタ自動車という世界トップの自動車会社の社長であって、そのトヨタ自動車にはいわずとしれた「トヨタ生産方式」がある。

業界の代表としての語り口と、トヨタ自動車という自社の社長としての語り口が異なるのはある意味当然だ。
それに対して、経団連の中西宏明会長は、何のことだかわからないことをいっているから、目も当てられない。

「(従業員を)一生雇い続ける保証書」などという世迷い言をはいて、上から目線に徹していることが、どうしようもないトンチンカンぶりである。

平均寿命が60歳にもなっていないときにできた「国民年金」が、じつは「定年制」をささえることの根拠になるが、定年自体は、日本独自の「雇用慣行」であって、法的規制はなかった。

「日本独自」とは、「ガラパゴス化」という意味だし、定年制をささえる土台の「年金制度」がゆらげば、そのうえの定年制は大揺れする。

それが、まず、「努力目標」として法に明記されたのが、1986年(昭和61年)の「高齢者雇用安定法」なのだ。
つまり、「たった」33年前のことで、その後2000年(平成12年)になって「65歳までの雇用確保措置を『努力義務化』」し、それが、「希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが『義務化』」したのは、なんと2013年(平成25年)、たかが5年前のことである。

しかも、最近の平均寿命は短い男性で81歳だから、ぜんぜん「一生雇い続ける意味の『終身』」なんてことはない。
とうとう経団連会長は、日本語ができないレベルでもつとまるようになったらしい。

「定年制」というのは、「年齢」という条件「だけ」で、雇用契約を終了するということだから、アメリカ人やイギリス人にはなじまない制度になっている。
彼らのかんがえる「労働市場」では、本人がもっている職業能力とそれを購入したい企業とのあいだで、価格が一致すれば、雇用契約は成立するからである。

しかし、一方で、アメリカなどでは「終身雇用制」を採用している優良企業がたくさんあるが、これは、日本の強みを研究した成果であった。
「定年」なき「終身雇用制」とは、雇用契約に支障がないかぎり、いつまでも働けるという意味だ。

だから、これまでとおなじ仕事内容をこれまでとおなじ能力で業務をおこなうなら、たとえ「雇用延長」されても「同一賃金」なのは当然なのだが、これを「年齢」という条件だけで「半減」できるのは、「労働市場」の原則からおおきくはずれている。

こうしたことができるのは、わが国独自の「生活給」という概念があるからである。
敗戦後の混乱期以来、独身の若者は安く、家庭をもって、子どもができて、家を買ってという、いまでいう「ライフサイクル」に適合した勤務年数がふえると賃金もふえるように、賃金体系をつくりかえたのだ。

高度成長期に、このつくりかえは完成して、安定的な雇用とセットになった。
その恩恵をうけた世代が、団塊の世代である。
だから、一億総中流社会が実現できたのである。

重要なのは、この賃金体系のポイントは、直線グラフを一本書いて、それに次のような曲線を描けばみえてくる。
つまり、弱年時は「安い」から直線の下に、それがだんだん高くなって直線の上にはみだして、高齢時にはまた「安く」なる。

結局、直線グラフとおなじ面積(生涯年収)になるように積分で「設計」されていた。
ところが、高度成長という条件がくわわって、高齢時に当初計画どおり「安く」ならなかったのだ。

それでも企業内官僚は、設計どおり、だといえたのは、経済成長にあわせた生涯年収グラフを描いていて、団塊世代が50代になっても、そのときのグラフ上では「安く」なっていたのだ。

そんなわけで、日本語があやしい経団連会長は、「生活給」が維持できないといいたかったにちがいない。
このひとは、「終身雇用制」と「生活給」のちがいがわからないのだ。

それは、世界経済の標準化で、日本独自の制度維持が困難になっているからだといえば、そのとおりである。
しかし、もっとも重要なのは、わが国に存在しない「労働市場」である。

これを、豊田章男氏が指摘したのだとかんがえる。
「トヨタ生産方式」で鍛えられたトヨタグループ社員の価値は高いから、いくらでも需要がある。
それで自社のことに言及せず、自動車工業会会長として、他社の人材教育に「喝」をいれたのだと。

売れる人材をつくる、これを放置して使い捨てしようとする経営者への「喝」と、じぶんを高く売るための努力をおこたる労働者への「喝」だろう。