今朝、配信されたニュースに、エイプリルフールのためのパロディがあった。
むかし、マッド・アマノ氏による、豊島区にある有名な遊園地のパロディ広告がでて、すばらしい「効果」があったことをおもいだす。
その自虐的すぎる「広告」で、入園者数が大幅増加したのは、一種の事件だった。
しかし、対象が人びとをよろこばせる遊園地だったから、人びとを驚きで喜ばせたパロディ広告は、自虐的ではなくて、究極のエンターテインメントであったから、そのセンスが評価されて入園者数がふえたのだ。
「ここに行ったら、おもしろそうだ」という広告になっていた。
ダサイとか、田舎くさいとか、あか抜けしないとかといったことを、遊園地側から大々的に宣伝すれば、口にはしないがそう思っていたひとたちの心が解放されて、ネガティブなイメージすら遊びなのだとしてしまった。
しかし、今朝のパロディ「ニュース」には毒があった。
政府が「納豆を食べられますか?」と外国人旅行者に質問してはいけないという法律を2059年までにつくるという内容だ。
こんなものが法律になる国とは、どういう国なのか?
パロディをこえて、恐怖すら感じるから、素直にわらえない。
しかも、禁止の理由に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」としているのも、じゅうぶんに突っ込みようがある。
それに、なぜ2059年なのだろうか?
本物のニュースでは、新元号の発表が予定されているから、それとのからみまでうがってみたものの、よくわからない。
新元号を決めるにあたっては、衆参両院の正副議長にも意見をきいたというが、これに最高裁判所長官がふくまれないのはなぜなのか?という説明は生中継のニュースにはなかったし、官房長官発表における長官への質問もなかった。
新元号の法的根拠は「政令」である。
「政令」とは、内閣が制定する。
内閣は行政機関なので、政令はもっとも優先されるべき「行政命令」になる。
すると、衆参両院の議長に意見をきいたのは、どういう意味なのか?ということが、最高裁判所長官にきかなかったことよりも強い疑問になる。
立法府に気をつかったのなら、なぜ司法にも気をつかわなかったのか?
ずいぶんまえに、安倍首相がみずからを「立法府の長」と発言して、あげあし取りのような議論になったことがある。
どうも、立法府と行政府のあいだがあいまいなのだ。
すると司法が、ずいぶん遠い。
権威主義の公共放送は、このときとばかりヘリコプターをとばして、内閣官房から皇居へむかう自動車をおいかけていた。
憲法のさだめによって、今上天皇の、御名御璽をいただかないと「政令」として正式ではない、という解説をくりかえしていた。
しかし、法律や政令などの「公布」について、天皇の国事行為として憲法第七条で定めがあるが、最高裁判所は昭和32年大法廷判決で、「官報による」ことを先例としている。
官報によらない「公布」は、「特に国家がこれに代わる他の適当な方法をもって法令の公布を行うものであることが明らかでない限り」と同判決にあるので、本日の、新元号の政令は、こちらが適用されたと解説すべきである。
そんなわけで、国民はまたまた「憲法」から遠ざけられたのである。
「政令」は、憲法七十三条のさだめになっているから、ヘリコプターが自動車を追跡したのは、こちらの意味での「憲法」だ。
まるで、第九条いがいはぜんぶ「憲法のさだめ」にして、なんだかわからないようにするし、「公布」がなにかも説明しない。
発表を午前11時30分と事前に予告しておきながら、官房長官が出てこない事情を憶測で語るというのも、どういう取材をしていたのかとうたがうのである。
官房長官記者発表も、代表二社からの質問二問に限定しながら、似たような質問しかせず、おなじ返答を引き出すのは、いったいどういう魂胆なのか?
どういう経緯で選ばれた二社で、どういう経緯で似たような質問をしたのかを、国民としてマスコミにきいてみたい。
まさに、従来からの批判どおり、日本独自の「記者クラブ制度」が、報道の自由をせばめていないか?という疑問に、確信的な根拠をあたえるばかりである。
報道が談合されている。
これこそが、今日、エイプリルフールであってほしいとおもうのである。