記念すべきエイプリルフール

今朝、配信されたニュースに、エイプリルフールのためのパロディがあった。

むかし、マッド・アマノ氏による、豊島区にある有名な遊園地のパロディ広告がでて、すばらしい「効果」があったことをおもいだす。
その自虐的すぎる「広告」で、入園者数が大幅増加したのは、一種の事件だった。

しかし、対象が人びとをよろこばせる遊園地だったから、人びとを驚きで喜ばせたパロディ広告は、自虐的ではなくて、究極のエンターテインメントであったから、そのセンスが評価されて入園者数がふえたのだ。
「ここに行ったら、おもしろそうだ」という広告になっていた。

ダサイとか、田舎くさいとか、あか抜けしないとかといったことを、遊園地側から大々的に宣伝すれば、口にはしないがそう思っていたひとたちの心が解放されて、ネガティブなイメージすら遊びなのだとしてしまった。

しかし、今朝のパロディ「ニュース」には毒があった。
政府が「納豆を食べられますか?」と外国人旅行者に質問してはいけないという法律を2059年までにつくるという内容だ。

こんなものが法律になる国とは、どういう国なのか?
パロディをこえて、恐怖すら感じるから、素直にわらえない。
しかも、禁止の理由に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」としているのも、じゅうぶんに突っ込みようがある。

それに、なぜ2059年なのだろうか?

本物のニュースでは、新元号の発表が予定されているから、それとのからみまでうがってみたものの、よくわからない。

新元号を決めるにあたっては、衆参両院の正副議長にも意見をきいたというが、これに最高裁判所長官がふくまれないのはなぜなのか?という説明は生中継のニュースにはなかったし、官房長官発表における長官への質問もなかった。

新元号の法的根拠は「政令」である。
「政令」とは、内閣が制定する。
内閣は行政機関なので、政令はもっとも優先されるべき「行政命令」になる。

すると、衆参両院の議長に意見をきいたのは、どういう意味なのか?ということが、最高裁判所長官にきかなかったことよりも強い疑問になる。

立法府に気をつかったのなら、なぜ司法にも気をつかわなかったのか?
ずいぶんまえに、安倍首相がみずからを「立法府の長」と発言して、あげあし取りのような議論になったことがある。

どうも、立法府と行政府のあいだがあいまいなのだ。
すると司法が、ずいぶん遠い。

権威主義の公共放送は、このときとばかりヘリコプターをとばして、内閣官房から皇居へむかう自動車をおいかけていた。
憲法のさだめによって、今上天皇の、御名御璽をいただかないと「政令」として正式ではない、という解説をくりかえしていた。

しかし、法律や政令などの「公布」について、天皇の国事行為として憲法第七条で定めがあるが、最高裁判所は昭和32年大法廷判決で、「官報による」ことを先例としている。

官報によらない「公布」は、「特に国家がこれに代わる他の適当な方法をもって法令の公布を行うものであることが明らかでない限り」と同判決にあるので、本日の、新元号の政令は、こちらが適用されたと解説すべきである。

そんなわけで、国民はまたまた「憲法」から遠ざけられたのである。
「政令」は、憲法七十三条のさだめになっているから、ヘリコプターが自動車を追跡したのは、こちらの意味での「憲法」だ。

まるで、第九条いがいはぜんぶ「憲法のさだめ」にして、なんだかわからないようにするし、「公布」がなにかも説明しない。

発表を午前11時30分と事前に予告しておきながら、官房長官が出てこない事情を憶測で語るというのも、どういう取材をしていたのかとうたがうのである。

官房長官記者発表も、代表二社からの質問二問に限定しながら、似たような質問しかせず、おなじ返答を引き出すのは、いったいどういう魂胆なのか?

どういう経緯で選ばれた二社で、どういう経緯で似たような質問をしたのかを、国民としてマスコミにきいてみたい。
まさに、従来からの批判どおり、日本独自の「記者クラブ制度」が、報道の自由をせばめていないか?という疑問に、確信的な根拠をあたえるばかりである。

報道が談合されている。

これこそが、今日、エイプリルフールであってほしいとおもうのである。

候補者をえらべない

統一地方選挙がはじまった。

地方の選挙を同時期に「統一」させたのは、むかしの自治省の役人だった。
任期途中に、さまざまな理由で辞めたり辞めされられることもあると、どこまで「想定」していたかしらないが、長年のあいだに「ズレ」ができて、事情が発生した自治体では、統一地方選挙には関係ない地域がある。

だから、統一地方選挙が同時期におこなわれている地域では、さまざまな事情がこれまで発生しなかったという意味もある。
これを喜ぶべきか悲しむべきかはさまざまだが、「順当」が単純に自慢できるわけでもない。

むかし、といっても近代日本で、「内務省」こそが最大最強の役所だった。
「大蔵省」も「商工省」も、いまのような力がなかった。
それで、内務官僚といえば、エリート中のエリートだった。

それが、看板を「自治省」に替えたら、なんだか地味な感じになったが、全国の自治体を支配する構造にかわりはない。
ついでに、警察も消防も、どちらも「庁」がつけば、自治省の外局だったのをおもいだせばわかるだろう。

官僚組織では、全省庁の事務次官をあつめた会議が定期開催されている。
この会議の議長が、事務担当内閣官房副長官で、このひとは歴代自治省の事務次官からなる、つまり、やっぱり事務方のトップ中のトップは戦後も自治省(旧内務省)だった。

地方自治体がどこまで「自治」できるのか?といえば、かなり「自治省」の役人から指示される。
ふるさと納税で、当該の自治体と、いまは総務省という旧自治省がケンカしているのは、報道のとおりである。

こうしてみると、産業を支配する官僚組織の構造が一般的ななかで、地方自治体を支配するのが旧自治省だから、民間人にははかりしれない権力を旧自治省の役人はもっている。

民間をしばる方法の有効手段が、補助金漬けにするものだが、地方交付税というおカネが、地方の自治を骨抜きにして、命令を守らせる根拠になっている。

だから、地方自治体の「自治」とは、わずかな「すき間」に存在する範囲でしか「自治」できない。
そうやって、この国では、どこに引っ越してもだいたいおなじ住民サービスがうけられるという「建前」が構築されている。

けれども、その「すき間」とはどこのことだ、と具体的にいうひとがいない。
むしろ、そんな「すき間」なんて関係ないほどに、「自由」な「自治」があるようにいうひとばかりだから、住人も勘違いして「フリーハンドの『自治』がある」と思いこむ。

こうしてみると、じつはだれに投票してだれが当選しても、おおきく「自治」がゆらくごとがない。
それは、上述のように、そうならないように「できている」からである。

だから、「大阪都構想」という論点は、「建前」に対して変化させる主張になるので、だれに投票してだれが当選するかで、おおきくゆらぐことになる、稀有な争点の選挙なのである。

「平成時代」といういいかたにもうなっているけれど、「自治」という目線でいえば、「平成の『大合併』」という自治体同士の「合併」が、旧自治省の役人主導で実施された。

いま、地方銀行の生き残りで行われているのが「合併」だけれど、どうして「合併」しないといけないか?という根本理由が、自治体の「合併」とおなじ理由になっている。

規模をおおきくしないと、生き残れない。

さすが、旧自治省のエリート。
経済官僚のはるか先に、実行してしまったのである。

しかし、残念だがここにおおきな落とし穴がある。
自治体が生き残ることと、住民が生き残ることが、主客逆転しているのだ。

そこに住民がいるから行政サービスがあるのであって、行政サービスのために住人がいるのではない。

こんなことは百も承知だが、国家の行政機関ができることは地方の行政機関を保護することしかできない。
それで、しかたがないこと、になる。

そうやって過剰に保護された自治体という役所群は、ひたすら自己増殖をこころみて、住民をみない。
そんな自己増殖ができるのは、国からおカネが降ってくるからだから、自己増殖する主張をすれば、選挙に受かる可能性もたかくなる。

選挙では合法的な「買収」が、声高に叫ばれて、だれに入れても入れなくても、結果はおなじか変わりようがない。
候補者が、ひたすら名前を「連呼」する理由がここにある。
じぶんが受かればいい、という意味が、薄っぺらになるしかない。

こうして、候補者をえらべない有権者は、一部の生真面目なひとをのぞけば、どうでもいい投票行動をして、これを「専門家」が結果分析して、さらなる選挙準備の基本データにするから、スパイラルになってとまらない。

あと何年、これをつづけるのだろうか?
「自治の死」が、はっきりするまでなのだろう。

おなかいっぱい

安くしても売れないのは、デフレだから、ではない。
べつに欲しくないからである。

「ゴミ屋敷」が話題になるのは、ゴミの分量におどろくからだ。
棄てないと、じぶんの家もああなると想像できるから、あたらしい「ゴミ屋敷」をみつけてきては放送して、視聴者に媚びをうる。
視聴者は、もっとすごい「ゴミ屋敷」でないと、もう満足できないレベルになってきたから、そのうち番組企画としてすたれるはずだ。

一世を風靡した「大食い」は、許容量が人間の胃袋だったから、ついに「限界」がやってきて、「もっと」が不可能になったら、番組もすたれてしまった。
馬を川辺に連れて行っただけでは、水を飲まないのとおなじである。
やすっぽい芸人がいう、「おなかいっぱい」なのだ。

消費者も、こうなると頑として買わない。
これを経済学者が「デフレーション」だというから、トンチンカンがはじまる。
「デフレ」でコモディティ化がすすんで、いまは、「もう、おなかいっぱい」の状態になってしまった。
市場はあきらかに変化しているのに、「デフレ」一辺倒で片づけるとわからなくなる。

その証拠に、コモディティ化の典型的なチェーン店(飲食業や衣料品)の売り上げが低迷している。
売上だけでなく、客数も低迷中というから、まさに消費者は「おなかいっぱい」なのだ。

だから、限界まで値下げして、「ほら、もっと食べろ」、「ほら、もっと衣服を買え」といわれても、買わない。
いまのところ、欲しくないからである。

これをむかしは「踊り場」と表現した。
しかし、階段の踊り場は、昇りにだけあるのではなく、降りにもある。
むかしは、つぎの拡大のための踊り場だったが、いまは、縮小のための踊り場になっている。

そんな状態で、この秋、ほんとうに消費税率を引き上げるのだろうか?
安くしても売れないところに、商品自体の価値がかわらないのに税だけが上がるのは、まったく理不尽である。

政府の財政均衡が目的でも、国民生活は均衡しない。
これが、前に書いた財務省設置法が憲法違反であるゆえんだ。

夏の参議院選挙まえに、突如引き上げの中止を宣言して、選挙で「圧勝」を狙うとすれば、なかなかうまい戦略である。
そのころには、イギリスのブレグジットがどうなるのか決まっているだろうから、タイミングとして最高である。

けれども、いま目のまえの、統一地方選挙で、世にも不思議な「自民・共産の連携」が、大阪で現実になった。

むかしは、共産党がいうことの反対が「正しいこと」だった。
だから、「55年体制」という、自民党と社会党の談合体制を、うらからしっかり支えていたのが共産党だった。

もともと、自民党は左翼政党だから、社会党と組んで「村山政権」ができたとき、おなじ氷山がひっくり返ったようなものなので、なにもかわらなかった。

しかし、このころから、共産党のいうことが「正しい」のではないか?
という「倒錯」がはじまる。
アンチテーゼとしての共産党が崩れはじめたということは、テーゼそのものが崩れだした意味でもある。

「大阪都構想」という「倒錯」が、敵の敵は味方という論理で自民・共産の連携を生んだのだろう。
そこまでして自民が反対し阻止しなければならない理由はなんなのか?
「既得権益」になにがあるのか興味深いものである。

けだし、追いつめられた自民が、「大安売り」ののぼり旗を掲げているようにもみえるのはわたしだけか?
大阪人が「おなかいっぱい」という意志表示をするのかどうか、気になるのは当然だ。

神奈川県民をあまり意識しない横浜市民としていえば、地方自治法の建て付けの適当さが、県と政令指定都市と、ふつうの市町村の関係を曖昧なままにしていることが、「二重行政」の元凶だといいたい。
だから、これを正さない国会機能の停止状態が、「倒錯」の原因だ。

占領軍が横浜港を闊歩していた時期、横浜市にはニューヨーク市警よろしく、横浜市警察があった。
その横浜市も肥大化して、370万人が行政十八区に住んでいるから、一区あたり20万人という、中規模地方都市なみである。
それが、行政区なのだから、区長といっても市役所の局長級が就任することになっている。

神奈川県だって、そのむかしは三多摩地区がふくまれていて、東京は「市」だった。
だから、神奈川県民ずらをさせてもらえば、東京は戦前の東京市に、明治初期の三多摩をくわえた神奈川県、ついでに横浜市の分割があっていいではないかともおもうのだ。

しかし、これは、地方自治法がちゃんと行政区分を明確にしたら、という前提で「県」があくまで上位にあるとしたときで、もし政令指定都市が「県」と同格あつかいとなれば、横浜市は神奈川県から独立するだけでなく、川崎市や相模原市もこれにつづくことになる。

さらに、もし、「都構想」が実現すれば、政令指定都市には「特別区」ができて、区長選挙をすることになって、市長がいらないことになる。
役人には、区長職がなくなるので反対するだろうが、べつに役人のための住民ではない。

こういう議論なら、住民参加できそうで、おなかいっぱいにはなかなかならないだろう。

森の新陳代謝

わが国は、山国である。
全国土の70%が山地で森林だから、ほんとうは「木の国」である。
それが、いつのまにかに、コンクリートの国になってしまった。
ところが、売れると見込んで植えた杉が売れなくて、花粉症という病人の国にもなってしまった。

「自然」というと、耳にきき触りのよいことばだが、なにが「自然」なのか?とあらためて問えば、あんがいてきとうでいい加減なことばである。

前にも触れた、「日本庭園」の「自然」は、完全なる設計と植樹技術のたまもので、まったくの人工物なのだが、鑑賞するひとはそんなことはおかまいなしに、「美しい自然」をめでるようになっている。

また、「千枚田」とよばれるけわしい山あいにつくられたちいさな田んぼの集合体をながめれば、これを人力でつくりだし、人力で維持してきた先人たちにおもいを馳せれば、突如としてその美しい風景にくわえて、美しい感情がわきおこって、みるひとを感涙させもする。

そんなわけで、耕作放棄された田畑にだれも「自然」を感じないが、じつは人工的な創造物に「自然」をかんじて、「やっぱり『自然』はいいなぁ」と感嘆してしまうのである。

地方自治体がいう「わがまちには自然がいっぱい」の自然とは、なにを指すのかしれてしまうから、都会人が魅力を感じる決定要素でなくなって、「自然自慢」だけでは競争力にならない。
そんなこんなで、自治体がなにかするほど自然と衰退することになっている。

どこの山間部にいっても、かなり奥深いところまで集落があるから、ちゃんとした道路ができていて、山の風景を見あげることができる。
なにも、登山やハイキングをしなくても、山の姿が観察できるようになっているのだ。

それで、広葉樹が落葉している冬によくみれば、なんの変哲もない山なのに、杉だけのエリアがかたまりであって、じつは植林された人工林なのだと気づくのである。
それに、「国有林」という看板をみつければ確信的になる。
ついでに、「国有林」にはかならず柵があって、「関係者以外立ち入り禁止」というプレートがセットになっている。

だから、じつはわが国に「原生林」はめずらしく、それが世界遺産になったり国立公園になっている。
もちろん、たいがいの「原生林」も「国有林」であるから、ふつう一般人の立ち入りは禁止されている。

こうしてかんがえると、「国有林」とはいっても、じっさいは「国有地」のことで、かつて大赤字の「国有鉄道」と同様に、「林」が管理できないままになっている。

ところが、「自然保護」という「運動」が、ありがたいことにわきあがって、「手つかずの」山が「自然」なのだから「触るな」という、管理できない管理者にとって、たいへん都合のよいことが社会に浸透した。

苗木を密集して植えるのは、成長具合をみて、あとで「間引き」するからで、さらに、選んだ木がちゃんとした「商品」になるように、若木のうちから「枝払い」をしないと、「ふし」だらけの木材になって価値がない。

こうしたことから生じる、「間伐材」が、割り箸や爪楊枝の原材料だったが、「触るな」という「運動」で、「木を切ってはいけない」に転じ、山からの現金収入がとざされた。

むかしの「国有鉄道」会社の傘下にある「駅蕎麦チェーン」は、割り箸を「廃止」して、わが国では産出しない石油からできるプラスチックの箸を「エコ」だと称しているのは、自国の山を見捨てたも同然だと気づいてもいないのだろうか?

それで、各地の自然の観光キャンペーンを億円単位でやっている。
もちろん、これを支えるのは毎日運賃をはらっている国民にかわりはない。

もう一方で、事業者から出る割り箸を「産業廃棄物」あつかいする自治体も、自国の山を見捨てているのに「エコ」だと叫ぶ。
むしろ「駅蕎麦チェーン」が、追いつめられて余計な投資をさせられた被害者にもなれるから、始末がわるい。

「エコ」ではなくて、「カルト」ではないのか?

植林した木の本体が商品になるには、30年以上かかるから、その間その土地からの収入は、間伐材しかないのである。
みんなで林業をこわして、「エコロジー」と自賛するのは、「エコロジー」を人類最初に造語した、紀州の英傑、南方熊楠に失礼である。

それで、こんどは放置されるようになったら、「自然」にかえるだけでなく、山が荒れて、川が氾濫するようになった。
古木が倒壊して、自然のダムができ、それが山津波になるという「自然」のわざだ。

人間の人生の時間と、木の一生のながさがちがうから、相手が木なら、木にあわせてかんがえなければならないところに、人間がかんがえた「自然保護」が、人間をくるしめることになっているのは、まさに因果応報というものである。

なにも「自然保護」がいけないといいたいのではない。
「人間のため」の「自然保護」が、あやしいといいたいのである。

そうして、山国で森林資源がたっぷりあるはずのわが国は、外国から大量の木材を輸入する国になっている。
外国の木なら切っていいとまではいわなくても、だまっていればおなじであるから、不道徳きわまりない。

北欧三国の林業が成りたっていて、わが国の林業は成りたたない。
北欧三国の漁業が成りたっていて、わが国の漁業は成りたたない。

なぜだろうか?

「やり方」が、間違っているのではないか?
という「仮説」が、中学生にもたてられるだろう。

そして、社会が不道徳だから、子どもが不道徳になるのも当然だ。

桜の開花が報告されるようになって、人生一度は観てみたい「吉野の桜」と、木の国の「紀州」に、いつかゆっくり観光したいとおもっている。

「森」を観光資源にしたいなら、ポーランドとベラルーシ国境にある、ヨーロッパ最大の原生林(ほんとうは「森」)である、「ビャウォヴィエジャの森」の管理方法と観光設計を学ぶとよいだろう。

ちゃんと専門ガイドさんから、森の新陳代謝を学ぶことができる。
しかして、この森へは森林事務所で「地元有料ガイド」を依頼しないと森にはいれない。

徒歩で4時間ほどの案内で、料金は約1万円。参加人数での割り勘になる。
言語はポーランド語やドイツ語、英語などがえらべるが、外国語のできるガイドがいつも待機しているとはかぎらない。

それで、運がわるければ、森にはいるために、ぜんぜんわからない言語のガイドについていくことになるけれど、対象物を示して説明するから、事前に勉強しておけばなんとなくわかるものだ。

「ボランティアガイド」が普通の日本は、安ければよい、になっているふしがあるけれど、ちゃんと料金をとるべきである。
それで、ガイド内容の質を向上させることが、観光客の満足度を高める。

「森」に精通するとは、生半可な知識ではない。
ちゃんとした観光客は、生半可なガイドでは満足しない。

よけいな政府の景気判断

景気を「判断」して経営をするのは、民間だから、政府は正確な統計データの提供という「行政」を、粛々とすればいい。

日本政府という「開発独裁」のDNAをもった組織は、なにかとしゃしゃり出ることがだいすきで、「経済主体」は政府だとおもいこんでいるふしがある。
このとてつもない勘違いを、だれも正すことができない。

これは、裏返せば民間が政府の景気判断に「依存」している実態が、おかしいということである。
つまり、日本の経営者は、経営者の役割をじぶんで果たそうとせず、政府にゆだねてしまっているのだ。

だから、政府の勘違いを正すどころか、むしろ民間がいきすぎた政府機能の「維持」を要望してしまっている。
むずかしくてわからないなら、民間のシンクタンクが提供する情報をつかえばいい。

民間のシンクタンクが、特定会員向けとして、詳細情報を有料にしても、それを買えばすむのである。
そうすれば、政府の情報は必要なくなって、役人を民間に振り替えることもできるから、税負担も軽くなると思考すべきだ。

民間のシンクタンクはいくつもあるから、ちゃんと当たるところに人気があつまるだろう。
読みがはずれるシンクタンクには、淘汰の波がやってくる。
これは、有料になればなおさらだから、ただしい競争原理がはたらく。

いまは、民間のシンクタンクまで、政府の動向次第というエクスキューズがあって、業界のどちらさまも「救われている」から、競争にならない。
民間を見下す政府と、政府に依存したシンクタンクという、中途半端のダブルパンチで、救われないのは、おおくの民間企業なのである。

つまり、みごとなピラミッド型になっていて、政府を頂点に中間を民間のシンクタンク、そして最下層が民間企業群になっている。
その民間企業群のなかで、さらに大企業と中小企業、その下に零細企業と個人事業主がいる。

以上は、景気判断という「情報リテラシー」のことである。
けれども本当は、零細企業と個人事業主が、もっとも景気に敏感である。
だから、このピラミッド型は、ひっくり返したほうがただしい。
ところが、社会も政府も、そんな「転覆」はみとめない。

政府はなんでもしっている、ことにしないといけないとおもいこんでいるからである。
まさに、ここに「ソ連型社会」が垣間見えるというものだ。

そんなことだから、「実体経済の構造」とほとんどおなじにすることにしている。
ここでいう「実態」とは、人為的につくるものになっている。

さて、このピラミッド型にある民間のシンクタンクの位置には、金融機関もふくまれる。
それは、おおくの国内シンクタンクは、金融機関系だとおもえば納得できるだろう。

国内金融機関の能力が国際的に低く保たれているのは、系列シンクタンクの政府依存でもよくわかる。
政府の発表を「分析」すれば、ことたりるようなシンクタンクを、シンクタンクというひとは世界にいない。

国民にとって理想的な「行政」とは、どにいっても「おなじ」サービスをえられることだから、「機械的な行政」がもっとものぞましい。

しかし、日本国政府という行政機関は、法の下にある「施行令」、「省令」、「施行規則」、「通達」、「告示」といった、さまざまな手法で、役人が恣意的に命令できる権限をもっている。

だから、ぜんぜん「機械的な行政」ではない。
いったん「発令」されたら、機械的に世の中が「発令どおり」になる、という意味で「機械的」なのであって、意味がまったくちがう。
こんな「機械的な行政」を、この国では「法治主義」といっている。

しかし、こうした「法治主義」が、通じなかったのは、たとえば「原発事故」で、「法令」によって「安全が確保されている」ということが、現実の物理世界では歯が立たないどころか、イソップの寓話のようなことが現実になってしまった。

処理におカネがいくらかかるのかもわからない状態で、「兆円単位」の議論がされているが、この議論には「期間」すらも不明のままなのだ。
だから、われわれ日本人が、いったいいつまで、いくらの負担を背負っていかなければならないのかがわからない。

こうして、原発事故処理は「他人ごと」になっている。
それを意図してかしらないが、「安全が確認された原発」として、国内どころか外国にも輸出しようとして、こないだは英国で日立が大損を計上した。

勉強しすぎておつむのネジが数本どころかほとんど崩壊しているのではないかとおもわれる「頭脳」をもって、「判断」しているというのは、わるい冗談だとすますことができない。

政府は、機械的『に』行政をするのではなくて、機械的『な』行政をすべきだ。
だから、役所の統計不正は、根幹にあたる重要な問題なのである。

これは、機械的『に』行政をやりたくて、都合のよい統計結果を欲するという、統計学の初歩で最大注意される、よくある「誘惑」なのだ。

政府が景気判断をして、その結果、実体経済に政府がコミットすることが「あたりまえ」だとする20世紀型の発想をつづければ、政府は政府に都合がよい「統計」を発表するようになる。
それは、実体経済を歪めるという、まったくもっての「猛毒」が社会にまかれることにひとしい。

もし、政府の景気判断が「必要」だというのなら、それは、じぶんで判断力をうしなってなお、きがつかない「麻薬中毒」である。

規制緩和をぜんぜん進めない政府にして、政府機能の縮小はもはや望むべくもないのか?
それは、国民が麻薬中毒になったことの証拠でもある。

商品ではなく理念を売る

自社は、なにを売っているのか?

あんがいこれをちゃんと意識できていない企業はおおい。
ドラッカーは、自社がどんな価値を提供しているのかをみつけることが経営の肝心かなめだと指摘したうえで、それがなにかをみつけることの困難さ、について書いている。

つまり、自社は、なにを売っているのか?をちゃんとしっている企業は、おもった以上にずっとすくない、ということだ。

くわしくは、名著『マネジメント』にある。
大ヒットした『もしドラ』には、『マネジメント エッセンシャル版』なる「簡略版」の広告が裏扉についていたが、ひるむような大著の「原著」のほうをおすすめする。

 

 

アメリカ人の学者が書く「教科書」は、どの分野でもおおむね「大著」になっている。
その理由は、時代を代表する大学者が、懇切丁寧に説明しているからで、よってわかりやすさとページ数がトレードオフの関係になっている。

つまり、『マネジメント』という歴史的な価値もある教科書の原著は、ドラッカー自身が、かんで含めた説明をしているので、分量はあるがいいたいことが正確に表現されていてわかりやすい。
ページ数をすくなく要約した簡略版のほうが、じつは理解度という点で、はるかに難易度が高いことになるのである。

だから、「素人」ほど、簡略版にてをだすと「やけど」する。
「やっぱり、ドラッカーはむずかしい」になってしまうだろう。
そうはいっても、「原著」のボリュームはたいそうなものだから、気をいれて読まなければならない。

そこに目をつけた、いろんなひとたちが「解説本」をだしているという次第だから、ドラッカーは、くしくもじぶんの本の関連事業という分野も世の中に提供したのである。

「どうやったら売上がのびるのか?をおしえてほしい」

初対面でわたしも、何人かの経営者に質問されたことがある。
しかし、残念ながら適確なこたえをその場で提供することはできないし、もし、部外者のわたしがそのこたえをしっていたなら、コンサルタントなどという商売をとっくにやめている。

おおくの経営者がおちいっている「問題思考」は、ほんとうはなにを売っているのか?をしらないのに、売上の伸張だけをかんがえていることである。

わかりやすい説明として、ヤマト運輸を宅急便のヤマト運輸に育てた、小倉昌男『経営学』(日経BP社、1999年)がある。

この本でいう「サービスが先、利益は後」の「サービス」という用語が、ヤマト運輸のばあいにおいて、ドラッカーのいう「価値」を意味していることに注意したい。

だから、サービス業という共通項で、この用語「『サービス』が先」、と経営者がいうだけでは、残念ながら「詰めが甘い」ということになる。
自社にとっての「サービス」とはなにか?
そのサービスを購入してくれる、お客様の目的や利益とはなにか?を、自社なりに「追求しつくす」ことが必要なのだ。

「東京12チャンネル」という、地上波民放の「お荷物」といわれ、マイナー感がたっぷりあったテレビ局が、日本経済新聞社の傘下にはいって、「テレビ東京」と衣替えしたら、いまや独自番組で一目置かれる存在になっている。

ところが、例によって「免許」の関係で、関東近郊でも視聴できないエリアがある。
それで、月額500円という価格で、「オンデマンド契約」すれば、ネット配信という方法で、経済番組が見放題になる。

たとえば、新潟県。
わたしのクライアントに役に立つ番組が放送されたので、てっきりみなんさんが視聴していると思い込んで話題にしたら、「この地域では放送していない」といわれてこまったことがあった。
おなじことが、先般、伊豆半島でもあった。

今週の「カンブリア宮殿」で、回転寿司の「銚子丸」が紹介されていたが、まさに、「理念を売る」ことを実践している企業だ。
創業者の先代社長が、アメリカ視察で現地の経営者から直接指摘されて開眼したというエピソードがあった。

このアメリカ人経営者は、ドラッカーのよき読者か教え子だったのではないか?と推察する。

そのアメリカでは、とっくにテレビ受像機を製造していない。
かつての日本製テレビに市場が席巻されて、アメリカ人はアメリカ製のテレビをだれも購入しなくなったからだ。

そして、われわれ日本人は、そんなアメリカを傲慢にもバカにした。
テレビすら自国でつくれないとは、と。
しかし、アメリカではテレビよりも「進んだ」製品やサービスを売っている。
これが、「先進国」の「先進」の意味である。

なぜ、「先進」が達成できているのか?

商品ではなく理念を売ることに専念したら、いつの間にかそれが「先進」だったからである。
そのベースに、消費者の希望や要望が折り込まれているからだ。

ドラッカーは、アメリカで「生きている」のだ。

破滅願望

「欲望」をもつことは「いいこと」なのか、「わるいこと」なのか?

「清貧の思想」という美学がかつての武士にあった。
しかし、「武士は食わねど高楊枝」というのは、「清貧」をこえてしまった「見栄」でもあるし、庶民からの「ひやかし」でもあった。

日本から日本人が消えていく。
それで記録にのこしておこうと努力したのが、岡倉天心の『茶の本』、新渡戸稲造の『武士道』、そして、内村鑑三の『代表的日本人』だった。

わたしは、この三冊を「明治三部作」と呼んでいる。
三人の出自は、みごとに「武士」階級で一致し、しかも三人とも江戸時代生まれにして、三冊ともに「原著は英語」という共通点がある。

日本に興味をもった外国人が日本研究として読むなかで、どれもが「名著」として有名であるから、もしやいまどき、日本人より外国人の読者の方がおおいかもしれない。
若い世代ほど、これらの本にふれる日本人はすくないだろうと予想する。

  

これら三冊には、さまざまな関連本があるから、それぞれあたってみることをおすすめするが、上で紹介したものは、講談社インターナショナルからでている「対訳」だから、「原文」にもふれることができる。

また、かれらはなぜ「英語」で書いたのか?
という問いに、滅びゆく日本の記録を世界にのこすため、とする「動機」が指摘されてひさしい。
「悲壮感」を確信したひとたちの著作でもある。

だから、ここにはまだ、「滅亡の美学」がある。

けれども、こうした「悲壮感」すらなく、漠然とあるいは漫然と滅亡するなら、それは愚か者の末路でしかない。

日本の報道機関が「報道しない自由」を満喫しているおかげで、日本人の「ゆでがえる」状態がつづいている。

たとえば、ベトナムではすでに、高度な業務はベトナム人の若者がにない、一般的な事務を日本人がになう、ということが起きている。
このことは、当然だが収入に直結する。
あたりまえだが、高度な業務のほうが高価になるから、日本人駐在員は現地人より低い収入になっている。

日本企業の「金銭出納」を、見張っているのが日本人駐在員ということだが、キャッシュレスの取引が当然な時代のいま、むかしながらの「経理」で「見張り」ができるものか?

デジタル技術に長けていれば、会社の経理システムに侵入をゆるせば、たちどころに完全犯罪が実行される。
その、高度なデジタル技術者が、ベトナム人になっているというはなしである。

こうした技術をみにつけたひとたちのエネルギー源はなにか?と問えば、世界ではあたりまえの「ゆたかになりたい」という「欲望」の感情である。
そして、かれらの欲望をかなえるべく、「高度な教育システム」が用意されている。

ここで勘違いしてはならないのが、「高度な教育システム」とは、「世界標準」という意味とほとんどおなじことである。

ひとむかし前なら、世界標準は各国政府の取り決めで実行された。
そこには、「国境」という枠があって、だれもがこの枠に縛られていたから、政府間のあらゆる取り決めが有効だった。

しかし、マイクロソフトの「MS-DOS」や、これを発展させた「Windows」が世界中のパソコンの「標準」になってしまったことが象徴するように、政府とは関係ない企業が、「デファクトスタンダード(事実上の標準)」を提供できるようになってしまった。

これをうけて、「世界市場」は「一変」した。
すなわち、「世界標準」でなければ、世界で「売れない」のである。

あらゆる分野で「ガラパゴス化」している、わが日本は、国内標準と世界標準の二方面作戦をしいられて、ことごとく討ち死にの憂き目にあっている。
製造業が海外展開して、国内が空洞化しているのが問題の本質なのではない。

安い人件費の海外生産が有利なのではなくて、日本政府が強いる「国内標準」の製品をつくらないで、「国際標準」の製品をつくれることが重要なのである。

これに、労働市場が「ない」という「国内標準」の日本だから、労働市場が「ある」のが当然である「世界標準」の人材教育まで、「国内標準」になっている。

世界標準になった「世界大学ランキング」で、わが国最難関大学の順位が驚くほどひくいのも、ルールづくりの段階での国際会議への招待を無視して、知らぬ間にできた「評価基準」に、いまさらあわてているという体たらくだ。

この事業体はスイスに本部をおくとはいえ「民間団体」だったので、招待状をもらった「文部科学省」の役人が、なんでわれわれが民間の会議に参加しなければならないのだ?と「国内標準」の価値感で放置した結果である。

あの国際オリンピック委員会というのも、民間団体であるということを、文部科学省の役人はしらなかったのか?
もっとも、そんな「国内標準」の価値感しかない高級官僚は、世界大学ランキングで低評価な国内最難関校出身なのだから、まんざら評価基準がまちがっているのではないだろう。

「国際」という文字を、枕詞につければ、なんとなく「国際的」になって、まるで価値が高まるように思い込むのも、無意識における「破滅願望」なのである。

残念だが、無意識の破滅願望には、美学すら存在しない。

わからない「報道」の意味

日本語という言語は、「て、に、を、は」に代表される「助詞」によって意味が制御されるようにできているから、主語を省略したりできて、結論はさいごまでわからない特徴がある。

たとえば、試験ででてくる選択問題でのひっかけに、「。。。。。ではない。」という文があって、えんえんと長くつづく文でも最後の否定が正解なのか不正解なのかをきめてしまうから、これで「うっかりもの」を減点できるようになっている。

英語のような言語では、「主語+動詞」に絶対性があるから、主語を省略したりするのは、たいへんきもちの悪いことで、ましてや結論があとまわしになる文章がほぼないのは、言語の構造として無理があるからである。

これを、「語順のちがい」といえばかんたんだが、その「ちがい」が「ちがいすぎて」、おおかたの日本人には英語が理解できない。
だから、英語ができない日本人は、日本人としてかなり「スタンダード」だといえる。

そんな「スタンダード」な日本人が、ひとより数倍もの努力をしてつかんだ英語力をもって、英語教師という職業につくから、あんまり努力しない生徒でも英語ができるようになるのはゆるせない。
それで、やさしいことをむずかしく教える、という倒錯した方法が長年採用されつづけているとかんがえれば、納得がいくのである。

ところが,ネットの普及と動画投稿のコモディティ化で、英語の達人たちがじぶんの勉強法を公開している。
まさに、「学校ではおしえてくれない」貴重ともいえる「コツ」を、なんと無料で伝授してくれているのである。

しからば、なぜ無料なのかをかんがえれば、アクセスのおおい動画には、「広告がつく」からである。
いわゆる従来のラジオやテレビの「民放」とおなじだが、広告をとって放送するのではなく、人気がでたら広告がつく、という順番だから、よほどいさぎよい競争原理がはたらいている。

観る側も、あまたある動画をえんえんと視聴するひまはないので、おのずと気に入った動画には「チャンネル登録」をする。
これで、需要と供給がちゃんと成立することになっているから、「経済原理」とはおそるべきものである。

そんな現代にあって、経済原理がなかなか機能しない分野がある。
じつは、このことは国民にとって「おおきな損失」なのであるけれど、物質ではなく「情報」という特殊な「商品」では、わかりにくい特性があるために、旧態依然としたやり方がまかり通るのである。

たとえば、昨日の「ニュース」によると、日本の厚生労働省の現職課長が、韓国の空港で一時拘束され、これをうけて厚生労働省は、即時更迭したというはなしがあった。
この記事をこのブログの読者が読んでいることを前提にして、以下をつづけるので、お手数だがここで記事に目をとおしていただきたい。

発信元は、わが国を代表する「共同通信社」である。
共同通信社がわが国を代表するのは、記事のクレジットをみればわかるとおり「一般社団法人」であって、いわゆる「ナショナル・フラッグ」だからである。

また、この通信社の社名が「共同」なのは、新聞社やNHKをふくめた放送局と「共同」で設立され、それぞれに記事を「配信」しているからだ。
つまりは、わが国のニュースの「大元」なのである。

その通信社が配信した、例題の記事には、5W1H(why、what、who、where、whenとhow)が欠けている。
「記事」として、決定的な欠陥である以上に、文章になっていない。
日本語だろうが、英語だろうが、これはおなじだ。

だから、なにが起きたのか?がわからない。
「事件」の深層という以前の、なにが「事件」なのか?という意味である。

そんなことをふまえて、つぎに、「事件」をうけて、厚生労働省は即刻、官房付人事を発令したというけど、これは順番がおかしくないか?

当事者であるひとも、「課長」だ。
国家の本省の課長で47歳といえば、エリート公務員である。
そのひとが、私用の旅行で、外国の空港で一時拘束されたものの、それを解かれすでに帰国している。
空港職員とのトラブルとあるが、それはなんだったのか?

むしろ、この記事は、拘束された事情より、フェイスブックに投稿した内容と、「ヘイト発言」を「問題」にしているようだ、と推測するしかない。

読者に推測させる「記事」とはなにか?
これを「忖度」というのだろうか?
本人は、「なぜか警察に拘束されている」と書いているから、本人にも理由が不明な「トラブル」だったのだろうか?

理由なく、いきなり拘束されてしまったら、それは「変な国」である。

報道機関も組織だから、よくもこんな「記事」が複数の目を通過できて、本当の「記事」になったものだ。
それにしても、不可解なのは厚生労働省という組織である。
これが「働きかた改革」というなら、まさに笑止である。

なにかがおおきく壊れている。

犬が犬になる訓練

犬は生まれながらにして「犬」である。
ひとも生まれながらにして「ひと」である。

ほんとうだろうか?

見た目は、まったく「犬」であり「ひと」であるのだが、ちゃんとした「犬」や「ひと」になるには、ちゃんとした生育と教育がぜったいにひつようだといえば、ルソー信奉者いがい異論はあるまい。

このときの「犬」とは、「飼い犬」のことである。
いまは、「飼い犬」といえば「ペット(愛玩)犬」のことをさすようになったが、ちょっとまえまでなら「使役犬」がふつうであった。

「使役犬」とは、「番犬」、「牧羊犬」、「猟犬」や「警察犬」、「軍用犬」、「麻薬犬」に「盲導犬」などなど、しごとを持った犬をいう。
それで、そのしごとに向いた「犬種」を「つくる」という努力をひとがして、さまざまな犬種ができてきたのは周知のとおりだ。

だから、「愛玩用」という「犬種」も、おもに室内で飼いやすい小型犬でつくられるようになった。
江戸時代、「お犬様」でしられた御殿用に「狆」がいたのが、はじまりだろう。

その「愛玩用」の犬でさえ、ちゃんと「しつけ」を飼い主であるひとがおこなわないと、「反抗的」どころか「攻撃的」な犬になってしまう。
いわゆる「飼い犬に手をかまれる」ということが、全国的に「ふつうに」なってしまった。

つまり、「ちゃんとした『犬』」になっていない。
これを、ひとは、「問題犬」といったり、ちょっとまえなら「バカ犬」といった。

おカネがあるいま、その問題犬を「ひとのいうことをききわける『犬』」にしてくれる訓練士が、人気の職業になっている。
愛玩用の犬を、愛玩用の犬にする、ということだ。

しかし、これはひとからの目線である。
犬自体の目線からすると、いったいどういうことなのか?
しつけがなっていない犬は、犬にとってどういうことなのか?

すると,これは、犬の幸福論、というはなしになる。

人間も野山をかけて、獲物をとって生活していた時代があった。
おそらく、こうした時代には、ひとの猟をてつだう犬は生活に必要不可欠だったのではないかとおもう。
だから、獲物のわけまえをもらえる犬は、運動量と引換に食餌がとれた。

こうした期間が、万年単位であった。
そのまえ、ひとがひととして地球上の生物に進化するまえから、犬はオオカミとして群れで生きていた。

ひとが、どういったながれでいまの「頭脳」をてにいれたのかわかっていないが、犬の頭脳がひとほどおおきく進化しなかったのもなぜなのだろうか?
ひつようがなかった、とかんがえるのが妥当だろう。

しかし、犬はひとよりはるかに進化した嗅覚をもっていることは、子どもでもしっているし、くわしいひとなら、「感情を読み解く能力」に長けていることも指摘されている。

この「感情を読み解く能力」が、ボスにとっての群れの維持と従属する仲間にとっての「秩序」に不可欠だということなのだが、あいての脳内電流の変化も感じとっているのではないかと感じているひともいる。
それで、国家レベルでの「テレパシー」の実験までしているのだ。

つまり、じつは、われわれ人類は、犬という生きものがどんなものなのかを、くわしくしっているというレベルにないのである。

さて、そうすると、しっている、ということに、「段階」があることがわかる。
飼い犬に手をかまれるひとは、初歩段階だし、使役犬の訓練ができるひとは第二段階、愛玩犬の訓練ができるひとは第三段階というようにいえるのではなかろうか。

愛玩犬は、ひとあつかい=偏愛、される傾向がつよいから、ひとではない犬にはたいへんなストレスになることがわかってきている。
ひとでも軽いストレスは成長に好ましいものにもなるが、重度となれば変調や不調をきたして、さいごは病気になってしまう。

だから、犬が感じるストレスが、犬をして犬でいられなくなる原因にもなる。
愛玩犬の訓練ができるひとが、使役犬より上位レベルになるのは、犬への訓練だけでなく、飼い主への訓練もひつようになるからである。

じつは、この「飼い主への訓練」が、もっとも重要かつ困難なのである。
犬をひとあつかい=偏愛するという飼い主の行動は、「愛玩用」という目的と短距離で合致するからである。

愛玩犬の訓練士はさいしょに、飼い主の満足対象を、「犬のしあわせの理解」へと変換させ、じぶんのしあわせは、犬がしあわせだからだ、にしなければならない。

このへりくだった感情を、犬を飼うことの目的にさせるのは、いうほど簡単ではないのである。
初歩段階にいるふつうの飼い主たちの単純な飼育動機が、じぶんのしあわせのために犬を飼うことからきているからだ。

参考になるのは、カリスマトレーナーとして、世界的有名人シーザー・ミラン『犬が教えてくれる大切なこと』(日経ナショナルジオグラフィック社、2017年)がある。

上司と部下の関係とかへの応用になるし、著者が「不法移民」だったことからも、いろいろかんがえさせられる。

「群れ=組織」の動機が不純のままだと、大手不動産会社のアパート問題のような「事件」にもなるし、それを管轄する省庁が、どうやって言い逃れしようかという無体なすがたをさらすものだ。

犬は放置しても「犬」にはならない。
これは、ひとの社会でもおなじなのである。

「平均」でかんがえてはいけない

「統計不正」がいつものように泥沼化しているけれども、「統計」をしっているひとが追求しないで、たんなる「政府批判」を、政権担当経験があったひとたちがいうから、議論がねじれる。

究極の無責任を、国民はみせつけられているけれど、それが「選挙の年の『選挙戦略』」だという理屈らしいので、まともな筋立てができるひとなら気分がわるくなるほどの思考の倒錯であることに気づくことになる。

この倒錯した人物たちが、この国の国民を代表する国会議員なのだ、という現実は、そうしたひとたちを選んだ国民がわるい、というのが古今東西、第三者の外国人の見立てになるのがふつうで、「傍目八目」の冷徹さでもある。

とにかく、統計のかんがえ方を学校でおそわらなかったのだから、わからない国民はこの手の議論にだまされてしまう。
わが国における統計教育の「空白」期間は、なんと30年にもおよぶ。

復活したのは平成24年(2012年)度、つまり、やめたのは(昭和55年)1980年だった。
まったくもって、「ゆとり教育」そのものの「愚かしさ」を、いまになって社会が認識させられた、ということである。

いまさら、文部科学省の「視学官」というえらいひとが、「データのあつかいかた」をしることの重要性についてご託を並べている。
このなかで、先生も教わらなかったらわからない、と正直に書いている。

あたりまえである。
30年間とは、まさにひと世代だ。
日本人に、知的断絶をもたらした「文部行政」失敗の責任は、日本人全員が背負わされることになっている。

当時の審議をした「専門家」たちは、オルテガのいう「大衆」になりはてていたのだろうとかんたんに推測できる。
役人に「研究費」というエサで釣られ、魂を売った「ファウスト博士」の群れでもあるが、これらの群れは、いまもいたるところに存在している。

教わらなかった30年間の世代は、すでに社会の中堅を担っている。
日本経済が、「国家依存」する原因のひとつだろう。
じぶんでかんがえることができないから、「国」に頼るのだ。

これが、革命の伝統的な手法、「愚民化」の実践である。

しかしながら、統計が必要だという「視学」さまとて、統計を学んだわけではないだろうから、ほんとうはよくわからないはずなのに、知ったかぶりをして「指導する」。

「朝ごはんをたべると成績がよくなる」と、「相関関係」と「因果関係」をとり違えた「とちくるったキャンペーン」をやったのが、ほかならぬ文部科学省だった。
「部局がちがう」といえば逃げられる、役人のいうことを真に受けると、とんでもないことになる。

統計を勉強しなくても、なぜか「平均」だけは教わるから、ありもしない「平均値」が、平気でひとりあるきする。
だいたい役人になろうと、学生時代に公務員試験を目指すのは、成績が「平均以上」のひとたちなのだ。

ところが,グラフにしてみるという「ひと手間」をはぶくので、その成績がどんな分布図でできているかを意識しない。

毎年発表される、家計での貯蓄額も、たんに「平均」しかいわず、それをそのままニュースにしてたれ流すから、そんなばかな?ということで、「統計」を信じない。
数百万円の貯蓄が「ふつう」にあるはずがない。

ではこれをグラフにすると、まるで最新のリニアモーターカーの写真のような曲線で、はるか遠くまでつづくようにみえる。
それは、一部の大金持ちの貯蓄が、ずずーっとした線になるからである。
こうしたひとたちも「平均」の計算にはふくまれるから、多額な「平均値」が算出されるのである。

そこで、「中央値」や「最頻値」をみると、ぐっと低額な金額になってきて、庶民感覚と一致する。

こうしてかんがえると、じつは、世の中で「平均」が通用するのは「学校」という「特殊な社会」だけである。
その「学校」を卒業して、教師として学校にもどったり、公務員として役所という「特殊な社会」に入りこむと、みごとな「世間知らず」ができあがるのだ。

そして、このひとたちの特性として、「平均」で思考するようになるから始末が悪いのである。

だから、「可もなく不可もなく」が、人生の教訓になる。
そうして、とうとう、「リクルート・スーツ」という、ほとんどおなじデザインにして色合いの、特徴なき衣服を着なければならない、にまで発達した。

じぶんは「平均的な人間です」。
これをわざわざアピールしないといけないのは、「個性」の教育の完全なる失敗を意味する。

それは、ジャン・ジャック・ルソーがいう「アトム(原子)化」にすぎなかったわけだ。
ひとは、個体として「バラバラ」である、というかんがえで、社会との接点がなくなって、社会そのものも「バラバラ」になれば、それこそが「理想社会」だとしたものだ。

しかし、そんなものは社会ではない。
たんなるジャングルである。

成績のわるい子どもに、つぎは「平均点をめざしなさい」というのはまちがっている。
「わかるよろこび」を教えなければならない。
それが、ちゃんとしたおとなのつとめである。